ふたりでいつかひとになろう cours1(1)




序章

ざー……ざー……と、音がする。大きなもので例えれば、海のそのうねりのような、潮の満ち引きのような音。小さなもので例えれば、手の中で転がる、小豆のような、そんな音。その音が満ち満ちて、ぷつん、と、途切れる。山姥切の右手の人差し指が、マイクのスイッチを入れた。生まれて、はじめて。

「あー……あー……声は、聞こえているか。……こちらからは、確認する、すべがない。しかし、多分、届いている、はず。わからないが。……何を、喋れと言うのだろうか、この、写しの俺に。……まぁ、いい。……これから、第一回、本丸ラジオ……仮名だが、を、はじめる……。本日のパーソナリティ……当番は、山姥切国広……」


一章  うつくしいノイズ

山姥切を選んだ指はひどく細く、拙く、震えていた。そのことを、山姥切は確かに、覚えている。その審神者は何も話さず、何も語らず、語ること、話すことを苦手とする、山姥切を選んだ。その選択はどこか投げやりで、思考を辿らせず、山姥切を、どこか安心させた。その日その時に、山姥切は、選ばれた。そうして、人のかたちをもって、はじめて、人の手の、冷たさを知った。

二日、三日、山姥切は何もしなかった。審神者も、何もしなかった。政府から派遣されてくるであろう管狐が、この本丸にはいない。管狐をこの本丸にとどめ置くだけの霊力が、審神者にないのだった。山姥切はしゃべらない。審神者も喋らない。ふたりは広い広い、どこまでもあるかのような本丸でたったふたりきり、何度か顔を合わせたが、挨拶もしなかった。

山姥切を選んだ審神者は、いつも機械を手にしていた。ざあざあと耳に障る音だけ鳴らす、機械。それを大切そうに、大切そうに、抱えている。審神者がアンテナやネジを回して、どんなに調節しても、その機械から耳障りなノイズ以外がこぼれてくることはなかった。ざあざあと、ここが世界のどこでもないということを、ただただ、伝えている。そのざあざあが本丸中に満ちて、山姥切をひどく、不快にさせた。ノイズですらなにかしら伝えているというのに、と。

四日目、縁起が悪いとは思いながらも、山姥切は、審神者のかすかな霊気をたどり、その部屋に辿り着いた。静かな声で「入るぞ」と、断りを入れて、障子をあけた。審神者はその中で、まるで眠るように、目を閉じていた。部屋の真ん中には、機械。ざあざあと音を鳴らしている。

「おい」

山姥切が声をかけると、審神者はゆっくりと、じれったくなるような速度で、瞼を持ち上げた。あらためて見るに、審神者は若かった。若い、というよりも、そう、ずっと、幼かった。そして、華奢というより、ただただ細く、いろんなものが削げ落ちていた。その削げ落ちたものの中には、なにか大切なものもあったのではないかというほど、そうだった。髪の毛は山姥切より短く、真っ黒で、瞳も、真っ黒だった。そして、似合わない、セーラー服を着ている。白と、紺と、それだけ。スカーフだけが、赤い。その制服は夏のものだった。現世は、夏だったのだろうか、と、山姥切は思った。本丸には、意識しなければ、四季がない。適切な温度、適切な湿度、適切な日光が、降り注いでいる。障子の隙間から射したそれは、審神者の、うつくしくもなく、醜くもなく、ただ、傷だらけの様々を、なんの過不足もなく、うつしだしていた。

「……鍛刀を。それから、出陣を」
「……」
「……話せないわけじゃあ、ないだろう。あと、そう、……その、機械」

山姥切は傷ひとつない人差し指で、軽く、ノイズの元を指した。

「……俺には、……ざあざあと、意味のない音しか、聞こえない。あんたには、なにか聴こえるのか」

審神者は、じっと黙って、唇を動かした。そのかすかな動きを、山姥切は目で追ったが、わからなかった。それは音になっていなかったし、とても微細なものだった。審神者のかんばせは暗く淀んで、かなしく、曇った。山姥切は動きもしない審神者に、どうしようもなくなってしまった。

鍛刀をして、そのまま、函館に出陣しようと、そう提案したつもりだった。山姥切は付喪神とは言え、神の末席。知りたい情報を探れば、知ることができる。審神者は、審神者になる前に審神者としての知識と倫理を植え付けられる。そういう機関があるらしい。そうしてその中でも選りすぐりのが、やっと、本丸にやってくることができる。神を、したがえることができる。この娘が本当に、そんな風にして選ばれたのか、山姥切には、わからなかった。この先審神者としてやっていけるのかも、わからなかった。この娘の霊力は、あまりにも微細だ。あるにはあるが、しかし、審神者にしては、無いに等しい。政府はいったい、なにを考えているのか。

ざあざあと音がする。「機械」の音だ。山姥切はすっと目を閉じて、その機械のことを探った。現世ではこれをラジオと呼ぶらしい。人の声を、より多くの人へ届けるための機械。電波に声をのせて、それを受け取るための便利な装置。その「声」を聴くのに、この本丸は、あまりに適さない。空間が断絶されているのだから、電波なぞ届きようもないし、まして、かよわい人の子の声なんて。この娘にも、山姥切と同じだけのノイズしか聞こえていない。なのに、どうして。

「どうして、それを鳴らし続ける」

山姥切は少し、遠回りをすることにした。この審神者のことを、少し、知らねばならないと思った。鍛刀も、出陣も、その他諸々は、そのあとでいい。障子のあたりに腰を下ろして、腰につけていた刀を静かに、廊下側に置いた。審神者は何も話さない。山姥切だけが、話す。

「ラジオというのだろう、それは。しかしこの本丸に電波は届かない。周波数とか、そういう問題でなく、空間が断絶されている。不合理だ。それを鳴らし続けることに、意味はない」

