期待半分。不安半分。
それが今のみょうじの心を表すには、きっと最適な言葉であった。姿見の前に立って皺や染みひとつない真新しいブレザーに袖を通せば、彼女の瞳はきらりと瞬いた。
感情の秤はほんの少しばかり期待へと傾いたような気がして、自らの左右の頬を軽く叩くと乾いた音がワンルームに鳴り響いた。
心なしか気が引き締められたようだ。
鉛筆、シャープペンシル、消しゴム、定規、カッターがそれぞれひとつずつ入った細身の筆箱とスケッチブックだけが入れられた軽いリュックサックを背負って、彼女はまだ若干の肌寒さが残る春の陽射しの中へと一歩踏み出した。



「ここが…」

乾いた喉の奥からは自らのざらついた声が漏れ出る。1-Aと掲げられた大きな扉の前でひとつ緊張をほぐすべく深呼吸をして取手に手を掛けようとした、その時だ。みょうじの背に刺々しい声が突き刺さった。

「邪魔だモブアマ。俺の道を塞ぐな」

耳を疑う自己中心的な言葉に咄嗟に振り向くと、其処に立っていたのはなんとなく覚えのある顔。どこかで会ったことがあるだろうかと記憶を遡ろうとしたが、それはあまりに乱暴な彼の言葉によって中断を余儀なくされた。

「退けつってんだよ」

ギンと威嚇するような眼光の鋭さに、思わずみょうじは扉の横へと退いてしまう。何の躊躇いもなく扉を開けて入っていこうとする不機嫌な男子生徒。こちらには一瞥もくれない相手の顔が記憶の中と繋がったとき、咄嗟に言葉が口をついた。

「あ、ヘドロ事件の…」
「ぁあん!?」

それはもう一年近くも前に起きた事件だったが、ヴィランに囚われながら抵抗を続けた同い年の少年という見出しは彼女の印象に強く残ったのだ。
ネットニュースに記載されていた記事によれば彼はプロヒーロー達からも賞賛されたらしいのだというのに、その単語を耳にした途端あからさまな敵意がこちらを向いた。先程までの理由のわからない不機嫌とはわけが違う。
肌がじりじりと焼けそうな程の気迫を感じて必死で機嫌取りの言葉を探し始めるみょうじに、彼が一歩距離を詰めようとした時だった。
これまた背後から掛けられた別の声に、みょうじは半ば縋るような思いで振り返る。

「君たち、こんな所で立ち止まっていると迷惑だぞ。入るなら入りたまえ」

そこに立っていたのは、眼鏡をかけた如何にも真面目そうな男子生徒だった。どうやら彼も同じクラスであるらしいことを察して、みょうじは一言謝罪の言葉を入れた。
先程までみょうじを睨み付けていた彼がふんと鼻を鳴らして、教室の中に入って行く背を横目にほっと息をつく。
そんなみょうじの態度に不思議そうな顔を浮かべつつ、今頃どかっと自席に腰を降ろした背に倣う眼鏡の彼が教室に入っていくのを見届けると、彼女はようやく自分の席へと辿り着いた。奥側の最後列、座席数は全部で21と半端であるため一人だけ飛び出してはいるが、クラス全体が見渡せる位置だ。彼女にとっては都合が良いかもしれない。
名前は忘れてしまったが、ヘドロ事件の被害者であった眼光鋭い彼は机を三つ挟んでみょうじの前方に座っている。
背負っていたリュックサックを机の横に引っ掛け椅子を引いて腰掛けると、先の一件だけでどっと疲れが湧いてくる気がしてみょうじはそのまま机に突っ伏した。

その間も次々と聞こえてくる、これからクラスメイトになるのであろう少年少女達の声が飛び交うのをBGMに、彼女は顔を伏せたまま頭の中では全く別の思考を展開していた。
関西の実家へ一人残してきてしまった祖母のことだ。
祖母のことは様子を見てくれる人がいるとはいえ、やはり心配だ。帰ったら真っ先に電話を掛けよう。

暫くそうして物思いに耽っていると、先程まで騒がしかった教室が一斉に静まり返る。何事かと不審に思ったみょうじが顔を上げれば、世辞にも身なりに気を遣っているとは思えない無精髭の男がいつのまにやら教壇に立っていた。



突然配布された運動着に着替えてグラウンドへ集合すれば、ヒーロー科1年A組の担任だと名乗った相澤は個性把握テストを開始すると言う。掻い摘んで言えば、一般的には日常、学校生活に於いて使用を制限されている個性の使用を許された体力テストだ。
そんな説明を担任から受けた生徒達の中には笑みを浮かべる者、不安を顕にする者など各々居たが、みょうじはそのどちらにも当てはまらなかった。
仮にも彼女とて、ヒーローの育成に於いて名門と称される雄英高校ヒーロー科に合格しているのだ。
普段から鍛錬を欠かさない彼女は個性を使用しなくとも男子に引けを取らない運動神経を持っているし、個性が使用できるのなら尚更心配は不要だと踏んでいたからだ。
が、次に笑んだ相澤の口から出た言葉はその場の空気を凍てつかせるには充分過ぎるほどに笑えない宣言だった。

「トータル最下位の者は除籍処分にしよう」

そうして開始した個性把握テストは、50m走から計測された。出席番号順に二人ずつ並走し各自個性を活かして成績を残していく中、全部で奇数のため最後に端数として一人残ったみょうじの名が呼ばれる。
スタートラインに立って居たのは、10歳にも満たない年齢に見える幼い少女であった。

「あれ…?あんな子居たっけ?」

先までは見かけなかった筈のその姿に違和感を覚える者がいる中、構わず相澤が鳴らしたピストルの音と共に走り出した少女は体格に見合わぬ速さでゴールまで駆け抜ける。
出席番号順の最後というのは、皆が既に自分の出番を終えているだけに中々に注目を集めるものらしい。

