Junction the story with you.

 その一室は薄暗く、全体的に黒ずんで汚らしい蛍光灯がジジジ、とかすかな音をたてながら、部屋を辛うじて照らしている。
 部屋は暗いだけではなく、臭い。何年ものあいだ大量にふかされた、あるいは思い切り肺に入ったあとに酒気とともに出ていくタバコの煙が壁紙に染みついて黄ばみをつくり、空気をいくら換えたとしてもなくならない臭いのもとになっているのである。
「だからァ! オメーは留守番だって昨日も言っただろうが!」
「留守番だとは言ってない! 兄ぃは"そんなんでマトモに仕事できると思ってんならオメーの頭ン中はえんどう豆スナックよりもスッカスカだろうな"って言っただけ!」
「それが留守番してろって意味だバカ!」
 そんな淀んだ雰囲気をびりびりに破るみたいに、1人の男と少女が言い争いをしている声が狭い部屋に響く。いらついて怒鳴っているほうはプロシュート、同じくいらついて怒鳴っているほうはナマエである。この建物全体が彼らの組織――パッショーネの所有だし、今は寒くてとても窓なんて開けられないから近所から苦情がくることもないだろうが、それでも若い二人の言い争いの声には、そばにいるペッシも引き気味に身を縮こまらせている。
「あークソ、余計な時間くった。行くぞペッシ。いいか、オメーは来るな。理由は一つ、今日のはオメーにはぜってぇ無理だからだ」
「やだッ! わたしも行く! 行きたいの!」
「いい加減にしろ!」
「だって――」
「だァーもう! うるせぇぞッ!」
 とうとうしびれを切らして、同じ部屋でキンキン声に耐えていたギアッチョが、2人と同じか、それ以上の声量で一喝した。ギアッチョにしてはよく耐えたほうだと普段の彼を知る者なら思うだろうが、実際彼はここ2、3ヶ月のあいだずっとナマエとチームの誰か――たいがいはプロシュートかギアッチョ自身、ときどきイルーゾォが、このように言い争いをして声を荒げるという事象を経験してきているから、喧しさへの耐性が上がっているのである。
 前歯が全部みえるくらい唇をめくらせて、ギアッチョの「キレ」へは皮一枚といったところだ。喧しさに耐え気を落ち着けるために読んでいたはずの車の雑誌を持つ手が震えて、もう少し力を入れればページが破けてしまうに違いない。これ以上彼を怒らせると面倒くさくなることがわかっているから、プロシュートは小言をもう言わずに、ペッシに目配せをすると速やかに部屋を出ていったし、ナマエもあからさまに唇を尖らせて黙った。不貞腐れてなおざりになった動作で、狭い部屋の3分の1くらいも場所を取っている小汚いソファに三角座りで沈みこみ、自分の膝小僧あたりを睨みつけている。
「はーやっと静かになった。クソが……」
 ギアッチョは舌打ちして、破かずにすんだ雑誌に視線を戻す。しかし、怒りの読書中断によってどこまで読んでいたかを忘れてしまったので、また舌打ちをする。
「ねぇギアッチョ」
 ナマエは尖らせた口で、ぼぞぼそとギアッチョに話しかけた。
「ア?」
「わたし、いつまでこうしてればいいの」
 ギアッチョは雑誌から目を離そうとしない。しかし声色から、ナマエがかなり落ち込んでいることはわかった。だから、そっけなくではあるが答えた。
「しらねーよ。テメーのスタンドがちゃんと出てくるまでだろ」

MOMENTI


9


 ナマエが暗殺チームの一員になったのは、1年ほど前の、秋のことだった。
 その頃の暗殺チームはソルベとジェラートを失ったばかりで、いつ命を落とすか、再起不能になるかもわからないキツい仕事ばかりをやらされ続けていた。秘密主義のボスに角を折られるどころか粉々に砕かれて各々が絶望的に参っていた日々にまた仕事が降ってきたのだが、そこでの副産物がナマエであった。
 本当は、情報管理チームの構成員を一人死なせたスタンド使いの男を始末するだけで良かった。それがボスから幹部、幹部からリゾットを通じてチームに課せられた仕事だった。よくあるバラシの仕事だから、誰も行きたいという者もいなければ行きたくないという者もいなかった。それでたまたま予定が空いていたリゾットが任務に就くことになっていざ現場に行ってみると、それはいとも簡単に済ませることができた。男は抵抗するもののスタンドは隠密行動向きだったので、正面からリゾットに「メタリカされて」しまえばどうしようもない。男の体内から出てきたみたいに数本の刃物が皮膚を突き破って、出血が多すぎた男は次第に動かなくなっていく。ふう、と一息を吐いて、さて清掃班を呼ぶかと思ったら、部屋の奥で物音がする。「出てこい!」とスゴ味のある声でそう言うと、誰かがそっと出てきた。見ると、事前に仕入れておいた男の情報にも、「娘?」という注釈つきでブレた顔写真だけ載っていた少女だった。
 少女がこちらに向かってきたときのことを考えながら、リゾットは彼女を注視していたのだが、男がうめき声をあげても、男の身体のちからが見るからに失われていっているのを見ても、少女はその場に立ち尽くして、ただ男を空虚な目で見つめるだけだった。
「お前は誰だ」
 その場には、ボディが一体と、生きている2人の人間。その2人は、微妙な距離感を保ったまま。リゾットはややあってから、そう訊いた。
 リゾットの声は、その体格もあいまって低く重く聴こえる。少女は問いかけに一瞬びくりと肩を震わせて、やっとリゾットのほうを向いた。
「お前はこいつの娘か?」
 口を少しだけ開けたまま、何も答えない少女は――リゾットから見れば、あまりに突然のことで答えられないのだろうとわかったが――、その質問には首を縦に振る。
 リゾットは冷静だった。少女はただのターゲットの娘であり、男とは違って殺しの同業者ではない。親がスタンド使いの荒くれ者でも、その娘が同じく激しい気性をしているとは限らない。
「これが視えるか?」
 ただ、目の前の少女がスタンド使いであるなら話は別だ。組織外でスタンド使いがいられちゃ困る。パッショーネの構成員にはスタンド使いではない者もいるが、その逆は絶対に成り立たなければならない。つまり、スタンド使いはパッショーネの構成員でなければならない。
「……目と口と手がある、なんか、銀色の、気持ち悪いものが……」
 リゾットがスタンドを手のひらに出現させると、少女は顔をしかめながらそう答えた。視えているのか、とリゾットは知った。
「悪いが、ついてきてくれ。お前には見られてしまったし……」
 リゾットはその先を言うのを躊躇った。「見られてしまったし、視えるみたいだから、場合によっては死んでもらう」、だなんて言ったら、むしろ大人しくついてきてくれなくなるかもしれない。
 少女に抵抗されたらどうしようかとリゾットは頭の隅で考えていたが、それは杞憂だった。こくん、とうなずいて少女は、転がっている体と周辺の血溜まりを飛び越えて、リゾットのほうに近寄ってきた。リゾットは念のためメタリカの構えでいたのだが、少女は控えめに手首を差し出すだけだった。
「……?」
 リゾットが何をやっているんだという目で見下ろすと、「あ、そっか逮捕じゃないか」と少女は独り言をつぶやいた。
 しかしせっかく出された手首なので、一応リゾットは普段自分の胸元を押さえているベルトを少女に渡して、それで自分で縛るようにと言った。少女は従順にそのとおりにした。それから少女を先に行かせて、リゾットは裏手に停めた車まで誘導した。自分よりも頭2つ分くらい小さい少女を注意して見ていたが、動きも、オーラも、一般人のそれだ。しかしリゾットは少女と近寄って初めて気づいたのだが、彼女の首や手首には、最近つけられたのだろう赤黒い痣があったし、口元には切り傷がある。リゾットは、知っていた。こういうふうに成人もしていないような少年少女が、大人の側にいるのに傷や痣をつくる事例なんて、たいがいそこにどんな理由があるのか。なんだったら2、3こその理由を挙げることができるくらい、よく知っていた。
「あ? それが例の嬢ちゃんか。……てかなんで手首縛ってんだよ。それアンタのベルトじゃあねぇか」
 念には念を入れるリゾットなので、一応アジトに控えていたホルマジオを呼びつけた。車から出てきたホルマジオは、リゾットと少女を見るなり眉をひそめた。しかし、ちょっと楽しそうでもある。ただの殺しの仕事だったはずなのに、緊急で小瓶を持って来てくれと言われて来てみれば、闇のなかにリゾットと少女がいて、しかも少女はお縄にかかっているときた。何のプレイだ、と揶揄いそうになったが、相手はあまり冗談を好まないリーダーだ。なのでやめておいた。


8


 そういうわけで、ナマエはアジトに連れてこられたのである。ナマエは道中ホルマジオによって小さくさせられて小瓶に入れられ揺さぶられ、アジトについてからは薄暗い汚い部屋にしばらく閉じ込められ、食事も便所も自分で言い出すまで配慮されなかったというのに、文句を言うこともなく大人しかった。
 次の日、リゾットが「多分スタンド使い」の少女を拾ってきたという話を聞いて興味津々のメローネが健康状態などをナマエに訊きまくっても、ナマエは怒ったりしなかった。もちろん嬉しそうということでもないのだが、とにかくナマエは大人しかった。「猫ってよぉ、知らねぇ家に連れてこられるとあんなだぜ」とホルマジオは言う。ギアッチョとプロシュート、イルーゾォは関心なしという感じで、唯一ペッシは「あの子大丈夫かな、シャワーとか、トイレとか」と気遣って、そのあいだリゾットは幹部とのやり取りをしていた。

「いったん……いやいったんというか、これから……うちで面倒を見ることになった」

 そのまた次の日、チームのメンバーが集めてリゾットが発表したのはこうである。当然「ハァ?!」「……は?」「はぁ……」「あーあ」「えぇ……」というネガティヴな反応があり、しかしメローネからは「おお!」という嬉しそうな声が出たのだが、リゾット自身もやれやれという思いでいた。
 リゾットはナマエを「保護」してから幹部に相談したのだが、彼女がおそらくスタンド使いであることと、抵抗はせず同業者ではなさそうということを報告すると、やはりといったところか、「それならお前たちで面倒を見ろ。ただしスタンドの有無と正体がはっきりしたら報告するように」という返答が来たのである。要するに、リスクはお前たちで取れ、お釣りが出るならこちらに寄越せというわけだ。ソルベとジェラートの一件で立場をかなり弱くしていたリゾットがNoと言えるはずはなく、返事はSiに決まっていた。
 メンバーたちもそのことをわかっているから、表立ってリゾットを責めたりはしなかった。相手がターゲットの娘でもおそらくただ巻き込まれただけだから、「じゃあ一緒に片付けておけば良かったのに」と切り捨ててしまうのも気が引ける(者もある程度いた)。もうぐだぐだ言っていても仕方がないなら、次にするべきことは少女の服従を確実にして、スタンドを明らかにすることだった。