審神者は小さく、首を振った。山姥切が「なぜ」と聞いても、返事はなかった。山姥切は、自分がこんなにも多くの言葉を知っていることに、驚いた。そして、それを発することができることにも。山姥切が話すと、少しだけ、ノイズの音が小さくなる。かみ合わないものが、少しずつ、かみ合っていく。言葉って、そういうものだ。それを、この審神者は投げ出している。一言も、話さない。ここに来てから、いや、山姥切を選んだ、あの時から、ずっと。かちり、と、もうひとつ、かみ合った。

「しゃべることが、できない、のか……?」

山姥切が尋ねると、審神者は、小さく、うつむいた。それはきっと肯定だ。山姥切はここに紙も筆も無いことを、悔やんだ。この本丸はがらんどうで、なんにもない。政府から支給される最低限の資源はあるがしかし、それ以外が、何も。おかしい、と、感じた。管狐の件も、がらんどうの建物も、何か、なにかがおかしい。山姥切はすっと、また、目を閉じる。そうして、ひとつ、かなしいことにひとつだけ、理由がわかった。その情報は山姥切を待ち望んでいたかのように流れ込み、山姥切を困惑させた。

「……肯定か、否定かで答えられる質問にしよう。肯定なら頷け。否定なら、首を振れ。……それくらいは、できるだろう」

娘は静かに、頷いた。が、しかし、山姥切の方が、黙ってしまった。得た情報を、どう、伝えていいかわからなかった。こんなにたくさんの言葉を知っているのに、どうして、そこからふさわしいものを選ぶことが、できなかった。選ばなければ、簡単に伝えることができる。しかし、山姥切は、選ばねばならないとわかっていた。これは重要で、大切で、かなしい、現実だからだ。

山姥切が布と髪に任せてうつむいていると、娘の方から山姥切に近づいてきて、手を出した。天井に掌を向けて、指さしている。山姥切は意味が分からず、「なんだ」と尋ねるが、それは要領を得ない。山姥切は無意識で、同じように、掌を差し出した。握手とか、それに準ずる何かとか、そういう風でなく、本当に同じように、掌を、天井に向けた。娘は、その掌を、静かに、指でなぞった。

「に、え……」

その軌跡は文字だった。「に」と「え」。娘はもっとわかりやすく、静かに、四つ、文字を綴った。冷え切った指先で。

「……い、け、に、え……。……知って、いた、のか……?」

表には出せない情報というのは、どこにでもある。政府っていうのは、そういうのが一番集まりやすい、そんな組織。これは表には知らせない、美しい、歴史を守る戦いの、裏。山姥切にもたらされた情報は、この娘は、これから他の「審神者」が使うだろうこの本丸と、これから他の「審神者」に渡るであろうこの山姥切の霊力を高めるための贄だということ、そして、贄というからには、この娘から、山姥切が、命を奪わねばならないということ。これは、通常に行われている、政府の業務の、ひとつ。人間の、かなしいほど醜い、合理主義の、結晶。

この娘が声を出せないのは、無い霊力を「在る」ようにするために政府に奪われたからだ。人間という生き物は、どこかが欠けると、どこかが満ちる。そういうふうに、できている。この場合、声が一番、良いのかもしれない。悲鳴もあげない、助けも求めない。言霊は、刀を、神を縛る。それを塞いでしまって、そうして、神の前ではろくに抵抗もできないであろう、「霊力を持った人間」を、神が、食らう。銃を持った農民が歩兵に変わるとは、よく言ったものだ。歩兵は歩兵であって、武将には、なれない。使い捨ての、利便性の高い、ただの、兵。持たざる者に何を持たせたところで、ただの捨て駒。この娘は持たざる者だった。それだけだ。それだけの、こと。付喪神とはいえ何百年と生きた山姥切国広には、些事であるはずだった。

「こんな、ことが、あるか……!!」

「神様というのは、残酷だ」。人間が、よく使う言葉。本当に神様が残酷だっていうのなら、人間なんて、とうの昔に、いなくなっている。神様というものは人間が勝手に創り上げ、祀り上げ、信仰し、残酷であれと、そう言う、モノ。不思議だ。そのくせ、利用し、縋って、祈りを捧げる。人間は、なんて度し難い、生き物なのだろう。それなのに、どうして、こんなにも純粋な瞳で、神を仰ぐのだろう。

「俺に、あんたを、殺せと、あんたも、そう、言うのか」

娘はなんにも、言わなかった。ただひとつ、頷いた。山姥切は廊下側に置いた刀に、するりと手を伸ばす。そうして、その鞘を、静かにはらった。国広の傑作とも呼ばれる、うつくしい刃が、逆光に、刀身を曇らせる。それは山姥切の瞳を映し、娘の瞳を映した。持たざる者は奪われるのだ。その、かよわい命ですら。

「この刀身は、戦国の世に打たれた。山姥切の、写しだ。わからない、だろうな。何も、知らないのだから。有名な武将に振るわれたわけでもない、……たしかな記録に残る、有名な逸話があるわけでもない、ただの、なんでもない、刀だ。山姥切国広。国広の……数ある刀のうちの、ただの、一振り。それにすぎない。それに宿る俺自身、偉大で、人間の言うところの残酷な、神でも、なんでも、ない」

矛盾を感じながらも、山姥切はキン、と、鯉口を閉じた。そうして、おとなしく鞘に収まった刀を娘との間に置き、娘の手を取った。そうして、娘がそうしたように、つつと、軌跡を紡ぐ。

「山姥切国広。字はこう書く。……覚えたな。じゃあ、その字を、俺の、掌に」

娘は、氷のような指先で、覚えたばかりのその銘を、ゆっくりと、しみこませるように、山姥切の掌になぞった。山姥切国広。その銘が完成したとき、かちりと、なにかがかみ合った。