「体ちっこい割に速えーな、何の個性だ?」
「てか運動着ぶかぶかだけどサイズ合ってないんじゃ…」

終始そんな声を背に受けて少々やりづらさは感じたみょうじだったが、大きなミスもなく無事8種目すべての測定を終えた。成績はといえば、特別秀でた種目はないものの満遍なく上位を保っている。
測定開始前に聞かされた除名宣告の被害を被ってしまう"緑谷出久"は、存外探さなくともすぐに分かった。どうやら感情が表に出やすいらしく、彼は絶望を顔に貼り付けている。
折角入学した矢先の除名だなんて。みょうじが彼に同情しかけたその時、担任の呑気な声がそれを制した。

「ちなみに除籍は嘘な」

曰く合理的虚偽と宣う相澤の言葉に生徒一同不満を垂れるやら安堵するやらの反応を見せていたが、最下位だった当人がほっと口元を綻ばせるのを見てみょうじも心なしか安堵した。
各々が着替えに校舎へ戻って行こうと動き始める中、相澤に指示され保健教諭の元へ向かう筈の足がぴたと立ち止まり、未だ痛々しく腫れた指を抱えたまま緑谷が振り返る。
みょうじと瞳がかち合った瞬間、大きな双眸が僅かに見開かれた。
怪訝そうに眉を潜めた緑谷に何か用だろうかと首を傾げてみると、彼は目的を思い出したように踵を返して保健室の方へと小走りで駆けて行った。



「みょうじさんの個性ってなんなん?」

ヒーロー科ひとクラスに在籍する女生徒達には少々広く思える更衣室の中には、現在七人しか居ない。
ちょうどみょうじの隣で着替えを終えようとしていたボブヘアの女生徒がそんな質問を投げかけた。
今や10歳前後の少女であるみょうじの目線に合わせるように腰を下げながら、まんまるの大きな瞳が愛想よくこちらを覗いている。先の個性把握テストで相澤が呼んでいた彼女の名前を思い出そうとするが、咄嗟に出てこない。
確か、なぜか祖母を思い出す名前であったような気はするが。
そんなみょうじの戸惑いが顔に出ていたのか、彼女は「あ、」と気付いたように口を開いた。

「私、麗日お茶子!よろしくね」
「麗日さん。うん、よろしく」

明朗快活な彼女の笑顔を見るとついこちらまで口元が綻んで、自分から声をかけるのが苦手なみょうじにとってはそれが嬉しかった。
差し出された手を握り返そうとした所で全身に駆け巡る、微弱な電流のようにぴりぴりとした痺れる感覚。
過去に何度も覚えのある其れに時計を見遣れば時刻は昼の12時00分ぴったりを差していて、視線はどんどん高くなっていく。
身体の痺れが指先からすっと抜け切る頃には先程まで身につけていたぶかぶかの運動着はぴったり身体に合っていた。

つい1分前まで見上げていた麗日の顔が、今はみょうじよりも下にあって驚きを隠そうともせずに口を開けている。
徐々にその瞳が爛々と輝き出すのが面白くて、みょうじはつい笑みをこぼした。

「えっすごい!変身!?」
「これが本来の姿なの。まぁ…変身だけじゃないんだけど、それはそのうちね」

個性が解けたことでようやく制服への着替えを始められたみょうじであったが、運動着のジッパーを降ろした所で麗日を始めとした女子達からの視線を感じて辺りを見渡した。

「な、…なに?」
「いやその……」
「筋肉すご…!」

あぁ、とその視線の理由に合点がいったらしいみょうじは手早くシャツを羽織る。本格的な鍛錬を始めたのは数年前からだが、中学でも同様の反応をされたことを思い出して苦笑した。
卒業する頃には皆慣れてしまって、体つきに関してあまり触れられることはなくなっていたのだが、うっかりそのことを失念していたのだ。

「個性の関係で毎日トレーニングしてるから…へへ、女の子らしくないってよく言われる」

実際に言われたことのある言葉に冗談を交えてはにかめば、それまで口を閉ざしていた一人が口を開いた。さらさらした長い髪をリボンのような形で結わえている。

「私たちはヒーローを目指しているんだもの。とても立派だと思うわ」

同年代の、ましてや同級生にそんなことを言われたのは初めてで。ヒーロー志望とはいえ女子が、なんて引かれるかも知れないと身構えていたみょうじは思わず目を丸くする。
彼女は蛙吹 梅雨と名乗った。

「ありがとう、蛙吹さん」
「梅雨ちゃんと呼んで」

着替えを済ませて教室へと戻ってみると、男子数名は既に着替え終えていたようだ。
今朝見た眼鏡の、確か飯田と言ったろうか。それから爆豪、轟などは黙って自席に収まっていた。
真っ先に教室へ戻ってきていた担任の相澤はどういうことか教壇で寝袋に包まれている。
教室で駄弁っていた数名の男子生徒達からの視線を受けながら、みょうじは一番後ろの席へ着いた。
おおよそ個性把握テストで見掛けなかった顔である為、何者だろうかと疑われているのだろうと推測する。
みょうじが席に着いてからすぐ、保健室に寄っていた筈の緑谷を含む生徒全員が席に着くと相澤は寝袋からむくりと起き上がった。

「そんじゃ解散。帰っていいよ」

入学式にすら参加せずの唐突な個性把握テスト、怒涛の除籍宣言、耳を疑う合理的虚偽。それらを経た後にしてはあまりに呆気なく思えるホームルーム終了と共に、彼女の期待と不安に満ちた雄英高校入学初日は幕を閉じた。

はじまり

- 3 -

prev | next
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -