冷ややかな風が身体の熱を奪って行く。夜鳥の鳴き声と鈴虫の閑かな音色の中にひとつの影があった。

普段とは異なった匂いのする寝衣と普段より上等な寝具に落ち着かず、なまえは充てがわれた客室からそっと抜け出した。
濡れ縁に出てみれば、満月の灯りだけが煌々と彼女の瞳を照らしている。
庭園に植え付けられた黄金がこちらの様子を伺っているようで、白昼であれば溌剌として見える其れはまるで別の顔を覗かせて居た。
普段過ごしている大阪城でも嗅いだ覚えのある香りに、仄かな甘やかさの中に凛然さが混ざったそれが丹佳のものだと思い至って深く息を吸い込んだ。
彼女の心が乱れているのは、なにも慣れぬ環境に身を置いている為ではない。

例え夜更けであろうと警護兵などと出会すことに配慮して面頬を着けて居たのは正解だった。

「大谷殿か」

ふらりと現れた気配へ向かってなまえは呼びかけた。
三成が未だ大阪に居た頃から、寝付けぬ夜に縁側で月を眺めることの多かった彼女の微かな憂鬱をどこからともなく嗅ぎ付けて来るのが大谷という男であった。
音も立てずになまえの後方に移動してきた人影は、くつくつと喉を鳴らして白状する。

「流石、宗匠よのう」

引きつった笑い声は夜中に耳にするには些か不気味すぎるようにも思えるだろうが、彼女にとって耳馴染みのあるそれは悪戯が成功した子供のようだと思えた。
はなから気配など消そうともしなかった癖に、何をそんなに嬉しがる必要があろうか。
呆れたように横目で彼を見遣ると、面の下でひとつ短な息を吐く。
彼の喜びの原因など考えずとも解っていた。

佐和山の城が三成に与えられる前のこと。ちょうど虫の声と丹佳の香りに包まれた、今夜とよく似た秋の宵であった。



その夜も寝付けずにいたなまえは夜風に当たり心を落ち着けるべく静かに部屋を出た。
ひたり、ひたりと裸足の裏から伝わる冷ややかな木の感触に、小さく身震いする。
日中はまだ汗ばむ程暑いというのに神無月とはこうも寒暖差の激しいものかと、一年ぶりの季節の再来に感じたのは風情よりも腹立たしさが先だった。
日中にたっぷり浴びた陽の温もりをどこへやったのか、心中そんな文句を垂れられていることを知ってか知らずか、木板は彼女が歩みを進めるたびに微かな悲鳴をあげる。

月明かりだけを頼りに辿り着いた先は茶室であった。普段は秀吉の茶頭でありなまえの師でもある利休が過ごしている、大阪城の外れに建てられた閑かな場所だ。
陽光に照らされる時間帯ですら喧騒とかけ離れた其処は、夜なら尚のこと静寂に満ちている。
厳密にいえば虫や風の音は在ったが、先まで高波のように荒ぶっていた心はすっかり落ち着きを取り戻していた。
しかし、ようやく訪れた穏やかな水面に、一滴の水が波紋を広げてゆくような違和感を感じてなまえは振り返る。
柱の陰で揺らめいた人影に向かって言葉を投げ掛けた。

「出て来てはどうだ、悪夢喰らいさん」

恐らく途中から後ろを尾けていたのだろう、暗闇から姿を現したのは彼女が予想していた通りの顔であった。
知らぬ者が見れば幽霊、などと誤解するのだろう。

「ひひ、われを妖呼ばわりとは」
「あながち間違ってもいないだろう」

非難と言うには酷く愉快そうな声を上げながら、大谷は彼女の近くへと浮遊してくる。
冗談らしく細めた目で彼を見遣れば、肩を揺らして肯定とも否定とも取れない応えが返ってきた。

「して、ぬしは何故ここにいる」

肩の揺れも収まった頃、大谷は思い出したように態とらしい口ぶりで訪ねる。
眠れぬから、という返事が口をついて出そうになったが、"鼻の利く"彼のことだ。そんな建前で納得する訳もない。
なまえは仕方なしに白状することにした。