「字は、言霊よりは弱いがしかし、かたちのないものを、結ぶ。俺と、あんたの、縁は結ばれた。あんたは、今から、刀と契約を結んだ『審神者』だ」

この儀式のようなものは、本当は、選ばれた時に成される。選ぶという行為を行う時は対象を声に出して呼ばねばならない。それが、契約。契約さえしてしまえば、もう、山姥切は、この「審神者」に、手を出せない。そういう決まりになっている。

ノイズはいつの間にか、届かぬ場所へと追いやられ、この部屋には神気が満ちた。すっきりとした静寂に、審神者になった娘は、大きく目を開いたまま、うつくしい、涙を流した。その透明なしずくの一粒一粒を、山姥切は、どうしてよいかわからず、ただ、眺めていた。ただただ、綺麗だ、と、思いながら。


二章  ふたりぼっちのイントロダクション

人の生き死にに、指を入れてしまった。それは生ぬるく、やわらかい感触で、山姥切の、首を絞めた。終わるはずだったいのちに、山姥切国広の銘で、命を与えた。その審神者は、今、ただただ広いばかりの本丸で、山姥切と暮らしている。まだ、鍛刀も、出陣もしていない。形式的に山姥切が近侍ということには、なる。政府には初期刀、山姥切国広で申請を出し、正式な助力を請わねば、なるまい。それは審神者ではなく、山姥切がしなければならないことだ。少なくとも、山姥切は選ばれた刀で、ここの審神者は、選ばれざる審神者だった。書類は、形式は、通信手段は、と、山姥切はとめどなく頭を動かした。生かしたからには、責任を取らなければいけない。他の刀なら、どうしたのだろう。どうして、この娘は、自分を選んだのだろう。雑念が湧き出して、集中がぷつんと切れた時に、腹が空いた。ここに来て五日、ふたりとも、何も食べていない。

「すこし、いいか」

審神者のいつもいる部屋が、もう審神者の部屋ということになっていた。山姥切も、なんとはなしに、その部屋で過ごすことが多い。六畳ほどの、広くはないが、狭くもない部屋。文机も座布団も布団もその他およそ部屋に必要であろうものがなんにもない、ただの部屋だ。ただ、この部屋はこの本丸のどこよりも、神気で満ちていた。山姥切が、そうしている。神気の中で暮らすことで、霊力は少しずつであるが、満ちてゆく。もとの器を超えることはないが、幾分かはマシだろうとの判断だった。

「町へ出なければいけない。ものを食べなければ。あとは、入用のものを、いくつか、買いに行かないといけない。刀だけでは、町へ出られない」

山姥切がそう言うと、鈍ければなんにも伝わらないだろう言葉どもを、審神者は丁寧に拾い上げて、するりと立ち上がった。立ってみると、本当に、支えなくて大丈夫なのだろうかと心苦しくなるほど、審神者は細かった。そして、小さかった。山姥切の肩ほども、身長がない。幼いとは思っていたが、いったい、歳はいくつなのだろうか。少なくとも、制服を着るような年齢であることは、確かなのだがしかし、現世でその年齢はいくつなのか。腹が空くと余計なことを考えるものだと、山姥切ははじめて知った。

本丸の庭を抜けて門を出ようとしたときに、問題が起こった。念の為、結界を抜けられるか手だけ伸ばしてみたのだが、山姥切はさておき、審神者が弾かれてしまった。傷をつけるような、悪意のあるものではなかった。ただ、透明な壁として、空気を固めたようなものがそこにある。審神者は不思議そうに、それをぺたぺたと触っていた。

解決策を探そうと、山姥切は、黙って、審神者の肩あたりに触れた。すると審神者は驚いたようにびくりと身を引く。山姥切は「何故驚く」と聞いたが、審神者は答えない。この質問には答えようがなかったからだ。山姥切は掌を差し出していなかったし、イエスノーで答えられる質問でもない。山姥切はそれに思い至ると、「俺がおそろしいのか」と尋ねた。審神者は小さく首を振る。山姥切は続けて、「あんたに触れる時は断りをいれるべきなのか」と尋ねた。すると審神者は少し考えてから、やはり小さく、頷いた。

「そうか。では、今度から、そうしよう」

山姥切はそう言いながら、張ってある結界に意識的に、触れた。それは呪に似ていた。審神者になる前の娘の名をもとに、その名を持つ者をこの地より先へ行けないようにしてあった。念の入ったことだ、と山姥切は思った。しかし、合理的でもあると思った。もとより、この審神者は、審神者としてこの本丸に招かれたわけでは、ないのだ。

「なあ、あんた、俺と……」

山姥切はそこで言葉を詰まらせた。どう伝えるべきか、わからなかったのだ。こんなことが昨日もあった。伝えるべき事柄はわかっているのに、どうして、使うべき言葉がわからない。正しくは、口にできない。難儀だ。簡単に使えるもののかんばせをして、言葉というものは、扱いが難しい。

「……これは、そうだ。契約、みたい、な。そんなものだ……。あんたは、今の名を捨てないと、ここから出られない。ここで、朽ちて……い、いなく、なる」

山姥切は門である鳥居の根に、座った。話が長くなるからだ。審神者にも座るよう、伝える。審神者は雑草の生えた地べたに、なんの躊躇いもなく、座った。

「この透明な壁は、あんたの名前をもとに張ってある結界だ。あんたが、今の名である限り、ここから、出られない。俺だけが出ても、そう、聞いた情報でしかないが、町へは辿り着けない。ただただ広い、空間と空間の間に、出る、だけ。町へ行かない、と、食料が……と、とにかく、町へ行かなければ、いけない。そのため、に、この結界を、解かなければ、いけない、のだが」