 それから日が経つと、少女はただ大人しいというだけではなく、チームのメンバーに対して危害を加える意志がないということも確かになってきた。こんな男所帯の、薄汚いだけではなくむさ苦しい、殺伐とした場所に連れてこられたというのに、特に嫌な顔をしない。リゾット以外のメンバーは「何だあいつは、意志がないのか」と驚いていたが、リゾットは「少女がもといた場所」について想像を巡らせていた。
 こちらへの敵対心がないのはいいことだが、チームとしてうまくやっていくにはちょっとくらい帰属意識を育む必要がある。少女にタダ飯を食わせるわけにもいかないので、これから仕事をこなせるように教育しなければならない。リゾットは、ある程度の期間をメンバーそれぞれと行動させることにした。


7


「お、嬢ちゃん。よく来た」
 そういうことになってまず、ナマエがこのごろ行動を共にしているのはホルマジオだ。誰がナマエの最初の教育係になるかメンバー間でピリついた空気のなか決めたのだが、そんなに間をあけず挙手したのがホルマジオだった。曰く、「めんどくせぇことは意外と一番最初に片付けておくのがいーんだよ」とのこと。
 具体的にリゾットからこれとあれとそれをナマエに教えてほしい、という注文は受けていないため、ホルマジオは自分がよく使っている拠点にナマエを呼びだした。夕方になってナマエがその拠点のベルを鳴らすと、かなりの間があいてからホルマジオが出てきた。イタリアはヨーロッパのなかでも温暖なほうではあるが、そうはいっても季節は冬になるころだ。日が沈めばもちろん寒い。しかも彼らギャングの拠点ともなれば街灯の明かりが入ってきにくいので薄暗くて寂れている。それなのにホルマジオからはごめん、待たせた、とかいう断りもなかったので、ナマエは、この男は人を待たせておくことにまったく申し訳なさを感じないタイプか、と思った。事実、そのとおりである。
「あーなんか飲むか? ソーダと、酒しかねぇけど」
 ホルマジオはナマエを手招きすると、冷蔵庫を開けながら言う。ナマエがソーダ瓶を受け取ると、一緒に蓋のオープナーが投げて寄越された。一方ホルマジオはビール瓶の蓋をテーブルの端を使って雑に開ける。ガッ、という鈍い音の次にシュ、という軽快な音が鳴る。ホルマジオがゴク、と喉を鳴らしてビールを身体に入れる音が、しばらく途切れ途切れに聴こえる。
「……あの、わたしはどうすれば」
 堪らなくなってナマエはそう訊いた。呼び出されたかと思えば、あれをしろこれをしろという注文がない。ホルマジオとは、ただ初対面でスタンドを行使され、小さく持ち運ばれただけの仲だ。しかもホルマジオの態度は飄々としていて、ナマエには彼が何を考えているのかあまりわからない。
「あ、そうだよな」
 ホルマジオは、ナマエの言葉でやっと気づいたみたいに喋りだす。
「ソフィア! ビアンカ! エリーザ!」
 そして急に女性名で誰かを呼びはじめた。「おーいどこ行った」と言いながら、部屋のなかを見渡したり廊下に出たりしている。ナマエはその姿を目で追いながら、なんなんだ、と訝しんだ。
「んーやっぱこねぇな」
 ホルマジオはいったんキッチンに戻って、棚から大きい袋を取り出した。その中身を3つの器に適当に入れると、手に持って器を振った。シャラシャラ、と中身が揺れる音がする。
 するとどこかから、みゃーお、という声がして1匹、みゃ、みゃ、また1匹、みゃお、さらにもう1匹と猫が集まってきた。この建物のどこかにいたらしい。
 ホルマジオは集まってきた猫たちの目の前に器を置く。「うまいかぁ?」と言って猫を撫でる。しかし猫たちは食事に集中しつつも、ホルマジオの手から逃れるようにして身をかわした。
「あんま懐かねぇんだよな。飯のときだけ出てきやがる」
 ホルマジオは笑いながらそう言うが、ナマエはこの様子じゃあ無理もないと思った。猫は自分の嫌がることをする人間が嫌いらしい。猫に限らずだが。
「どれがソフィア?」
 ナマエが訊いた。ホルマジオは白猫を指す。
「ビアンカは?」
 またナマエが訊いた。ホルマジオは長毛の猫を指す。ということは、茶の縞模様がエリーザだ。
「全部、昔の女の名前」
 最後にホルマジオは訊いてもいないのにそう言って、にかっと笑った。
「猫、好きなんだね」
「おう。猫はいいぜ。自分の欲求に素直だからな、こんなふうに」
 ホルマジオはビアンカという名の猫を、彼女がまだ食事中なのに抱き上げようとした。
「明日から3日くらい空けるからよ、頼んだわ、こいつらの世話」
 しかしやはり、彼女はまたするりとホルマジオの腕を抜けて、食事に戻った。


6


 チームのメンバーは基本的に自宅というものをもっていない。「自宅」を作ってしまうと、そこに個人的な情報がわかるものが蓄積されてしまい、いつかそれが弱みになってしまうかもしれないからだ。
 しかし、「鏡のなかの世界と行き来できる」というイルーゾォは別である。鏡には彼が許可したものしか入れないから、誰かに暴かれ荒らされるという心配をする必要はほとんどない。ナマエはチームのメンバーのスタンドについて基本的なことを知ったあと、イルーゾォの能力に一番興味をもった。

