自分が奪取した寝床の向こう岸で静かに寝息を立てる恋人の寝顔を眺めながら、一松は深い溜息をついた。
今日こそ彼女が求めている言葉を告げてやろうと一大決心をして部屋を訪れたというのに、今までにも幾度となく口の中で反芻してきた言葉もいざ彼女を前にすると出てこなかった。
誤魔化すようにまた馬鹿みたいに身体を求めて、けれどやはり事が終われば本来の目的を思い出す。
そうして寝床に居座った彼は実に二時間もの間沈黙していたが、頭の中では何度も同じ言葉を繰り返していた。

"別れよう"。

たった五字を音に乗せるだけだというのに、言葉が喉に詰まってそれが彼女に伝わることはない。
本当はもう何年も前から熟成し続けて来た言葉をそろそろ取り出すべきだと思うのに、どこかでそれを拒む自分がいる。

いつからだろう、彼女の隣にいるのが辛くなったのは。起きている間には見られない、皺の寄っていない眉間を見つけてやはり今日も言えなかったことを後悔した。



始まりは高校二年の始業式。教室に足を踏み入れると黒板に張り出された座席表を確認して自分の席を探す。
しかし自分の席である筈のそこには眠たそうに頬杖をついた女子生徒が座っているではないか。
座席表を見間違えたのかと思ってもう一度確認し直してみるが、やはり彼女が腰掛けているその席が自分のものに違いなかった。
間違いを訂正してやると、彼女は黒板に掲示された紙を一瞥して興味もなさそうにひとつ後ろの席に収まって行く。
一松がその時抱いた彼女の第一印象は、"適当な奴"だった。

クラスメイトとして時間を過ごすほどそれは更に深く印象付いて、当初彼が思った通り彼女は適当だったのだ。
出された課題は毎回席の近い奴に見せてもらっていたり、寝坊して遅刻しても堂々と授業中に前の扉から入って来たり、自分からは話をしないのに聞かれればきちんと自分の意見を持っていたり。
そんな彼女はクラスでは浮いていて担任も手を焼いているような、謂わば厄介者。
けれど周囲なんて全く意に介さない様子で過ごしている彼女に彼はいつしか苦手意識を抱くようになっていたのだ。

入学当初から六つ子という話題性により周囲から奇異の目を向けられてきた彼は、それを利用してうまく人間関係を築いている兄弟達より不器用だった。
高校入学から一年も経てば松野四男なんて呼び方がすっかり定着して、担任にすらそう呼ばれる始末。
まるで六人まとめて1セットみたいで、松野一松という個人を見てくれる人間なんてこの世にひとりも居ないのだと腐れていた。

そんなふうに斜に構えていた彼は、必要以上に他人と距離を置いていた為にクラスでも孤立していたのだ。
浮いた存在という意味では、なまえと同じだったのかもしれない。

だから、余計に彼女を見ていると腹立たしかった。
不安定な綱の上を一人でも上手に歩ける彼女を見ていると、独りを好んでいるように見せかけながら本心では他者を求めている自分が下らないと言われているようで。
彼女を認めてしまったら、自分を否定してしまうことになりそうで。
とどのつまり一松はなまえを妬んでいた。
自由奔放に綱渡りを楽しんでいる彼女のことが、羨ましかったのだ。

そんな彼女の印象が変わるのは、高校三年に進級して間もない頃だった。
放課後、書類を教師に提出する為に立ち寄った職員室の帰り。三年の教室を通り過ぎようとした時だ。

「松野くんってさー」
「どの松野?」
「四男」
「あぁ、うん」

どくりと心拍が脈を打つ。内心、聞いていて心地の良い内容でないだろうことはすぐに判ったが、怖いもの見たさで立ち止まってしまった。

「なに考えてるかわかんなくない?」

可愛らしい女子の声で紡がれる言葉とは裏腹に、どこか見下すような色を含んだ声音。

「あーわかる、怖いよね」

幾度となく言われてきた言葉だ、今更なんのことは無い。どうってことはない、そう言い聞かせてはみたものの、水に溶け出した絵の具のようにそれは瞬く間に心を染めてしまう。
つい立ち止まった足を動かそうとした時、覚えのある名を呼ぶ声がして反射的に挙動が止まる。