山姥切は一度、恨めしそうに、その鳥居のあたりを見やった。

「俺の力では、どうにもならない。もっと神格の高い存在が張った結界、だ。銘があるだけの刀ごときでは、到底、言い得て妙だが、太刀打ちできない……ような……。それで、まあ、解けないことは、解けない、のだが、すり抜ける方法が、ひとつ、ある」

それが問題であって、本題なのだが、山姥切は、どうにも、こういったことに向かない。何を伝えるにも、何を口にするにも、言葉を選ぶ。簡単に言えることを、遠回しに、遠回しにしか、伝えられない。

「そう、だな……。簡単、では、ある。簡単、だが、難しい、のだろう。人間、には……。くそ、言葉が、出てこない。俺の示す方法は、……ちがう、そうじゃない。あんたの……これでもない。……俺は、こわい、のか……」

最後の方はぼそぼそとした、呟きだったかもしれない。けれど審神者は、そんな音も拾って、山姥切の声に、耳を傾けている。山姥切は布で目線を隠し、さらに前髪でそれを遮っていたが、その隙間から審神者をみて、その真っ黒な、力のない瞳を、どうして、かなしいと思った。山姥切は、静かに息を吐いて、吸った。そうして、頭からかぶっている布を、すこし、ずらした。取るまではいかない。まだ。そうして、審神者の、どこを見ているかわからない目を視て、言った。

「名を、棄てよう。今までの名を。俺に教えてくれ。俺のなかに、それを終って、そうして、俺が、あんたに、新しい名をつける。……簡単に、言えば、そういうことだ。けれど、けれどそれは、あんたの、今までの人生を棄てることだ。忘れるわけじゃ、ない。ただ、傍観者、の、ような、ものになる。生きたまま、生まれ変わる、ことになる。そして、俺がつける名は、……真名、に、なる。まことの、なまえで、『まな』と書く」

山姥切は審神者に掌を出させ、「触れるぞ」と断ってから、そこに「真名」と字を書いた。

「真名は、重要だ。現世の人間は、名をそのまま、真名として、使う。しかし、ここではそうは、いかない。真名は、信頼のおける、ただ一振りにのみ、教える。それは初期刀とは、限らない。近侍とも、限らない。どの刀にも教えない審神者も、多い。いや、そちらの方が、圧倒的多数、になる。もちろん……理由が、ある。……審神者の真名を知った刀は、審神者と、強く、結ばれてしまう。それこそ、生死が、重なるが、ごとく。刀が折れれば、審神者の霊力が無くなるか、もしくは、……命を、終える。審神者が……消えれば、刀は折れるか、その本丸では神としての力を、使えなく、なる」

わかるか、と、山姥切はじっと審神者の瞳を、みつめた。ほんとうは、こんなことは苦手なのだ。目を逸らして、どうにかなるようにして、乗り切っていたい、そんな性分なのだ。けれど、この審神者は、そうはさせてくれない。審神者の目に、山姥切の青とも、緑ともつかない色が入り込む。ふたつが溶けて、滲んで、境界が無くなるように。

「俺は、ひどく、勝手を言っている。あんたの今までの人生と、これからの人生を、俺に、寄越せ、と」

山姥切は、やっとそこまで言って、布を引き下げる。人の気持ちは、わからない。なぜなら山姥切は刀で、名ばかりでも、神であるからだ。これは人間には、傲慢と言われるものだ。山姥切が唇を噛んでいると、差出したままになっていた手に、冷たいものが触れた。審神者の細く、たよりない、指だった。それは山姥切の指を開かせ、掌を、日に照らした。太陽がこんなに暖かいのに、この審神者の指は、いつも冷たい。

『山姥切国広のじんせいも』

綴られた軌跡は、そうだった。山姥切は、「俺は、いいんだ」と、ぼそぼそ、呟いた。生かした責任だ。そう、これは、そういうもの。けれど、ほんとうは、それだけでもないと、頭のどこか、正しくは人間が簡単に口にする、心のどこかに、こびりついていた。山姥切はそれを、まだわからない。心がどこにあるのかすら、わからないのだから。

「俺は折れても、力を失っても、存在は、……概念は、なくならない。あんたが……いなくなっても、刀の姿に戻るだけ。そして、他の本丸に呼ばれれば、新しい山姥切国広として、あんたのことを、もしかしたら、すっかり忘れて、また……表現が正しいのかはわからないが、生きる。俺というものが本当に喪われるのは、山姥切国広という刀の存在を、この世のすべての人間が、忘れた時。そのひとつだけだ。刀はみな、それを知っている。だから、簡単に、真名を受け取れる」

けど、人間は、審神者は、違うのだ。特に、この、審神者は。

「俺はあんたから名を奪う。今までの人生を奪う。あんたの人生は、ここで一度、終わりを迎える。あんたの現世での人生を、俺は知らない。何年の人生かすら、知らない。そしてその人生は、もう、政府の管理下にある。抹消されていても、おかしくない。それをあんたから奪うのは、……殺すも、同じ。そして、この先の人生も、俺のもの。審神者の人生は、記録に残らない。何をしても、何をされても、だ。俺だけが、覚えていることができる。けれど、忘れようと思えば、簡単に、忘れられる。神というものは、残酷だろう」

山姥切は人の生き死にを山ほど、見てきた。記録に残るものも、残らないものも。しかしそのどれもが朧で、ささやかな破片しか、残っていない。この審神者のことも、もしかしたら、今は忘れまいと思っていても、気が変わるかもしれない。そんな不確かなものに預けられるほど、人間の生が軽くないことを、その血潮の温かさから、知っている。山姥切が瞳を伏せた時に、すっ、と、また、冷たさが軌跡をなぞった。

『あい』

名前だとわかったのは、一瞬の後だった。審神者は多くを語らず、山姥切国広に、人生を、渡してきた。すとんと、軽い荷物を手渡すように。

「……漢字は、ない、のか」
『ひらがなで あい なまえ』
「由来、は、ある、のか。人の親は、願いを込めて名付けると、聞いた」
『あいうえお』
「語順……?」
『いちばんはじめ ふたつ』
「……そ、んな、こと、」
『ほんとう』