「ちょうど今日、オレの掃除当番なんだ。お前も手伝え」
 ナマエがホルマジオの次にイルーゾォと行動するようになってから、イルーゾォは鏡のなかから不意に現れて話しかけてくることがある。その日も、いつもアジトで寝泊まりしているナマエが起きて――ここに来てからというもの、すっかり活動時間が夜中心になってしまったので起きたのは夜なのだが――眠気まなこをこすっていると、イルーゾォがぬっと現れてそう言った。
 掃除当番なんてものがあったのかとナマエは驚いた。この建物は全体的に古臭く汚れているし、ナマエはもう慣れてきたが若干臭いし、家具も塗装が剥げたり一部破損したりしている。
「わかった。どこ掃除すればいい?」
「決まってない」
「え?」
「きたねーと思うところを、てきとーに掃除すりゃいい」
 イルーゾォは鏡の縁に肩肘をつきながら言った。チーム内でも、掃除するべき場所もやり方も統一されていないのだという。
「汚いと思うところっていうと……この建物全体になっちゃうけど……」
 ナマエが正直にそう言うと、イルーゾォはプッと吹き出した。
「お前わかってんじゃあねぇか。ははッ! 衛生観念が近いやつが来てくれて助かったぜ」
「え、じゃあ……」
 まさか本当に全館掃除するつもりなのか、と思ってナマエが渋い顔をしたのを見て、イルーゾォは「便所とキッチンだけでいい」、その2つは放っておくと後々大変だからと付け加えた。ナマエは、イルーゾォという男が意外と常識的な人間なのだとわかった。

 イルーゾォは便所の、ナマエはキッチンの掃除が終わると、イルーゾォは「ちょっとこい」とナマエを呼んだ。
「鏡のなか見せてやるよ」
「え、いいの?」
「ん。オレのスタンドの肝心なところは鏡、だからな。それが知られているとなっちゃあもう何も隠すもんもねぇよ」
 イルーゾォに手を引かれて、ナマエは鏡に入る。不思議な感覚だ。あらゆるものに現実世界と変わらない奥行きがあるのに、ただしそれらすべては左右反転している。
「これって触れるの?」
 ナマエは鏡のなかにも存在している家具に手を近づけた。イルーゾォはニヤッと笑った。やってみろということらしい。
「……ん?」
 ナマエは驚いた。たとえば目の前にあるように見えるソフィアを指で押してみると、本来感じるはずの柔らかく沈み込む感じがせず、ただ指を動かしているだけという感覚がする。今度は机を触ってみると、本来感じるだろう木の硬さを感じないのに、何かに阻まれて指をそれ以上沈めることもできない。
「鏡のなかだからな。ここにあるものは本物のように見えて本物じゃあねぇ。だから……」
 イルーゾォは足元に落ちていた紙くずのゴミを足で踏んづけた。しかしそれはくしゃくしゃになることなく、元の形を保っている。
「鏡のなかは、見た目よりは汚くねぇってことだ」
 ナマエは、イルーゾォが普段鏡のなかで寝たりしている理由がわかった気がした。
「……鏡のなかに、あなたが許可したものは持ち込めるんだよね? それなら……」
 イルーゾォはまたニィ、と笑った。
「オレはベッド持ち込んでるぜ。自分専用のな」
 それからしばらくして、ナマエもときどき自分の寝具を持ち込んで、鏡のなかで寝泊まりするようになった。


5


 ホルマジオもイルーゾォも、組織の仕事を体系的に教えるということをしなかった。そのことに気づいたリゾットが、もうプロシュートしかいないだろうと思って、彼に次の担当を回した。
 そうしてナマエを預けられたとき、プロシュートは嫌々という顔をした。リゾットの苦労も知っているし、年長者としての矜持もあるし、ペッシのこともあるから教育に自信もある。しかし何者かわからない、しかも女を預けられるのには気が進まない。
 プロシュートはとりあえずナマエを連れて、ペッシにも教えたようにナポリにあるいくつかの拠点を周ってみる。たいがいは、夕方出かけて、深夜帰りだ。このエリアはどのチームが管理してる、仕事の経路はこの道を使うのが良い、そんな基本的なことを教えて、ついでにナメられないようにするための言葉遣いや威圧的態度も、やってみて真似してみろと言う。ナマエは覚えが悪くないし、口答えせずにうんうんと頷く。だから、だんだんプロシュートも教育が100%面倒くさいという気持ちでもなくなってきた。

「ナマエよォ、オメー着るモンそれしかねぇのか」
 プロシュートにも余裕が出てきて、連れ歩いているナマエの格好が、洒落たものでもなんでもない地味な普段着だということが気になるようになってきた。いつも夜に動いているから小さな汚れやほつれなどあっても気がつかないことも多いが、彼にとってはそれにしたって、である。プロシュート自身は、金がなくとも仕事には良いものを着るものだという思想を強くもっている。ペッシにも、自分の弟分として外に出しても恥ずかしくないようにコーディネートさせている。ナマエにもそれなりの格好をさせるべきだというのが前提でそう訊いたら、やはりナマエは「これしか持ってない」と言った。
「だって、あのあと家に帰るのだめだって言う、から……」
 ナマエは、加えてそう言った。ぼそぼそ言うとプロシュートに「もっとはっきり言え」と怒られるので、声は大きめに出しているが、語尾のほうは弱々しい。そうであっても、この数週間ナマエと一緒に行動してみて、こうしてSi以外のナマエの考えが口から出てくるということがだんだん増えてきた。だからプロシュートはおや、と思った。
「あたりめーだろ、家に返して逃げられたらどうすんだ」
 プロシュートは隣を歩くナマエの衣服をちょっと引っ張って、街灯の下でまじまじと見てみる――やっぱりだ、やっぱりクソ地味でパリッともしてねぇ。
「ねぇ引っ張るのやめて。しょうがないよ、お金ないんだし」
「あ?」
 でもちょっとでも言い返されると、プロシュートの性分的についアグレッシブになってしまう。そんなところにペッシが「じゃあさ、兄貴」と空気を和らげる。
「このあと買いに行こうぜ。オレ手持ち少ねぇけど、ナマエの服、今より良いくらいなら、なんとか」
「ペッシお前……」
プロシュートはそれを聞いて、少し驚いた。頼りねぇマンモーニだと思っていた弟分に、妹分ができた瞬間を目にした、と思った。
「ナマ言ってんじゃあねぇ。オレが見繕う。そんでオレが出す。決まってんだろうが」
 そう言ってペッシの頭にコツンと拳を当てる。ペッシは「さすが兄貴」と言って、へへへ、と笑った。
「でも服以外の、えっと……アクセサリーとかは、オレが……」
 ペッシがそう提案すると、今度はプロシュートは怒らなかった。その代わり、
「ナマエちゃんよォ、良かったなァこんな兄貴分がいてよォ?」
 そう言ってプロシュートはナマエの頭をくしゃりとなでた。
「うん」
 ナマエもまた頷いた。
「"うん"、たぁまったく生意気な……」
 プロシュートはそう言うものの、口元はにやりと笑っているのである。


