付き合って一年経った頃からだろうか。
彼女の家で帰りを待っていると、帰宅した彼女はいつも眉間に皺を寄せていて。
最初は仕事が大変なのだろうと、そう思っていた一松にも徐々にそうではないのではないかという気持ちが芽生え始めた。

「来てたんだ」

目も合わせずにそう言ってバスルームに消えてゆく彼女の、本心はきっとこうだ。

なんでいるの?

「ゆっくりでいんじゃない」

ろくに就職活動もせず毎日を遊び歩いて過ごしている一松へ彼女が言う、その本音はきっと。

はやく仕事見つけたら?

なまえは決して口では彼を責めたり焦らせたりしない。時には自分の非を責められたほうが楽なこともあるのだなどと、一松がそんな気持ちを知ったのは彼女が居たからに他ならない。
なまえが自分を甘やかす度、どこかで責められているのではないか、本当は早く働けと思っているのではないかと考えてしまう。
彼女の隣にいると、駄目な自分が浮き彫りになるのが酷く惨めで辛かった。
こんな感情を抱くのはきっと、彼女を妬んでいたあの頃以来だ。

一松となまえが付き合い始めた時、彼の兄弟達は口を揃えてこんなことを言った。

似た者同士って感じだよな。

当時は素直に受け取った言葉も、成人した今となっては皮肉としか思えない。
初めから自分と彼女は似た者同士なんかではなかったし、大人になればなるほど更に落差が目に見えてしまう。
かたや社会人として立派に自立している彼女と、かたや親の脛齧りで日々を過ごすクズニート。
"どこが"。
自らを卑下して一松は誰に問うでもなくひとり吐き捨てた。

彼女との記憶を思い出そうとする度、そんな捻くれた感情が一緒に蘇ってくるのが悔しくて一松は道端の小石を蹴り飛ばす。
苦しみよりもずっと、もっと沢山綺麗なものがあった筈なのに。
もう何年も積み重なった彼女への劣等感は一松の首を締めるだけの凶器に成り果てていた。
どうにかひとつでも思い出せないだろうかと記憶の箱を弄ったとき、ひとつの記憶が蘇る。

なまえは就職してから半年後、賃貸マンションの一室を借りて一人暮らしを始めた。
それと同時に預けられた合鍵はまるで恋人である証のようで誇らしくて、浮ついた気分で柄にもなく鼻歌混じりに帰途についたのを鮮明に覚えている。
ようやく見つけたそれですら彼の主観で、あの時のなまえの本心など解らない。
過去の軌跡を辿りながら一松は、手を突っ込んだジャージのポケットの中で指先に触れる硬質な感触に行き当たった。

「……あ。鍵…」

空が白み始める頃、高架線下を歩きながら一松は小さく一人ごちる。

なまえには悪いけどこれは貰ってくよ。
…あぁでも、やっぱ気持ち悪いか。

働かない頭でそんなことを考えて、ポケットの中で音を鳴らす其れを弄びながら返しに引き返そうかと足を止めたが、やはり歩き出した。
折角決心がつきそうなのに、あの部屋の前についたらきっとまた彼女に会いたくなってしまう。それに。

なまえならきっとこれくらいのこと許してくれないかな、なんて淡い期待を抱いてみる。
だってどうせ今日が最後だから。
あの冷え切った部屋を訪れることも、別れを告げられずに涙する帰り道も、きみの望みを叶えてやれない駄目な僕も、なまえのことが好きで仕方がない僕も。
今日で全部、終わりにするから。

一松は彼女のマンションから歩いてきた路を振り返る。なだらかな弓なりに続いた線路沿いの遊歩道。
藍色の世界に一点差し込んだ、不自然なほどの眩い光。
一松はけたたましい警報音が鳴り響くと共に降りてくる遮断機を無視して線路の上に立った。
不思議と恐怖はない。むしろ清々しささえ感じた。もう彼女に会えないと思うと寂しかったが、もう彼女を煩わせずに済むのだと思うと晴れやかな気持ちだった。
これから彼女は何に縛られることもなく生きることができるのだから。

許して欲しい、こんな形でしかきみを自由にしてあげられないこと。
正しい別れを迎えられないこと。
だってどうしたって僕は、きみのことが。

「すきだったよ、なまえ」

警笛を鳴らしながら過ぎ去って行く始発列車が運んできた突風で髪が吹き乱れる。
閉じていた目を薄く開いて遠ざかって行く電車の後ろ姿をぼんやり眺めていた一松は、左手のひらに感じた温もりに気がついて目を丸くした。
死の直後というのは一番見たい夢を見るのかもしれないと錯覚しながら、未だはっきりしない頭で彼はその名を呼ぶ。

「………なまえ」

ここに、彼女がいるわけがないのだ。
やはり己の死を自覚して、こんな幸せな夢を見られるのなら命を捨てた甲斐あったと無自覚に笑みを浮かべる。しかし。
肩で息をしていた愛おしい人が徐に顔を上げたとき、彼にはそれが夢なのか現なのか判らなくなった。

「…なんで、泣いてんの?」

充血した双眸から溢れる大粒の涙さえ綺麗で、親指の腹でそれを拭うと濡れた頬を包み込んだ。
あまりに現実感を持った肌の感触と生ぬるい体温が奇妙で、もしもの仮定が彼の中で生まれたとき、ひどく震えた手が一松の手を強く握った。

「………いき、てる…っ」

掠れた声が呟いた途端、堰を切ったように涙を零しながら彼女はその場に蹲って声を上げて泣いていて。
そんななまえの姿を見たことがなかった一松は暫く放心しながら彼女を見つめていたが、ようやく解った。これは彼の未練が見せた夢などではなく、紛れも無い現実なのだと。



彼はただ無言で今一度、歩いてきた路を引き返す。別れの為に歩いてきた時と違うのは、一人ではないということ。
人差し指と中指だけで繋いだ手は少しばかり頼りないかもしれないが、それでも今は、この手を解きたくはなかった。

朝日は昇る。
街を照らしてゆく。
独りでは見られなかった筈の景色が滲んで、彼は指先に力を込めた。

正しい糸の縺れかた

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