審神者の表情からは、なんにも、読めない。少なくとも、今の山姥切には。傷跡の多い、痩せこけた、手足と、ざんばらで、短い、髪。そこから何を想像、するべきなのだろう。しかし、それは想像にすぎない。山姥切は、何も語らず、示さず、胸の奥に「あい」という名前を、入れた。

「この名を、最後に知るのも、呼ぶのも、この、山姥切国広。『あい』として、最後の言葉も、共に」

審神者は、青と緑を瞳に映して、ひとつの軌跡を、山姥切の掌に残した。それを山姥切は静かに呑み込み、目を閉じる。

「……では、名を、奪う」

山姥切は低く、ゆっくりと、噛みしめるように、言葉を続けた。自分が少なからず、神であることを、知って。

「……あい……『左様であるならば』」

すると審神者の瞳からかすかな光さえも途切れ、力が、抜ける。名を喪ったのだ。そうして、これから、山姥切が、真名を与える。届かぬと知っていながら、山姥切は「触れるぞ」と断りを入れて、審神者の掌を取った。

「――」

そのしずかな声が、うつくしい文字が、掌にしみこむと同時に、審神者の瞳に、かすかな光が、戻る。さきほどとは違う色で、違う光で、それは灯る。

「人が神に与えたものの、名だ。そして、神が人に与えるべきものの、名。在りかも、かたちも、なにもなく、しかし、人も、神をも縛る、儚く、強く、醜く、しかし、うつくしい概念の、名。俺はまだこの言葉のほんとうの意味を知らない。あんたのことも知らない。あんたもきっと、この言葉の意味を知らない。ふたりで、探していけたらと、思う。勝手だが……。その道しるべに、この、真名を」

そして最後に、消え入りそうな声で「山姥切国広が、与える」と。審神者は、まだぼんやりとした目で、青緑を映していた。山姥切は、それでいいとも、思った。意味は、覚えていなくとも、いい。少なくとも、この審神者は。自分さえ、覚えていれば、と。

「この真名は、あんたが書いても、俺が呼んでも、ふたりの間でしか、わからない。他には、伝わらない。あんたの人生は、俺が、……預かった。返すことは、できないが」

審神者はやはり冷たい指で、たどたどしく、山姥切の掌に、『ありがとう』と、綴った。そこに落ちてきた水の方が、どうして、温かい。

「……そう、だ。人間は、泣きながら、生まれてくるものだった、な」

山姥切は、また泣かせてしまった、と、唇を噛んだ。こういう時どうしていいか、誰も教えてくれないのだ。自分で探すよりほかに、ない。ただ、やはり、きれいだ、と、思った。この審神者の、人間の流す涙は、うつくしい。命のはじまりのような、そんな、透明さで、純粋さで、山姥切の手を濡らした。こんな涙を、いつか、この審神者のために、自分も流してやりたいと、そう思った。


三章  普通の御便り 一通目

町に出て入用の物を買い足し、買い足し、どうにか暮らしてゆけるようになるのに、二週間はかかった。山姥切もいつまでも審神者の部屋にばかりいてはなるまいと、審神者の左隣の部屋に拠点を移した。ふたりの部屋の間取りは同じで、また、家具もそうだった。家具と言っても、ただの文机と、衣服を入れておく箪笥がひとつ、行灯、そして、寝る時以外は押入れにしまってしまう布団が、一揃い。それだけだ。それらは町で買ったものではなく、政府から支給されたものだ。山姥切が改めて、というのもおかしいが、申請書類を出したのだ。真名を書くわけにはいかなかったので、審神者としての仮名は「哀」とした。読みは同じだが、意味のまるで違う名前。これは山姥切が考えた。いかにも、神が哀れんで助けた審神者、というイメージがつくだろうと、あまり深くは考えず。政府も神と契約がついたのであれば致し方なしと思ったのか、それとも他に何か考えるところがあったのか、とにかく、書類は受理された。家具は刀剣が増えればそのぶん追加ですぐに届く。便利なものだ、と、山姥切は思った。

審神者はと言うと、名が変わってから、しばらく部屋に閉じこもったきりだった。耳を澄ますと、筆を紙に走らせるさらさらとした音がとめどなく、聞こえてくる。町で大量に購入したものだ。声の出せない審神者にはとにかく必要だろうと。それから、音をなくした、機械の音も。何をしているのかは、わからなかった。なんとはなしに、名を与えてから、話しづらくなったように、山姥切は感じていた。もとより声での会話なぞ、してはいなかったが。

食事は、どちらも料理が不得手だったので、すぐに食べられる果物や、生の野菜、レトルト食品が主だった。最低限の調理器具や設備も政府から届けられたがしかし、どう扱ったものかと、悩んでしまうのだ。早くそういったことに見識のある刀剣が来てはくれまいか、と思うが、それも随分、先になりそうだった。この本丸の審神者の霊力では、鍛刀なぞ、できはしないだろう。なにせ、生まれたての赤子と同じなのだ。山姥切が手を貸せばあるいは、とも思うが、そうして呼び出された刀剣が、審神者に従うとは思えない。今は、審神者の霊力が少しでも増えるよう、神気を満たしておくことしか、山姥切には、できない。

どうしたものか、と、考えを巡らせながら、日の落ちた頃、行灯に灯りを入れると、障子に小さな影が映った。思案に夢中で気が付かなかったが、そこには審神者が立っていたのだ。山姥切は「そうか、入れない、のか」と思い、自ら、障子を開けてやった。