4


「ナマエ! やっとおれの番が回ってきた!」
 ナマエは、最近プロシュートに「次はメローネあたりか。まぁ、頑張れ」と最後に言われた理由をわかっていた。アジトに連れてこられたばかりのときから、このチームでも一際クセの強そうな細身の男が、やたら自分に興味を向けてくるし、アジトで顔を合わせると今日の健康状態はどうかとか、汗やその他の体液を採取させてくれないかとか、しつこく言ってくるからだ。ちなみに、そういうメローネにSi答えるのはやめておけとナマエに忠告してくれたのはリゾットとプロシュートである。
「おれは君を医者に連れて行く! おれが普段から世話になっている医者だ! それで君の身体のあらゆるところを診てもらおう!」
 ある日、ナマエは興奮気味のメローネにそう宣言された。ナマエは「よろしく……」と当たり障りない返事をしてみる。
「その前にナマエ、君のスタンドはどんな具合だ? まだ視えるだけで自由自在というわけでもないんだろう? あっそういえば君、なんか雰囲気変わったか? 顔でも変えた? スタンドはおれも最初は手こずったよ。こだわりと集中力というやつが必要だからな」
 いつものようにメローネは喋る暴走機関車だ。
「あ、うん……この服、この前プロシュートとペッシさんに揃えてもらった。顔は変えてない」
「なんだ服か。うーん君のスタンドはどうしたものかな。とりあえず君の毛髪と爪をもらってもいいかい?」
「それは無理」
「そうか。ならしかたがない。じゃあ――」
 一人で喋り続けるメローネのすべてを拾う必要はなく、要所々々で返事すればいいのだということをナマエはわかってきた。

「お嬢さん、あなた、大怪我したことあるね、何回か」
 メローネに連れられて、ナマエが医者にかかっていろいろな検査を受けたあと、医者は開口一番そう言った。
「えっと……」
「なんだって?! 今の健康状態は?!」
 診察室の扉をバン! と開けて、メローネが乱入してきた。こういうときは患者と医者だけで話すもんじゃあないのかとナマエは思うのだが、メローネは診察中も「どうなっている?」と様子を何度も見に来ては一人だけいる看護師に「気を遣いなさい」と言って締め出されて、というのを繰り返していたので、ナマエもそろそろ疲れてきていた。なので、患者の家族かのような真剣な面持ちで一緒に診察結果を聞きたがるメローネを追い払うことを諦めた。
「きれいに治てない箇所あるよ、骨」
 暗殺チーム御用達の医者は、片言のイタリア語でしゃべる。この医者はメローネのことをまったく気にしていないようなので、彼の喧しさに慣れているのだろう。
「あぁ、はい……骨が折れたかもと思ったことは、何回か」
「先生、彼女の健康状態は?!」
「ン、いまは痛くない? 上手に動かする?」
「あ、肩がちょっと……」
「なんということだ!」
「ンじゃリハビリやるね。この男にも手伝てもらて」
「オーケー任せてくれ!」
 そんなわけで、ナマエにとってはやや不本意ながら、メローネはナマエのリハビリに付き合う正当な権利を得たのである。

「なんで骨が折れたのに放っておいてしまったんだ?」
 その後、2人は時間を見つけてリハビリをするようになった。今回の内容は、ナマエの肩のインナーマッスルトレーニングだ。メローネがちょうどよい負荷をかけて、ナマエは少し苦手な肩を使った運動をする。人体にやたらと詳しいメローネなので、傷んでから放置したせいで凝りかたまってしまった関節をほぐしたり、簡易な筋力トレーニングをしたりする手伝いには、申し分ない相手だった。
「えーと……」
 ナマエは、自分のメローネの問いに答えようとして、でも答えない。
「骨は変にくっついてしまったらそのあと痛みが長引いたり変形したりするんだ。こうなるとかえって大変なんだぞ。そもそも大怪我したというのはどういう状況だったんだ? そういえばリーダーから聞いたが君は以前――」
 メローネはいつものように一人で喋り続けそうになったが、ハッとして言葉を止めた。
「――ん、でもまぁ、誰でも言いたくないことはあるからな、1つや2つや3つや4つくらいは」
「多すぎない?」
 ふふ、とナマエが初めてメローネに対して笑ったので、メローネは嬉しくなった。これならいつか、体液や毛髪や体の一部をもらえるかもしれないと思った。