「ね、なまえもそう思わない?去年同じクラスだったでしょ」

言葉の当たりは柔らかいのに同意以外の返答を許さないような雰囲気に、彼女ならなんて答えるのだろうなんて、淡い期待を抱いてしまったのかもしれない。

「…誰それ」

心底興味がないというふうに吐き捨てる声。けれど彼の心に生まれたのは悲観よりむしろ"彼女らしい"という呆れで。つい、口許が緩んでしまった。

「てか話したこともないくせに考えてること解るほうが怖いでしょ」
「いや、むしろ一年間同クラで誰かわかんないほうが怖い」

決して一松を擁護したわけではないしむしろ彼女が他人に無関心なだけだったが、ただそれだけのことが彼には救いだったのだ。
その時から嫉妬は憧憬に変わり、一松はほんの少しだけ変わった。
それで選択したのが不良の真似事なんて、高校三年にもなってやることが子供っぽいという自覚はあったが、彼は真面目に物事を考えることを諦めた。
自分は未成年の身で煙草を吹かして粋がっている小さな奴なんだと思えばちっぽけなプライドすら捨てられるような気がして。事実、己に期待することを辞めればずっと生きやすくなったのだ。

そんな経緯があって屋上で彼女と出会したとき、憧憬が恋心に変貌するのにそう時間はかからなかった。



なまえが眠りに入ってから三十分ほどが経過して、ようやく彼はベッドからのそりと腰をあげる。
どうやら日々の仕事で疲れが溜まっていたらしい彼女が、恐らくこのまま暫く起きないだろうことは過去の経験からわかっていた。
ベッドの上に放り出されているタオルケットを手に取ると、身体を冷やさぬようそっと肩に掛けてやる。

規則的な寝息を立てる恋人は、高校を卒業してから少し変わった。
恐らくその原因が自分にあろうことは薄々気付いていたが、彼は長いこと見て見ぬ振りをしてきた。
未だ彼女の隣を陣取っている己が嫌いで、恥ずかしくて、そのくせ彼女に拒まれないことに安堵なんかしてしまっている自分。酷く愚かで浅ましい、惨めな自分。
己の首に掛けた手に力を込めてみる。いっそこのまま息耐えることが出来たなら、別れの言葉も告げずに済むのに。
けれど、彼女が寝ている間に彼女の部屋でそんなことをしたら迷惑が掛かるから、そう思い立つとそっと手の力を緩める。
一気に肺に取り込んだ酸素を必死で全身に巡らせるべく何度か呼吸を繰り返し、歯を食いしばったまま溢れたのは嗚咽と涙、それから。

「…ごめん。…すきだよ……」

ごめん。
きみが僕を突き放さないのをいいことに僕はきみの気持ちに知らぬふりをして、いつまでもその隣に居座っている。ほんとうはもうきみが僕なんか必要としていないことなんてとっくに気付いているのに。
そのくせなまえが求めているものを、僕には与えられやしない。なにひとつ。
ひとつだって与えられやしないくせに。
それなのに。

「……こんなに、すきなんだ…」

面と向かって想いを口にする勇気もないのに、そう自らを皮肉ってみても今はただ苦しいだけで。
閉ざされた瞼に口づけをひとつ落とす。
パーカーの袖で目元を拭うと、一松はもう何度目かも分からない挫折と共に部屋を後にした。



高校卒業後、彼女が一般企業に就職する一方で彼はバイトすらせず日々をだらだらと過ごしていた。"やりたい事がない"なんて、よくありがちな言い訳を並べてニート生活を謳歌していた彼にもそれが良くないことだという自覚はあったが、いざ行動に移すのは思いの外気力が要るもので。
なまえは「働きたくなったら働けば良い」と言うが、本当にそんな日が自分に訪れるのだろうか。
鬱屈とした気持ちを抱えながら惰性で生きていると、ふと思ってしまう。

もしこのまま一生働きたいと思えなかったら?

そんな疑問が脳裏に浮かんだとき、決まって次に彼が思い描くのは恋人との未来についてであった。
いつか愛想を尽かされるのではないか。お前なんか要らないと無残に切り捨てられてしまうのではないか。
際限なく湧いてくる最悪の未来を想像するたび、不安を拭い去るように彼女はそんな人間じゃないと頭を振る。

でも。
ほんとうにそう言い切れるだろうか。自分はそれほど彼女を理解できているのだろうか。
なまえはいつも一松にとって都合の良い言葉をくれる、一番欲しい言葉を。
彼女はどんな時だって肯定も否定もしなかった。例えば彼が彼女と交わした会話の中から思い出せるものといえば、こんなものがある。

「なまえ甘いもの好き?」
「コーヒー牛乳は嫌じゃない」

一見ずれた返答のようにも思えるが「嫌じゃない」で構成される意思表示は、なまえの価値観をそっくりそのまま表しているようで実に彼女らしいと、一松は笑う。
それが彼女なのだと受け入れていたつもりだが、それを受け入れねば一松は自分と彼女との関係に疑問を持たねばならなくなるが故の、思えばそれは妥協だったのだろう。

一松はなまえから「好き」の言葉を聞いたことが一度たりとてなかった。

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