「木の枠のところを、叩けばいい」

そう教えてやったが、審神者は、なんとも言えない表情を浮かべるばかりで、山姥切は「しまった」と思った。幼くとも、この審神者は女なのだ。男のかたちをとっている山姥切の部屋になぞ、気軽に入れるわけもない。そう考えると、なんとなく、罪悪感というものが湧いてきた。自分はなんと気軽にずかずかと審神者の部屋へ入り浸っていたものかと。

そんな山姥切の思案をよそに、審神者は、分厚い紙の束をさらに紙でまとめたものを、山姥切に、渡してきた。その指が、腕が、微かに震えていることに、山姥切は、気が付いた。その束は手紙の様相をしていて、慣れない筆字で「山姥切国広江」とだけ書かれており、その、「広」と「江」の間に、微かに、「様」と書こうとしたのか、意味を成していない短い横線が、残っている。

「……ずっと、これを、書いていたのか」

その束の厚みから、山姥切はこの二週間をかけて、審神者がずっと、この手紙を書いていたのだと察しがついた。何を伝えたいのか、何を言いたいのか、わからない。この手紙にいったい、何が書かれているのか、山姥切にはどうにも、見当がつかなかった。審神者も、もちろん、なにも答えない。

「俺は、あんたの目の前でこれを読むべきか」

審神者は、その質問には、首を横に振った。そうして、山姥切の掌を借りて、「いつか よんで」と、綴った。

「いつかもなにも、やることがあるわけでもなし、今から、読む。自分の部屋で、待っていろ」

山姥切がそう言うと、審神者はひどく疲れたような、そんな足取りで、すぐ近くの自室へと、戻っていった。少しして、審神者の部屋の行灯に火が灯るのを見届けてから、山姥切は、静かに、文机に手紙を広げた。

はじめの一行を読んで、ひどく、どうしようもない気持ちになったのを、まだ、覚えている。そして、その気持ちをどうしたらよいのか、今でも、わからないでいる。


三章 普通の御便り 二通目

(以下の文章は書き損じや二重線の引かれた部分を除いた、一通の手紙のものである)

生まれてはじめて手紙を書きます。敬語を使うのは、これが手紙だからというのと、それから、この手紙に、死んだ人間のことを、書くからです。うまくまとまりがついていないことと、しりめつれつになってしまうかもしれないことを、許してください。

死んだ人間の名前は「あい」と言います。山姥切国広の知っている言葉の語順は、「いろはにほへと」かもしれませんが、あいの生きた時代では「あいうえお」から始まります。あいは、その上から二つをとってつけられたものです。「う」まで行くと、座りが悪く、「あ」だけでは座れないから、「あい」にしたんだよ、と、あいの母も、父も、そんなことを、なんの感情も持たずに、あいに教えました。生まれた時代が違えば、きっと「いろ」という名前になっていたでしょう。それくらい、なんの意味も持たない名前で、あいは十二年、正確には、十三年、生きました。

あいが生まれたのは、夏の、真ん中でした。八月十四日。その日、あいは、泣き声もあげず、ただ静かに、生まれました。母はそのまま、泣き声なんてあげなければよかったのにと、よく、あいに言いました。看護師さんに逆さにされ、尻を叩かれて、ようやっと、泣きました。きっと、消えてしまいたいと、思っていたんだと、思います。

望まれずにできた子供が、あいです。母が、父ではない男の人とうわきをして、それでできた子供が、あいです。母は、自分の中に、別の命があることに、四カ月、気が付きませんでした。その間に、あいになってしまう子供は、大きくなりすぎました。法律で、お腹の中の子供を殺すことができる期間を過ぎてしまっていたのです。父もそのあたりになってやっと、不自然な子供の存在に、気が付きました。

せけんてい、という言葉の意味を、あいはよくわかりませんでしたし、わたしもまだよくわかっていません。しかし、あいはその「せけんてい」によって生まれて、育てられました。あいの父親と母親もまた、「せけんてい」で関係をたもち、その中で、生活しました。

あいが大きくなるにつれて、父親も、母親も、あいを憎むようになりました。あいが、あいの本当の父親というものに、どんどん似てきたからだそうです。むつかしい言葉で言えば、「ぎゃくたい」をされるように、なりました。覚えている頃から、なんとなく、他の家の子よりなぐられる回数が多いことはわかっていましたが、どんどん、ひどくなってゆくのでした。ごはんを食べられる日が、ごはんを食べられる日よりずっと少なくなった頃に、あいは小学四年生になりました。

あいは、話すのが苦手な子供でした。友達も、どこから聞くのか、「ぎゃくたい」のことを知って、あいに近づくことをしなくなりました。三年生まで仲良くしていた子たちが、あいからはなれていきました。そこから、なんだか、生きる気力みたいなものがなくなって、一度、あいは死のうとしました。

インターネットで、どうすればいいのかを調べて、どうにか、死のうとしたのですが、結局、うまくいきませんでした。そうして、父親と母親にそれが知れて、「じさつされたらせけんていがわるい」と、あいはなんにもない部屋と、誰もいないような学校の往復だけに、時間をつかわせられました。

そんな時に、母親がしんこう宗教にはいりました。ラジオを通して、神様の声が聞こえる、そういう、宗教です。父親は知らないふりをしましたが、あいは、そのラジオと、きれいな教えを、何回も、何回も、聞かされました。そうしているうちに、あいも、その神様を、信じるように、なりました。信じて、お金を払えば、救われるのだそうです。あいはお金を自分で稼げるようになったら、絶対、その神様にお金をあげようと、思いました。そうしたら、しあわせになれるんだって、信じていました。

ラジオからは、ずっと、同じような教えと、ありがたいお言葉が流れてきます。神様の声で、流れてきます。年老いた、男の人の声です。ラジオの時間は決まっていて、朝の六時から夜の十時まで続きます。その間に眠るのが、信じている人たちの務めでした。あいも、そうしていました。ラジオで目を覚まして、ラジオを聞きながら、眠るんです。

