大阪より東方にて妖術師が単身戦さ場を荒らし回っているなどと耳を疑う報告が入ったのは、つい先日のことだ。
その"妖術師"を差すのが恐らく、利休であろうことを推測するのにも然程時間を要さなかった。
それが彼の愛弟子の耳に入るのももう時間の問題だろうと、執務室で軍師は紙面に筆を走らせながら思案する。

さて、それならばいっそのこと今回の件は彼女に一任してしまおうか。
主君を裏切りあまつさえその顔に泥を塗ったとあれば、三成では周りが見えなくなってしまうことだろう。その点、何時でも私情を挟まず冷静に対処できるなまえは適任である。
が、しかし本当にそうだろうか。
署名を終えた筆を置くと、半兵衛は文机に肘をつき指を鼻先で組んで静かに息を吐く。

彼女は利休を慕っている。
とはいえ、長年彼の下で茶や所作を学んできたなまえが師を慕うのは当然だ。
喧騒の届かない場所に建立した茶室では、きっと人の生き死にや血生臭さなどとは無縁でいられる唯一の穏やかな時間を過ごしていたに違いないのだから。
初めに茶を学ぶよう提案したのも半兵衛自身であり、今でも彼女が利休へ情を抱いていることは咎められない立場にある。
如何に聡明な彼でも人が他者に抱く感情さえ管理する策は見当たらなかった。

問題の重きは"情"ではない。それに左右されぬこと、必ず生きて戻ってくること、その二点に尽きる。
しかし、他の遣いでは話も出来ず骸とされるのが関の山。大谷には別の任があるし、三成では先述した通りであろう。
やはり…。

唯一つの結論に半兵衛が思い至った時、その思考を打ち破ったのは襖の向こうから静かに投げ掛けられた呼び声だった。

「半兵衛様、失礼致します」
「あぁ、構わないよ」

彼女がここへ足を運ぶことは予測していたが、彼が思っていたより早かった。ほんの僅かばかりだが。
物音を立てぬよう、しかし普段よりもどこか焦りの見える雑な所作がその心を如実に表していた。
文机に向く半兵衛の後方に正座すると同時に着けていた面頬を外し丁寧に膝の脇に置く。
畳に手を突き、見事なまでに美しい姿勢が傾いて旋毛がこちらを向いた。

「どうしたんだい?」

なまえが何を思って頭を下げているのか半兵衛には解っていたが、彼女の言葉を聞かずして心を決めつけるのは些か乱暴な気がした。
徐ろに頭を持ち上げ、睫毛は俯いたままなまえは口を開く。

「東方に現れた妖術師の話はもう既に耳に入って居られると思いますが、…この者の視察を私に任せて頂けませんか」
「…理由を聞いても良いかい」

そう尋ねられるのを見通していたように、なまえは再度深々と頭を下げた。

「ご無礼を承知で申し上げます。半兵衛様も私と同じ考えであれば、この者は千利休で間違いありません」

無言で肯定する半兵衛の目を真っ直ぐ射抜くと、続けて彼の危惧しているような結果にはならないと断言する。一切の澱みも見えない澄んだ瞳の中には、揺るがない決意が宿っていた。

「私は、情になど絆されません。かつての師と対話したとて、豊臣を裏切るような真似は絶対に致しません。ただ、私は…」

あの日何があったのか、師に何が起きたのか。その真実を知りたいだけなのだと言ったなまえの微かに振れた瞳は、未だ利休の無実を信じていた。
黙って話に耳を傾けていた半兵衛は、肩肘を文机に突いたまま再度考えを巡らせる。

あの日利休との茶会で何があったのか。
秀吉に尋ねてみても、何故か彼は頑なに返答を拒んだ。ただひとつ返ってきたのは「あれは民の弱さを白日の下に晒す」という漠然とした答えのみ。
半兵衛自身としても真実を知りたい気持ちはあったし、元より彼自身利休が裏切ったなどとは思ってもいない。
秀吉が先に手に掛けようとしたのを、彼は自衛しただけに過ぎないのだ。
有能な人材である利休を豊臣に呼び戻したいというのが半兵衛の本音であるが、主である秀吉はそれを許しはしないだろう。

秀吉がそうまでして隠したい心を、利休は暴いてしまったというのだろうか。
では、その心とは一体何なのか。
確証はないが、愛弟子であったなまえにならば話す気も起きるかもしれない。

「…わかった。なまえ君、彼のことはきみに任せるよ。ただ、あくまで対象は"妖術師"であって"千利休ではない"」

その言葉の意図するところは、態々説明して聞かせずともなまえに伝わったらしい。
豊臣の裏切り者という扱いを受けている利休であったならば、始末せねばならないのだから。

「半兵衛様…」
「それじゃあ、報告を待っているよ」

安堵した柔らかな笑みを浮かべながら、なまえは「はい」と頷いて、それから面を着ける。
失礼致します、頭を下げながらそう言って閉ざされた襖に描かれた鶴を眺めながら、半兵衛の脳裏には先見たなまえの表情が浮かんでいた。
はて、彼女は昔から"あのような"顔をする娘だっただろうか。
半兵衛の記憶の中ではいつも、なにかを諦めたような表情を浮かべていたような気がする。
生きることに積極的になったのならば良いことと喜べば良いのだろうが、何が彼女をそうさせるのか気になる。
他の者には判らないかもしれないが、長いことなまえを見てきた半兵衛や秀吉はその些細な違いに気付いていた。

彼女の雰囲気に変化が起きたのは、確か先日佐和山城へ遣いに向かわせてからだろうか。
そういえば最近三成が使える人材を拾ったらしいと聞いたが、或いは。
これはどんな人物か一度会っておくべきかも知れないと思い付いたとき、半兵衛は自嘲を含んだ笑みを湛えた。これではまるで、過保護な親や兄弟のようではないか。
酷な命令を彼女に下さない辺り、策略と言いながら結局のところ彼もいつしかなまえに捨て去れぬ情を抱いてしまっているのであった。

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