其処は人々の話し声や、子供たちの笑顔で溢れていた。
右手を父と、左手を母と繋いだ自分の手はすっぽりと覆われていて暖かく、少女は機嫌良く腕を振り歩いた。



じりじりと鳴り響いた卓上時計の頭を勢いよく押し込むと、みょうじは温度の低い指先で目を擦る。
まだ睡眠が足りないとでも言うように瞼は再度落ちて行こうとするが、眉根を寄せて重たい体を起こした。
時刻は朝の6時。いつもより一時間遅い起床に溜息を吐きながら、冷水で雑に顔を洗い、ランニングウェアに着替え簡単な準備運動を済ませると家を出た。みょうじは毎朝トレーニングを欠かさない。

普段であれば5時に起床し朝6時半にはランニングやウェイトトレーニングを終えて、シャワーを浴びてから弁当を作り始めるのだが、その日は時間が無かったのだ。
ランニングだけ軽く済ませるとシャワーを浴び、朝食を食べ終えて時計を見れば普段であれば既に家を出ている時間帯で、みょうじは慌てて着替えると学校へと向かった。

たったの一駅分を電車に揺られ、そこからは昨日と同じ道順で歩いて行く。登校時間にはまだ余裕があったが少し早足に歩を進めれば、昨日は只の校門であった筈の場所に人集りが出来ていた。
大量のマイクやカメラ、録音機材などを携えた大人達の姿に思わず足が竦んでしまう。瞬時にマスコミだと判断した途端、どくどくと速まる心拍の音がやけに大きく耳障りで、他の音がまるで聞こえなくなった。
浅い呼吸を繰り返しそうになった時、何者かの手が彼女の肩に触れる。

「おはよーみょうじ」

呼ばれる声に我に返りその主を振り返れば、そこに立っていたのはクラスメイトの上鳴であった。
イヤホンの片耳を外しながら、みょうじの顔を覗き込んで少し驚いたような顔を浮かべている。

「上鳴くん…おはよ」
「…大丈夫?なんか顔色悪いよ」
「ううん、ちょっと寝不足で」
「夜更かしはお肌の大敵だからな〜」

自らの頬を両手で挟み込んで冗談らしく笑う上鳴に続いて歩けば、先までは杭で打たれたように地面に張り付いていた足が不思議と進みだす。
いつの間にか落ち着いていた心拍に気が付いて、みょうじはきっと救うつもりなどひとつも無かったであろう上鳴に心の中でそっと礼を告げた。

教室に着くとちょうど予鈴が鳴って、自分の席についたみょうじは深い溜息を吐いた。
久しぶりに見た夢の景色といい、きっとオールマイトの取材に来たのだろう報道陣といい、朝から無駄に神経を擦り減らしてしまったではないか。
本鈴と同時に開いた扉から気怠そうに相澤が入ってきて、端的に告げたのは委員決めを行うという事項だった。
公平を期して多数決にしようと言う飯田の案が採用され、ほぼ大半の生徒が自分に票を入れる中で複数票を獲得した緑谷が委員長となり、副委員長は八百万に決定する。



ランチラッシュの食堂はいつも混み合っている。人混みが苦手なみょうじはだから弁当を毎日持参しているのだが、今日は寝坊してしまったため我慢する他ない。両手で持つトレーの上には適当に選んだ親子丼とサラダが乗せられている。
特別何に警戒する訳ではなかったが、自然と浅くなる呼吸のペースを崩さぬよう食堂を突き進んで行った。
長テーブルの間を縫うように進みながら、なるべく空いているテーブルを探す。
人々の喧騒、食器のぶつかり合う音、笑い声。それらが耳に障って鼓膜のすぐ隣で鈍い音が鳴り始めた頃、耳に届いたのは彼女を呼ぶ声だった。

「なまえちゃん!」

声の主を探してみれば麗日がこちらに手を振っているのが目について、その向かいには緑谷や飯田の姿も在る。見知ったクラスメイト達の顔にほっとして、みょうじは麗日の隣に腰掛けた。