学校へはもっていってはいけない決まりなので、学校に行っているあいだは静かでした。でも、そのあいだも、ありがたい言葉と、救われて、しあわせになった信じる人たちの話が、ずっと、ずっと、ぐるぐるぐるぐる、頭の中をめぐります。あいはそのラジオが希望でした。父に殴られても、母が食事を用意してくれなくても、真冬の庭に放り出されても、そのラジオの向こう側にいる神様が、いつか、お金を払えば、助けてくれるんだって、信じていたからです。

そして中学一年生になった、七月十四日、ひとりの老人が、たいほされました。「さぎ」でつかまったのだそうです。あいの何倍の体重があるのかわからないくらい太くて、高そうな服を、着ていました。あいが持っていた一番高い服は、制服です。夏と冬ので、全部で、九万円八千円。三年間、ほとんど毎日、着る服です。その老人が着ていた服は、いったい、あいの制服の何倍なのだろうと、思いました。どれくらい、着るのだろう、とも。

そしてその日の朝から、ラジオが鳴らなくなりました。神様の声が、聞こえなくなったのです。

あいが悪い子だから、望まれない子供だから、友達がいないから、神様が見放したんだと思いました。そうしたら、「あ、消えてしまいたい」と、生まれた時と同じことを思いました。そしてその次のしゅんかんに、あいの存在は、あいのいた世界から、消えていました。

政府の、なにか、不思議なことを扱っているところに、あいは呼び出されていました。そこは、ふつうじゃないって、すぐにわかりました。空気が、違うんです。どう表現していいのかわかりませんが、とにかく、違ったんです。そうして、あいは聞かれました。「いのちをさしだすけいやくをしますか」って。

ここからは、むずかしい言葉と、むずかしい文章のつながりで、あいにはうまく理解できませんでした。でも、あいが「神様のいけにえ」になれるのだということは、わかりました。あいは高そうな紙に、サインをしました。あいのサインで、父親と母親に、お金がゆくのだそうです。いらない子供も「せけんてい」のなかで消えて、お金ももらえて、きっと、父と母は幸福になれるでしょう。あいはそう思いました。あいも、生まれたときからの希望がかなって、幸福だと、生まれてはじめて、思いました。

そして、あいは、不思議な薬を飲みました。いけにえのからだをきれいにする薬です。声が出なくなるかわりに、いけにえとしてふさわしくなれるということでした。薬を飲む前に「なにか言い残しておこうかな」とあいは思いましたが、なんにも、思いつきませんでした。だから、あいは自分の最後の声を、言葉を、覚えていません。どんな声だったのかも、もう、わかりません。

そしてあいは、五本の刀の前に、連れてこられました。この中から、あいを救う刀を選んでね、と、言われました。あいは、一番静かで、一番、何も感じてくれないような刀がいいと、思って、指さし、ふれました。みちびかれるように、指が動きました。

あいが選んだのは刀のはずなのに、本丸という場所についたら、きれいな神様が、いました。存在を知ったしゅんかんに、神様だって、わかりました。神様って、こんなにきれいなんだって、あいは思いました。神様は静かでした。なんにも、言葉にしませんでした。あいははじめ、あいを気に入らなかったのかと思いました。そう思ったら、神様の声がききたくなりました。

ほんとうの世界から、ひとつだけ、ものをもっていっていいことになっていたので、あいは迷わずに、神様の声が聞こえていたラジオを、選びました。神様の声を、あいはもう覚えていませんでしたが、ラジオから出るノイズの中の、どこかすきまに、その声があるんじゃないかって、ずっと、ノイズを聞いていました。静かに、静かに、ざあざあという音を聞いていると、落ち着きました。ああやっぱりこの神様はあいを見捨てたんだなって、思いました。死ぬことが、怖くなくなりました。

そうしたら、ラジオじゃないほうから、声が聞こえました。しゃがれた老人の声じゃなくって、もっときれいで、ずっときいていたくなるような声でした。あいはノイズの海から、ひっぱりあげられました。

神様は、何か、わからないことを言いました。不思議だな、と、思いました。神様って、なんでも知ってるはずなのに、あいのことを、なんにも知らなかったからです。神様は、あいがあいをいけにえだって教えると、ひどくびっくりしたようでした。あいも、びっくりしました。

神様はそのあとに、すぐ落ち着いて、刀を抜きました。きれいな、やいばでした。こんなきれいなものに、いのちをうばってもらえると、あいは、うれしくなりました。けれど、神様はその刀を、さやにおさめて、神様の名前を、あいに教えました。

山姥切国広

あいの知った、最初で、最後の、神様の、ほんとうの名前です。

山姥切国広は、優しい神様でした。あいのそばにいて、あいに話しかけてくれました。あいはなにも返すことができないのに。そうして、山姥切国広は、あいに町へ行こうと言ってくれました。生きようって、言ってくれました。でも、あいはいけにえなので、ダメでした。生きることは、許されませんでした。

そして山姥切国広は、静かに、優しく、あいのこれまでの、なんの意味もない、軽くて、すかすかの人生を、大切に、心に閉じ込めてくれました。あいが最後に聞いた神様の言葉は、きれいだとか、うつくしいだとか、そういう言葉では、表せないくらい、あいにとって、大切な、大切な宝物になりました。その宝物の一部になって、あいはいなくなりました。きっと、最後に言葉を残せたのも、山姥切国広のおかげです。その言葉を、山姥切国広なら、覚えていてくれるのだって、あいは信じることができたからです。

「さようであるならば」

あいの聞いた、最後の言葉です。そして、わたしが生まれました。

わたしが初めて聞いた言葉は、不思議な響きでした。とても重くて、きれいで、うつくしくって、もったいない、わたしの名前でした。山姥切国広は、その言葉の意味を、一緒に探そうと、そう言ってくれました。その言葉に、あいの人生も、わたしの人生も、全部、乗っかっていて、とても苦しくて、辛くて、でも、あったかいんです。そのあったかい気持ちがなんなのか、わたしには、わかりません。これから、知っていきたいと、思います。

