見間違いだなどとはひとつも疑わなかった。
彼女が半ば反射的に警備の厚い一室から飛び出したことで見張りの男たちは一瞬面食らった顔をしていたが、すぐさまなまえの背を追いかける。
ガタイの良い男数人に追われては、体格的に不利な彼女が捕まるのは時間の問題だ。
何か都合の良い言い訳を考えねばならなかったが、逃げるので精一杯の彼女に脳まで動かす余裕はない。
勿論、前方を確認するだけの冷静さも失っていたなまえは、曲がり角で何かにぶつかり、その物体諸共倒れ込んだ。

「いってて…」

頭の上方から降ってきた声が男のものだとわかった途端、なまえの頭は「詰んだ」の三文字で埋め尽くされる。
が、力のない少女一人にぶつかられただけで尻餅をつくということは、彼の身体能力もそれほど高くないことに気付いた時彼女にはまだ逃れる余地があるように思えた。
男の上から退けようとした瞬間、華奢な肩に手がかかり即座に抵抗しようとしたが、それと同時に耳元で囁かれた言葉に彼女はつい拍子抜けした。

「助けてあげよっか」

男がメンタリストなどという胡散臭い肩書きを背負ってメディア出演などしていたあさぎりゲンだということに気付いたのは、呆れるほど饒舌な喋り口調を耳にしてからであった。
普段テレビなどを見ないなまえであったが、書店でアルバイトをしていた彼女は入荷してくる彼の著書なども目にしている。
彼の出演回がオンエアされた翌日は問い合わせが殺到して内心仕事を増やされたことを呪ったものだが、その彼に今まさしく救われてしまっているのは妙な心地であった。

「あれぇ〜?男がよってたかってか弱い女の子を……ってコレ、司ちゃんが知ったらバイヤーでしょ。どう考えても」

追っ手の彼らには何も後ろめたいことはない筈なのに、幻の口調にかかればまるで悪いのが彼らであるように錯覚させられる。
更に絶対的統治者である司の名前を持ち出されれば、彼らは震え上がる他なくなるのであった。
少し考えれば、なまえの行動をまるで監視するような任務を与えているのは司その人だというのに、まんまと論点をすり替えられていることに気付かずにいる。
只でさえ謎の多いなまえと司の関係性を、彼らにもどう捉えて良いものか測りかねているが故であろう。
すっかり萎縮してしまった男たちは、後のことは俺に任せてなどという幻の軽い口車に乗せられ、その場を後にした。

「……で、さぁ」
「?」
「いつまでこの体勢でいるの?…あ、俺としちゃあ別に良いんだけどね、女の子大好きだし」

この体勢、と彼が指したのはなまえが幻の身体に倒れこむような体勢のことである。
メンタリストも伊達ではないと感心しかけた矢先に軽い言葉が雨のように降ってくるのに興醒めした彼女は、深い溜息を吐きながら身を起こした。

「大層ご立派な趣味をお持ちで」

年相応に見られたことのないなまえからすれば、つまり幻が女子中学生までを守備範囲としている認識とイコールになる。
刺々しい言葉を吐き捨てながら所々についた砂を手で払って背を伸ばすと、そっと撫でるような指先に顎を持ち上げられた。
切れ長の瞳がこちらを見てはいるが、まるで視線が合っている気がしない。

「なんていうか…きみって落ち着いてて大人の魅力感じちゃうなあ」

そんなことは生まれてこのかた一度も言われたことがない。
同じような意味で突き返そうとした言葉を口にするより先に、彼の言外に在る別の意図を理解するほうが早かった。
人間、コンプレックスを肯定されるとその人物に対して好感を抱くものだ。
恋愛もののフィクションにありがちな「そんなこと言ってくれたのあなたが初めて!」と恋に落ちるのはその心理を突いている。
つまり彼はそれを利用してなまえに取り入ろうという魂胆なのだ。
幻の手を弾きながら彼女はその目を見つめ返した。

「…なにが目的?」
「話が早くて助かるよ」

彼は崩壊以前の世界でぱらりと見た心理本の印象通り軽薄であったが、形容しがたい怪しさを含んだ幻の笑みはそれらより遥かに信頼に足る気がした。



「ところで、なまえちゃんはなんで逃げてたわけ?」

互いの簡易的な自己紹介を済ませると、幻は早速本題に入る。

「…知り合いが、居たように見えたから」
「へぇ」
「浅霧さんは」

幻が歩いていた道の終着点は司の部屋だった。それ以外にはどこへも続いていない一本道だ。
そもそもあの部屋が司のものであることすら傍目から見れば定かでないものを、彼は初めからあの部屋を目指して道を登っていた。
つまりそこから考えられることは。

「私に何を聞きたいの?」

聞かれても答えられることは限られているが、ほぼ他人との接触が許されていない彼女にとってこれは、情報を得る千載一遇の機会であった。
彼の企みが何なのかは分からないが、司のことも崩壊したこの世界のことも分からない現状、幻の存在はなまえの好奇心を擽るのに十分過ぎるものだ。
みょうじ なまえは生まれながらにして知ることが生き甲斐だった。

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