3


 ナマエがリゾットのチームに来てから半年ほど経ったのに、まだナマエのスタンドは出てこないままだった。このチームには近接型も遠隔型も、スタンドが何かを具現化するタイプもスタンドによって環境や人間を変化させるタイプもいるから、リゾットとしても1人くらいナマエの未だ見ぬスタンドの手本になるようなメンバーがいるのではないかと考えていた。プロシュートはよくナマエにスタンドの何たるかを教授しようと仕事に連れて行き様子を見学させたり、メローネは言葉を尽くしてスタンドを扱う感覚を説明してみたりと、いろいろ試してはいるのだが、しかし事はそう順調にはいかないようだ。
 ナマエはスタンドが視える。スタンドが視える本人がスタンド使いではないというケースがこれまでに存在しないので、ナマエはスタンド使いである可能性が高い。しかし、ナマエはスタンドを具現化して操ることができない。けれど、暗殺チームの仕事の成功率を上げるにはスタンドが必要だ。それはつまり――
「わたし、役立たず、だった」
「あ?」
「やめてくれッ、命だけはッ……」
 ナマエは最近、ギアッチョと一緒に行動することが多い。
「だって……さっき、何もできなかった……」
「パクったぶんは必ず返す! 何をしてでもッ、ぞ、臓器を売ることになったって返すからッ、」
「うるせぇ! いまコイツが話そうとしてんだろうが」
 ギアッチョは、目の前で膝をついて自身に縋りつこうとする男の腹部に蹴りをいれた。男はうめき声をあげてうずくまる。自分の腹を押さえようとするが、ギアッチョの能力で腕が凍ってしまっていて動かない。
「テメーさっきからしかめっ面しやがって、そんなこと考えてたのかよ」
 ギアッチョはため息をつく。ナマエの言うさっき、というのは追い詰めた男が窮鼠のように、ナマエに襲いかかったときだった。ギアッチョの反応のほうが早くて結局ナマエは傷ひとつ負わなかったし逆に男は腕や足を凍らされてしまったのだが、それがナマエは気に入らなかった。
「ンなめんどくせぇこと考えてんじゃあねぇよ」
 ギアッチョはナマエに手を差し出す。
「だって、わたしだって……」
 ナマエはその手にガムテープを渡した。
「出ねぇもんは出ねぇ。焦っても仕方ねぇだろうが」
 ギアッチョは、男の腕と足をテープでぐるぐる巻きにして、目と口と耳も塞ぐ。携帯電話を取り出すと、後処理をする別のチームに電話した。そして、そのあいだもずっと沈んだ表情をしていたナマエに、帰るぞ、とだけ声をかけた。

「あれ、こっちの道行くの?」
 2人とも黙ったまま、車を出してから数分走り続けていたのだが、あるときナマエがそう訊いた。普段仕事の行き帰りに使うルートとは違うほうに、ギアッチョが車を走らせたからだ。
「……根を詰めるって言葉ってよォ……」
 しかしギアッチョはナマエの問いかけには答えずに、代わりにそんなことを言い出した。
「うん?」
「精神を集中させてやり続けるってときに使うよなァ……」
「うーん、うん、そうだね」
「何気なくみんな使うけどよ……なんで、"根"なんだ? 根っこでも詰めるってのかァ? 意味わかんねーよなァ……」
 ナマエは、こういうふうに言葉の表現の由来だとか、制度や仕組みが不合理でよくわからないものだったりするのを知ったときのギアッチョの反応を何度か見たことがある。こういうことに気づいてしまったギアッチョが納得できないままだと、彼のイライラは頂点に達する場合が多い。それを知っているナマエは、彼の納得がいくような説を考えてみた。
「あの"根"は根性とか根気の"根"で、使われるうちに省略されたってことなんじゃあないの?」
「……あー……」
 さっきは語調が荒っぽくなって明らかにイライラしていたギアッチョだったが、ナマエがそう意見を述べると、ギアッチョも納得がいったのか、足の貧乏ゆすりが止まった。

「久しぶりに、このへん通った気がする」
 この日の仕事も夜だった。車は普段はあまり通らない道を抜けて、海沿いの大通りを走っていく。日が落ちた晩春の海の風はオープンカーに乗る2人の髪を揺らして、すぐに通り抜ける。
「でもなんで、急に"根を詰める"が気になったわけ?」
 ナマエはギアッチョのほうを見た。暗い海を背景にした彼の横顔が、街灯に照らされている。
「……根詰めてるからだろうが」
「え?」
 ギアッチョは答えた。彼にしては小さい声だから、ナマエは注意してそれを聞き取った。
「……根を詰めすぎなんだよ、オメーは」
「……」
「焦ったら出るもんも出ねぇだろ」
「……うん……」
「別にオレは、オメーにスタンドがあるとかないとか、だから役に立つとか立たないとか、どうでもいい」
「うん……」
 ナマエは上を向く。街灯の切れ間に、夜空には明るい星がいくつか見えた。


2


 そうして1年が過ぎたころには、ナマエはすっかりチームに馴染んで、それどころかメンバーと言い争いをする(だけで、それが殴り合いとか殺し合いに発展するわけではない)くらいには関係が深まっていた。
 一番ナマエと言い争うことが多いのは、プロシュートである。ナマエが彼のことを「兄ぃ」と、ペッシのことを「ペッシ兄さん」呼ぶようになったくらいから、ナマエはプロシュートに刃向かうようになった。そういう言い争いは、ナマエがプロシュートとペッシの荒っぽい仕事に連れて行けと言い、プロシュートがそれを拒否することから始まる。早く一人前になりたいナマエと、スタンドを操れない以上は危険な仕事には連れていけない、大人しく集金や見回りだけをしておけというプロシュート。そこに時々、実戦も必要なのではないかと口を出すホルマジオや、いや万が一人質にされでもしたらと反対するイルーゾォ。ギアッチョはどちらに属することもなく言い争いなら外でやれと怒鳴り、メローネはそんなことよりスタンドを発現させるために試してみたい実験が、とナマエに迫っては逃げられている。