「今日は学食なんだね」
「お弁当作れなくて…」

今朝はうっかり寝坊してしまったのだと事情を麗日に話すと、それを聞いた緑谷が目を丸くして尋ねた。

「もしかして自分で作ってるの?」
「うん。一人暮らしだから」
「えっほんとに!?私も一人暮らしだよ!」

思わぬ所で仲間を見つけた麗日は嬉々としてみょうじの手を握る。一瞬呆気に取られてしまうみょうじだが、似た環境で生活をしている麗日に親近感が湧いたのは彼女も同様であった。

「二人ともしっかりしているのだな」

感心したという飯田の顔を見て思い出したらしい、麗日は先の委員決めのことを訪ねた。
普段より圧倒的に進みの遅い箸で親子丼の最後の一口を含んで、飯田の家がヒーロー一家だという話を聞きながらみょうじは飯田の愚直なまでに公正を求める姿勢に合点がいった。

「みょうじさんは委員決め誰に投票したの?」
「飯田くんだよ。真面目そうだしハキハキしてるし」
「あの一票は君だったか…!」
「そういえば、立候補のとき手挙げてなかったよね?」

最後列だというのに、まさか麗日に見られていたのかと気付いてみょうじは白状するように頷いた。
食堂の人混みでさえ気分が悪くなってしまうのだから、もし人の多い都市部でヴィランが出た時に混乱する人々を先導出来るような自信は彼女にはなかった。

「私には向いてないかなって…」
「そうか?」

人の多い食堂だというのに不思議と三人の声だけはきちんと拾える。マスコミに足が竦んでいた今朝も、今だって誰かの存在に救われてしまっているのだ。
無事に教室に戻れるか不安だったみょうじも、麗日らクラスメイト三人と合流したのだからきっと大丈夫だろうと油断していた。
食事を終えそろそろ教室へ戻ろうと席を立った、その時だ。
けたたましい非常ベルの音が食堂に鳴り響いた。
プロヒーロー達が教鞭を取る雄英高校に於いてその警報は、そんな厳重なセキュリティを破って何者かが校内に侵入したことを示すのだ。
忽ち生徒達はパニックに陥り、我先にと避難しようとする。襲いくる人の波に飲まれ抗うことが出来ず、あっという間にみょうじは三人の姿を見失ってしまった。
体は押されまともに呼吸も出来ず、足を踏まれ躓くが前も後ろも揉みくちゃになって自力で体勢を整えることもできない。
生徒達の声が耳元で騒めいて、やがてぐわんぐわんと耳鳴りが始まった。速まる心拍に、霞みがかっていく意識。

…"あの時"と同じだ。

気がつけばみょうじの視界は、沢山の足で埋まっていた。
踏まれ蹴られながらやっとの思いで壁際までたどり着き、彼女は蹲った。いつの間にか人の波が緩やかに動いていくのにも気付かず、頭を抱えて待った。
悪夢から覚めるのを。

「おい」

聴きなれない声が降ってきて、返答がなかった為にもう一度降り注いだそれが自分に掛けられている声なのだと認識するとみょうじは恐る恐る顔を上げる。
左右綺麗に紅と白で分かたれた真っ直ぐな髪と、端正な顔の左側を覆う痛々しい火傷跡。毎日見覚えのある顔でありながら初めて聴く声にみょうじは目を丸くした。
クラスメイトの轟である。

「お前、みょうじだろ。大丈夫か?」
「……うん」
「その、…落ちてたぞ」

少し気まずそうに轟から手渡されたのはスカートで、みょうじは一瞬体が固まった。
状況が理解できず暫く其れを見つめていたが、先程から感じていた違和感の正体に納得がいって瞬間頬に熱が集まる。
パニックに陥った拍子に個性を発動してしまったのだ。

下着こそ脱げては居ないしシャツで膝くらいまではしっかり隠れていたが、着けていたブラジャーは子供の体では腹部で不自然に盛り上がっている。
ブレザーを羽織っているせいで見た目には判らないのがまだ救いだった。

「相澤先生んとこ行くか」
「…ごめん、轟くん」
「いや、いい」

ぶかぶかの真新しい上履きと靴下を脱ぎ、拾おうとすると横から伸びてきた大きな手が先に其れを掴んだ。
遠慮しようとするが、轟は聞かずに彼女の上履きを片手に先を行く。
道行く生徒達からの視線が痛かったが、自業自得であるため恥を忍んで彼の背を追った。

