サビ助と彼女の出遇いは数年前、密かに兵を集めていた黒田が叛逆の罪に問われたのと時期は重なる。
それ以前、家康が豊臣から離反したことを引き金に臣下の一切の不審な行動を許さないような空気が漂っていた。
皆が緊迫していた中、利休が他者の感情の渦に飲まれてしまったことをきっかけとして師の身体に棲まうもう一人の人格が目を覚ましたのだ。
そのときなまえは恐怖するでも気味悪がるでもなく、たった一言彼に問うた。

貴方は誰です?

彼は真っ先に視力を疑ったが、そうではないようだった。サビ助が移動すれば瞳は彼を追いかけてくるし、瞳孔の収縮もきちんと見られる。
そうして今度は、やはり淡々とした口振りで先生は眠っているのかと訊ねるものだから思わず吹き出してしまった。

サビ助はいつも退屈すると身体の持ち主であるワビ助の中から彼女を眺めていた。
印象は、"器用な娘"だった。
自分の感情を無いものとするよう箱へ詰めて、強固な鎖で堅く閉ざした上に南京錠を掛けているような。
更に言えば其れを彼女は自らも手の届かないような深い意識の底に沈めてしまっていた。
そうまでしなければ、ワビ助の前で嘘などつけるわけが無いのだから。

こんな言い方はサビ助の手前勝手かも知れないが、知りたくもない他人の感情を一方的に押し付けられるワビ助の苦悩を思えば、彼にすら暴けぬ心を持つなまえをふたりが贔屓するのは極自然なことのように思えた。
臆病な性質のワビ助が外界に拠り所を見つけることが出来たのは、サビ助にとっても好ましいことであり、どこか物寂しいような思いもある。

一方で、たった今そんななまえにすら騙しきれない感情が溢れることでサビ助は呼び起こされたのだ。ワビ助には受け止め切れない感情を自分なら受け止めることが出来る。
密かな優越感に浸りながら彼女がただ求めているのが弟の無事だということはサビ助自身解ってはいた。
が愚かにも、そうして自身を必要とされる錯覚に酔うのは、どういうわけか悪い心地はしなかった。

ワビ助の中から眺めているなまえは、実際に同じ目線に立って見ると思っていたより人間臭い。
それが何を意味するのか、幼い頃から片割れの為だけに生きてきた彼には想像もつかなかったが、魍魎などと呼ばれてきた彼を人たらしめるのは彼女であった。

目の前で瞳に溜めた涙を零すまいと何度も瞬く姿がいじらしい。普段目にかかることのない年相応な姿のなまえを見ていたサビ助は、背筋に百足が這ったようにむず痒くて仕方がなかった。
名も知らぬ感情のやり場も分からぬまま、ただ、終ぞ零れたその雫を親指の腹で拭ってやる。
長い睫毛に指先を擽られるとこそばゆくなって、弾かれたように手を退いた。

濡れた瞳を微かに見開いて暫く彼を見つめていたが、小さく左右に振れると困ったように笑う。

「サビ助殿にまで気を遣わせてしまった」

それが何故か無性に腹立たしくなって、腹癒せにその右頬を摘んでやれば。
口が裂けてしまう、などと冗談を言える程度には平常心を取り戻したらしいなまえの頬は柔らかく滑らかで、心なしか熱かった。

「何言ってんだ、もう裂けてんじゃねぇか」

息をするように悪態を吐く自身の口を、彼が呪ったのは後にも先にもこれきりであろう。



耳に触れるのは障子と襖を隔てた部屋から聞こえる微かな話し声と、刺すような寒気だけだ。赤い耳の縁は感覚が失せ始めている。
縁側の廊下で待機しながら、なまえは主君と師との二人だけで行われている茶会の終了を待っていた。

まさしく巨漢と呼ぶに相応しい体格の持ち主である秀吉に通常の茶室は狭く、故に利休が茶頭となって間もなく建設を命ぜられたのが、屋敷の奥まった部屋に位置する主君専用の茶室であった。
彼の弟子として道具の運搬などに付き添っていたなまえ以外の人払いは既に済ませてある。
秀吉と利休の茶会が行われる時、忠臣である三成や唯一友として肩を並べる半兵衛ですら近辺に近寄ることを禁じられるのだ。
利休の性質への配慮か、それとも別の思惑があってのことなのか、軍師殿にすら測りきれない主君の思惑などなまえには知る由もない。

面を着けているお陰で体感としては幾らか寒さが和らぐが、師走も半ばを過ぎた外気に晒されて半刻も経てば細い肩が小刻みに震えていた。
左手で右の肩をさすってみる。右腕が無いので左の肩に触れることが出来ぬまま、在る筈の腕さえ失くしてしまったような錯覚を起こすのも、何度目のことか判らない。
そろそろ話を切り上げてはくれないだろうかと背後の閉ざされた障子を見やってみても、二人の様子は伺えそうにない。

仕方なしに庭へと視線を戻して、なまえは鉛色の空から綿毛のようなものが降りてくるのを見た。
次々と地面に降り立っては溶けてゆくそれを雪だと認識し、屋根の外に手を伸ばしかけたその時だ。

何か大きな物がぶつかり合うような、木枝がバキバキと折れるような、異様な音が聴こえてなまえは振り返る。
咄嗟に彼女の口から出てきたのは、利休の片割れの名であった。

「、サビ助殿……?」

呼ばれたように障子を蹴破って現れたのは、よく見慣れた気品溢れる師の姿ではない。
長い髪を揺らめかせた彼の手に扇子が握られている事に気付くとなまえははっとした。

「貴方まさか…秀吉様に?」

険しく部屋の奥を見つめていた瞳が、瞬間だけ彼女の瞳とかち合う。
信じ難いものを見るような、何処と無く愁傷の色を含んだ目を向けられ、何を思ったか彼は。

「なまえ」

瞬きの合間で距離を詰められたと思えば、彼の端正な顔が間近にある。
師よりも鋭い双眸がなまえを射抜く。困惑に揺らめく彼女の瞳を捕らえたまま、恐らく一秒もそうしていなかった。
畳が軋む音を聴いた途端彼は屋根へと飛び移り、邸の屋根から屋根へと身軽に駆けて行く。
面越しに押し付けられた唇の温度も知らぬまま、彼女は遠のく後ろ姿を見届けることしか出来ずにいた。

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