「わたし、いつまでこうしてればいいの」

 それでナマエはその日もまた、プロシュートに置いていかれたのだ。ナマエはリゾットのチームが管理している地域や店の見回りはたいがい一人で行けるようになったし、連絡や集金もできる。しかし、「暗殺チーム」として他のメンバーがやっているような危ない仕事には、誰も連れて行ってくれない。
「しらねーよ。テメーのスタンドがちゃんと出てくるまでだろ」
 隣にいたギアッチョはため息をついて、ソファから立ち上がる。
「前も言っただろうが。焦んな」
 古びたスプリングがかすかな悲鳴を上げた。自分もそろそろ、決して楽ではない仕事の時間だ。
「じゃーな」
 ギアッチョは、足を折り曲げて座って、顔を組んだ腕に埋めたナマエの頭を、くしゃりと雑に撫でる。するとナマエは顔を上げた。
「いってらっしゃい」
 最近のナマエは、チームのメンバーが仕事に行くときはできるだけ見送るようにしている。
「気をつけて」
「おう」
 いつ、それが最後になるのか、わからないからだ。


1


 その日はナターレの前日だというのに、リゾットとナマエには仕事が入っていた。といっても、組織のボスや幹部はともかく、下で仕事を断る立場にないような男たちには祝日など関係ない。むしろあらゆる場所で人の往来が多くなるこの時期に、誰かを少々痛めつける仕事や、あるいは今回みたいに誰かの命をとる仕事は場合によってはやりやすくなる。
 しかし、やっぱりナマエはリゾットが仕事を完遂する場には同行させてもらえない。ナマエの任務はリゾットからの電話を待って、電話で仕事が終わったと連絡が来れば5分ほど車を走らせて彼を迎えに行き、アジトまで戻ることだ。
「わたし、また待機、だよね」昨日仕事についてこいとリゾットに言われたとき、ナマエはこう言った。「別に、それでもいいけど」さらに、そう付け足して。
「あぁ」リゾットは多くを語るような男ではない。「日付が変わるころの混雑を利用する」彼はただそう答えた。

 ナマエはこのあたりで一番多くの車が行き交う道路を選んで端に駐車した。その道の向こう側には教会があって、日付が25日に変わるのに合わせてたくさんの人が集まっている。今日ばかりは、いつもならこの時間まで起きていることを許されない子どもたち、普段は外に出ない老人たちも含めた家族連れが、この寒さのなか皆で寄り添って教会に入っていく。何日も前からこの日を楽しみにして、いろいろな準備をして、美味しいものを作って食べて、人々は、家族は、これから2000回にもなる誰かの誕生を祝うのだろう。ナマエはずっと暗い車内から外を見ていた。教会の周りの電灯は眩しく、耐えられなくなってきて、目をそらす。こんな人々とは、住む世界が違う――でも、じゃあ一体自分はどこに住んでいるというのだろう? ふと、そんなことを思う。
 ナマエは腕時計を見た。手袋をしてくればよかったと思いながら、手をこすり合わせる。リゾットの仕事ぶりは慎重だが迅速だ。もうすぐ知らせがくるだろう、そう思ったらピピピ、と携帯電話から控えめな音が鳴った。
「もしもし、ナマエ? こちらは終わった」
「わかった」
 交わされたのはそんな短い会話だけだ。ナマエは冷たいハンドルを握る。すぐに車を出発させた。

 現場となった建物の近くまで来ると、リゾットはすでに陰に待機していた。しかしナマエは彼の姿を見て驚いた。
「リゾット……?! そんな、今、今手当てをッ……」
 彼が右手の手のひらからたくさん血を流して、いつも被っている黒い頭巾をぐるぐる巻いて、左手でそれを押さえていたからだ。ナマエは慌てて車から出て、後ろに常備してある救急箱を出す。
「大丈夫だ、ナマエ。手の血はもうすぐ止まる。他は返り血だ。ここは目立つ。車を出してくれ」
 しかしリゾットはそんなナマエを制して、助手席に乗り込んだ。