「轟くんって優しいね」
「…たまたま目に付いただけだ」
「そっか、ありがとう」

それきり返事は返って来なかったが、あまり自分から無駄話をしない轟の隣は特に何か話さなくてはという気まずさも感じず、みょうじには居心地が良かった。
職員室へ辿り着くとやはり教師達からも奇異の目を向けられ、反射的に萎縮してしまう。
目当ての人物はたった今マスコミや警察の対応を終えて戻ってきた所で、やけに疲れ切った顔をしていた。

「相澤先生、ちょっと」
「…轟。と、……みょうじか」

轟の呼びかけに視線を遣ればその足元に5歳児が居て、相澤は察しよくその正体を言い当てた。呆れた目がみょうじを見る。
その隣で物珍しそうに少女を眺めるのは、彼の同期で同僚でもあるマイクだった。面白い玩具でも見つけたと言わんばかりに腰を屈めてみょうじの顔を覗き込む。

「みょうじ〜?なになにどうしちゃったわけ」
「食堂でその、パニクっちゃって…」
「はぁー…分かったからとりあえず…」

個性を解くべく頭を掻きながら怠そうに立ち上がった相澤であったが、やる気なさげな声を遮ったのはマイクだった。

「あ!?…ちょっと待てよ?なんかお前見たことあんな…」

独り言のように呟きながら腰を落として改めてみょうじの目の高さに視線を合わせ、まじまじとその顔を見つめ思案する。
みょうじは訳がわからず、ただただサングラス越しの瞳と目が合っては視線を外すのを手持ち無沙汰に繰り返して居た。
隣の轟も不思議そうにその様子を眺めている。

「…なにしとんだ生徒に」

しかも今は小児サイズだというのに。そんな非難の視線を浴びせる相澤に、しかしマイクは至って真剣であった。

「ちっげーよ。多分お前も知ってる、はず…どこだ?」
「…知らん、授業が始まる。さっさと消すぞ」
「あっ、はい」

脱げてしまったスカートに脚を通し腰の位置で固定すると、準備万端だと相澤に目線で告げる。
瞬間、個性が解ける時の特有の痺れが体中を走って視線が高くなって行く。指先から痺れがすっと消えて行くのと同時に、元に戻ったみょうじを見上げる形で、それまで思案していたままの体勢でマイクはひゅうと口笛を吹いた。

「"プリユア"みてぇだな」
「お前いい加減にしろよ」

相澤の怒気をはらんだ声に、マイクはようやく自分のデスクへと戻って行く。
みょうじは礼と同時に頭を下げ、もたつきながらも靴下と上履きを履き直して轟と共に職員室を後にした。

「付き合ってくれてありがとう。時間取らせちゃってごめんね」
「だからいいって」

俺が勝手にしたことだ。
顔は前を向いたままに、視線だけをみょうじへとくれて言う言葉に、彼女はまたありがとうと言った。
教室へ戻るとみょうじに気付いた麗日が声を掛ける。

「あっなまえちゃん無事だった!?」
「いろいろあったけど、なんとか」

午後は午前に引き続き残りの委員決めが行われる予定であったが、とその前に緑谷の進言で飯田が委員長に決まった。
総ての進行を生徒達に任せつつ、教団の片隅で寝袋に包まれながら相澤はマイクの言葉の真意を今一度思案していた。

俺も知ってる。みょうじを?

調子の良い彼のこと、何かの勘違いだと一蹴してしまうことは簡単だが、しかし。そう言われてみれば相澤にも、幼い姿の彼女に見覚えが無くない気がした。
自身も立ち会った事件の被害者だろうか、否、記憶に残っている程の大事件だとしたらもっとはっきり思い出せるはずだ。みょうじ本人にも覚えがない様子だった。
どこだ。一体いつ彼女を見たというのだろうか。
午後のホームルームの時間目一杯相澤は睡眠も忘れて考えていたが、やはり記憶の中で明確な輪郭を見出すことは出来なかった。
やはりマイクの思い違いかもしれない。言われてそんな気がしているだけかもしれないが、それで済ませるにはどうにも腑に落ちなかった。
なにか大切なことを忘れてしまっているのだろうか。

さいれん

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