生まれた瞬間に、わたしは、そのあったかい気持ちで、いっぱいでした。だから、泣いたのだと思います。逆さにされて、おしりをたたかれたからとか、そういうことじゃなく、自然に、泣いたのです。生きたいと思いました。ずっと、生きて、山姥切国広に、この恩を、少しずつでも、全部返せなくっても、とにかく、小さな破片でも、返していかないといけないと、思いました。不思議なことに、その日の日付は、八月十四日でした。

それが、わたしの、はじまりの、全部です。

この手紙は、ラジオのノイズを聞きながら、書きました。その神様はあいを見捨てた神様だけど、あいを少しだけ、ほんの、少しだけ、救ってくれた、大切な神様だからです。山姥切国広は、もしかしたら、この音を嫌いになるかもしれません。

でも、わたしは、あいを忘れないために、あいのぶんも生きるために、このラジオを、手放すことはないでしょう。ごめんなさい、山姥切国広。でも、もうノイズの中に、神様の声を、探すことはしません。わたしの信じる神様は、たった、ひとり。山姥切国広だから。

あなたの声が聞こえるかぎり、わたしは、―――――(以下、墨の跡と、空白が続く)


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

――(真名で署名がされている)


三章 普通の御便り 三通目

書き損じと、二重線が山のようにある手紙だった。山姥切は、それに皺が寄らないように読むので、精一杯だった。身体がきゅうに重くなったように感じた。そして、自分の瞳から、水が流れるのが、わかった。一刻ほどで、手紙は読み終わった。読み返す気力が起きないような、手紙だった。けれど、この手紙を、山姥切は何度も読み返さなければいけないと思ったし、何度でも、読み返したいと思った。

その手紙に、山姥切はなにか、返事を、と、思い、部屋を出た。待っていろと言ってしまっていたし、これを受け取るだけでは、ふさわしくないだろうと、思ったのだ。しかし、審神者の部屋の前まで来て、山姥切は、声が出なくなった。何を返せば、何と返せば、よいのか、そして、膨大な言葉の海から、どれを選べばいいのか、どれを選ぶべきなのか、わからなくなってしまった。

そうして、しばらく、障子の前で立ち尽くした。気づいたのはその時だったのだが、自分の瞳から、とめどなく水が溢れているのだった。きっと醜いに違いないと思った。こんなものを、あのうつくしい審神者に見せることが、できようか。いや、できない。山姥切が出直そうと思ったその時、障子がすらりと、開かれた。

山姥切は咄嗟に、布を引き下げ、俯いた。審神者の様子もわからなくなってしまうが、これで自分の顔も、審神者からわからなくなると思ったのだ。そうして、ただ一言、「読み終わった」とだけ、やっと、伝えた。その声はみっともなく震えて、布を下げた意味が、まるでなくなってしまった。審神者の空気のようなものが伝わってきて、山姥切はいたたまれなくなる。すぐにでも、この場を立ち去ってしまいたいと思った。そうできなかったのは、審神者の冷たい指が、山姥切の涙を、ぬぐったからだ。

「……言葉にならない、思いというのを、はじめて、知った。……俺は、たいへんなことを、した。感謝される、いわれは、ない。憎んでくれて、かまわない。俺は、俺は、……」

言葉が続かなかった。伝えたいことも、伝えなくてはいけないことも山ほどあって、それを伝えるすべも、奪われてなんか、いやしないのに、それでも、言葉が出てこない。不思議だった。涙ばかりが溢れて、仕方なかった。審神者の手もどんどん濡れて、ぬぐう意味を、なくしてしまった。

「……触れても、いい、か」

審神者はひとつ、頷いた。山姥切はその小さく、薄く、細い肩に額をあてて、声を、殺した。胸が痛い。切り開いても、骨と、考えることのできない内臓しかない、その場所が、ひどく痛む。

「これはなんだろう」

人間という個体がふたつ生まれた時からずっと探して、考えて、なにかにこじつけることでしか理解することのできなかったものだとわかっていた。けれど実際に感じてみて、ほんとうに、不思議なのだ。これがなんであるのか、どうしてこんなに苦しいのかわからないというのは。

もう、夜半だ。審神者は眠らなければいけない。山姥切も眠らなければいけない。けれど、離れがたいと思った。審神者の手が、何かしようとして、諦めたように、下に垂れた。きっと、審神者も、こういう時どうしていいのかわからないのだと、山姥切は思った。その気持ちが痛いほどわかって、山姥切は「俺の、どこか、背中でも、肩でも、手でも、どこかに、触れて欲しい」と言った。審神者は、それに従うように、静かに、山姥切の背中に触れた。そうしたら、不思議な感覚がした。冷たいのに、あたたかいと思った。ふたりの体温が溶けて、交わって、しみこんで、ひとつになるような、感覚がする。ひどく、安心した。

山姥切はその時になって、自分の神気より、審神者の霊力の方が強くなっていることに気が付いた。ふたつはほとんど同質で、だから、今の今まで気づかなかったのだと、思った。審神者が山姥切の部屋の前まで来てもわからなかったのは、このためだったのかと、頭のすみで思った。今は、そんなことよりも、もっと、重要なことがあって、だからその考えはとりあえず、そのあたりに放り投げた。そうして、行方を知らないでいた腕を審神者の背中に回した。

こんな、ちっぽけで、なんの力も持たない、細くて、折れそうで、傷だらけの、しかしなんの傷も持たない人間に、山姥切は救われている。これから、できるだけのことをしようと思った。自分が、神ではなく、ただ山姥切国広としてできることを。できるかぎりの、すべてを。



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