「血が止まってきた。そんなに焦ることじゃあない」
「……うん……」
 アジトまでの道を、車を急いで走らせている。リゾットは使えない右手の代わりに自分の口なんかを使って、器用にガーゼと包帯を巻いていく。彼が言ったとおり怪我は手だけで、頬や胸元に見えていた赤茶色はターゲットのものだった。運転するナマエが横目で彼の手を見ると、初めて彼と会ったときに見た銀色の小さなスタンドが、傷口の端に蠢いていた。
 また、わたしには何もできない。戦うことも、傷を手当てすることだって。ナマエはハンドルを握り込む。
「そのスタンド……傷も塞いでくれるの?」
「あぁ。応急的にだがな。治してくれるわけじゃあない」
「……そう……」
「そういえばあのとき以来だな。オレのスタンドを見せるのは」
 リゾットは自分にかかった血をふき取っていく。
「……こういう目に遭うとわかっていても、オレたちと同じような仕事がしたいのか、お前は」
 その質問はナマエにとって意外でもあったし、予想できたものでもあった。
「……したいよ」
 ナマエは答える。
「なぜ?」
 リゾットは、別に問い詰めるような声色ではなく、ただそう訊いた。血をふき取って赤茶色くなったガーゼをゴミ箱に捨てる。そしてこちらを見つめたのが、ナマエにはわかった。
「なぜ……って……」
 でもナマエはその問いに答えられない。
「よく考えるんだ」
「……」
「お前はこうして十分に仕事をしていると、オレは思う。スタンドが出てこなくても、お前を邪魔だと思ったことはない」
「……」
 満ちていく、消毒液のにおい。血のにおい。
「よく考えるんだ。お前にはまだ選択肢がある」
 低い声。落ち着いた声。リゾットは何を伝えようとしているのだろう。
「スタンドを、人を殺すために使ったなら、もう戻れない。そうなるともう、人を殺して生きていくことしかできなくなる」
「そんな、そんなこと……」 
 ナマエはふるふると首を振る。そろそろアジトに着くころだ。
「わたし、ここ以外に行く場所なんてない。それだけじゃあだめなの? みんなみたいに、仕事して、お酒飲んで、ときどき美味しいもの食べたい。それが理由じゃあだめなの?」
「だめだ」
「どうして?」
 車が止まる。アジトに帰ってきた。ナマエはリゾットを見る。しかしリゾットは答えない。
「じゃあ……じゃあ、わたしにもコードネームをちょうだい。このチームの一人なんだっていう証、新しい名前をちょうだい」
 ナマエはリゾットにすがるように、彼の腕を掴んだ。乾きかけた血が自分の手のひらにつくのを、ナマエは感じた。
「だめだ」
「どうしてッ……」
「スタンドで初めて殺しをしたら。そうしたら、チームのメンバーとしての名前をつける。そういう決まりになっている」
「じゃあ、じゃあ……」
 ナマエはもう泣きそうだった。
「わたしはみんなの仲間にはなれないの? チームの一員には、なれないの?」
「なれない」
 リゾットは首を振ると、自分の腕を掴むナマエの手をとって外した。
「お前は仲間には、ならないんだ」
 リゾットの赤い虹彩がこんな暗闇のなかにも鈍く光って、ナマエを映す。その視線が、たった今人を殺してきたにしてはやさしく、やさしすぎるものだったから、ナマエの目からは涙が出てきてしまう。
「ナマエ、お前は、これからもお前のままでいるんだ」
 リゾットは、その言葉を言うとき、もうナマエを見なかった。彼女の視線を受け止めることをやめて、しかし彼女の頬に手を伸ばす。たった今、人を殺してきた手。これまでもたくさん、人を殺してきた手。その手を、そっと伸ばす。
「……すまない」
 リゾットの指は、爪のあいだや指紋の溝に血がついたままだ。リゾットはナマエの涙を、そんなささくれた指ですくった。


0


1


 猫の朝は早い。早い、といっても、猫という生き物は1日のうち短い睡眠を何度も繰り返しているから、朝や夜が規則正しく決まっている人間の時間感覚とはずれている。
 みゃーお。みゃ、みゃ。みゃお。ナマエがあくびしながら食事を用意しているあいだ、3匹の猫たちは代わる代わる鳴いて早くしろと催促してくる。ご希望どおり食事を差し出すと、彼女たちはガツガツと音を立ててそれにがっついた。

 カーテンを開けると、もう太陽は高く上がっていた。ずっと夜に活動する生活をしてきたから、こうして起きた時間が明るいと、一瞬で目が覚めるものだ、とナマエは驚く。窓を開けると、晩春の朝らしいちょうどよく温かい風が、ふわっと入ってきた。この天気の気持ちよさは、いろいろなやる気を引き出してくれる。出かけるまで時間があるから、ナマエは簡単に掃除をしてしまおうと思いついた。とりあえず、キッチンとトイレだ。その2つは、できるだけこまめに掃除したほうがいい。
 掃除を終えたらナマエは、自分の身支度をした。髪や爪を手入れして、いつもの仕事着に、いつものアクセサリーをつける。些細な身だしなみを整えるだけで、人からの見る目が変わる。人の態度が変われば、自分にも自信がつく。ナマエはそのことをかつて教わったから、知っていた。

「ン、あなた肩良くなたね。もう来なくてダイジョブ」
 片言の医者は、ナマエにそう言った。以前は上げると痛みのあった肩が、たしかにもう気にならなくなっている。
「ありがとう先生。お世話になりました」
「ンッンー。私何もしてない。あなたリハビリした。治るのはあなたの力」
「そうなのかな」
「そうよ」
 ナマエが診察室を出ようとすると、医者は彼女の背中にもう一度話しかけた。
「やぱりあなた、また来てもいいよ」
「え?」
 普段は診察後に必要なことしか話さない、世間話などもしないこの医者が、珍しいことだ。
「あのうるさい男がもう来ないだから、私いつも暇」
 この医者は表情を崩さない。そのぶん、言葉に出てくることが本当の気持ちだ。
「そっか、じゃあ、また来ます」
「ン」
 ナマエは医院を出ると、車に乗り込んだ。ちょうど昼を過ぎた頃で、太陽が路地を温めて、それがまた風を温めて、もうすぐ夏が来るのだと感じる。
 途中で花束を買って、また車に乗って。それから車はのんびりと、海沿いの大通りを走っていく。もちろん、窓は全開にしている。入ってすぐに抜ける風は、ナマエの髪をゆらす。横目で見える水面には陽射しが照りつけて、眩しいくらいに光っている。

「こんにちは、ボス。ミスタ、フーゴも」
 その教会に着くと、すでに新しい同僚が着いていた。
「ナマエ。こんにちは」
「おう」
「どうも」
 彼らは別の墓標に花を添えていた。じゃあまたあとで、と言ってナマエは、迷うことなく共同墓地のほうへ進んでいく。花瓶にたっぷり水を汲んで、花々を挿し、立ち並ぶいくつかの墓標の前に置いていく。ナマエはその墓標たちに書かれた文字列を、順にゆっくり指でなぞっていく。
「ねぇ」
 ――ナマエ、お前は、
 そのつぶやきは、風が吹けば、遠くに運ばれていく。
 ――ナマエ、お前は、これからもお前のままでいるんだ。
「わたし、ちゃんと生きてるよ」
 その祈りを、ナマエはいつまでも憶えている。

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