「昔のことを思い出していた」
「…昔とな?」
「あぁ、故郷に残してきた弟のことだ」

思い浮かべるのは、生まれつき二色に分かたれた髪色。それに加え風を操ることの出来た弟は村でも異端の存在として認知されていた。
そんな二人の面倒を見てくれたのは、血の繋がりのない郎爺だった。
なまえは朝から晩まで畑仕事をして、生活を支えた。村人達から奇異の目を向けられようとも年の離れた弟の為ならば辛くはなかった。

"ずっと傍に居るよ。私がおまえを守るから。"

弟は同じ年頃の子供からの心無い言葉をぶつけられたり、時には石が飛んでくる事もあった。その度に彼を守ってきたのがなまえだが、そんな遠い昔に交わした約束を破ったのも自らである。

「悔やんでも悔やみきれないさ」

あの日のことは。
苦い記憶に伏せられた睫毛を眺めながら、大谷は暫し思案した。
彼女の過去を詳しく知る訳ではないが、そこまで想う家族なら捨てなければ良いだけの話だ。
彼女には並々ならぬ事情があったのだろうことくらいは容易に想像がつく。
気に病む事ではないと言ってやるのは簡単だが、果たして自分にそう言われて彼女は素直に言葉を受け取るだろうか。
励ましなど柄でもない。が、不幸を喜んでやるよりは遥かに手近に思えた。

「ぬしは星に恵まれておる。…また巡り会うこともあろう、双方生きていればの話だが」

励ましの言葉を彼から掛けられるなど、思ってもみなかった。面を着けていてもそんな本音が手に取るように分かる程、きょとんとした丸い瞳が面白くて大谷はまたも肩を揺らすのだった。



「私は幸せ者だよ」

あの夜、大谷から掛けられた言葉を思い出しながらなまえはぽつりと呟いた。

「あの子と生きてまた出会えた、それだけで十分だ」

言葉とは裏腹に、じわり胸に広がって行く染みはそれをいとも簡単に否定する。十分な筈だというのに、心は満足を知らぬ獣のように貪欲に次を求めてしまう。

先ほど左近に弾かれた手の甲が、今更になって疼くような錯覚を覚える。
心臓をぎりりと握られたような痛みに侵食されていくが、頭では姉としての資格などとうに失われている自覚もしていた。
それでもなお昔のように呼んで欲しいなど、烏滸がましくもそんな欲を抱いてしまった自らを戒めるように拳を固く握り締めては、ふと思い立ったように力を逃した。

煌々と輝く月を眺める横顔は諦めがついたような、無を受け入れる覚悟を決めたような瞳をしている。
つい最近にも見た覚えのある表情が胸に引っ掛かった。あれは確か、彼女の師である利休が豊臣を追われた時である。
なまえはきっと、時間を掛けてでも必ず其処に落とし所を見つけるのであろう。
いつか師を諦めたのと同じように。
彼女には手を伸ばせば届く距離にある幸すら自ら遠ざけるようなきらいがある。
不幸を選択する原因に触れずとも、大谷にはその理由がなんとなく解ってしまった。

大阪の城で彼女が読んでいた幾つかの書のひとつに、老子の教えを説いたものがあった。
神仏の信仰に疎い大谷ですら、老荘思想には思わず頷ける教えが説かれている。

"上善水の如し"。
彼の言葉で組み立てるならばこうだ。
"不幸の中こそが最も幸である"。
例えば、富んだ者が貧困を知れば絶望を覚えるのと同じように。初めから持たなければ、幸を知らずにいれば、絶望する必要など無いのだから。

大谷には他人に口出しする気は毛頭ない。むろんこの時も、その覚悟を見届けるくらいはしてやろうと考えていた彼であった。が。
軽口を叩くあの人懐こい顔が脳裏を過ったとき、なんとも憐れだと思ってしまったのだ。
その意味をよく咀嚼せず口をついて出た皮肉は、言葉にすれば良く斬れる刀程の威力を放っていた。

「ぬしは再びあれを、捨てると申すか」

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