Junction the story with you.

 なまえは久しぶりに杜王駅に降り立つと、この町の風の香りが変わらないと気づいて嬉しくなった。

「あ、……じょ、……仗助! 久しぶりだね」
「おーなまえ」
 なまえが待ち合わせの場所に着くと、なまえを待っていた仗助は、右手を軽く挙げた。
「久しぶりじゃん」
「ほんと久しぶり。久しぶりすぎて仗助のことどう呼んだらいいか、一瞬わかんなかったよ。くんってつけそうになった」
「電話では普通だったじゃん」
「直接会うとね。すっごく久しぶりに会う友達って……ちょっと恥ずかしくない?」
「そうかぁ?」
 久しぶりに顔を合わせることになるからなまえは少し緊張していたのだが、仗助はなんてことなさそうな顔だ。行こっか、となまえが言うと、仗助は流れるように彼女の荷物を持つ。
「あ、ありがと。……でも変わんないね、仗助。ま、身長以外だけど。良かったわ」
「そうかぁ? 自分ではケッコー変わったと思うけどな」
「変わんないよ。髪型はもちろんだけど、人相というかさ」
「人相」
「うん、一見遊んでそうだけど、ちゃんと話してみると優しいしマジメな感じ、みたいな」
「マジか、遊んでるって、そーゆーふうに見えんのかよ」
「見えるだけだって」
 なまえの言葉に仗助は不服そうで、なまえは「ほんとは違うって知ってるから」と付け足す。なまえの弁解が終わると、仗助は隣に並ぶ、自分よりかなり小さな彼女の、斜め上からの横顔を見た。なまえとの身長差は小学校でよく遊んでいたときよりもだいぶ開いて、中学では話すときに少し屈むようになっただけだったが、高校以降はほとんど会わなくなって、なまえが大学を卒業した今や仗助は腰を折らないと目を合わせられないようになった。仗助は、自分よりも身長が大きいのは自分の叔父くらいなものだからそういうのには慣れていて、誰かとこうして並んで歩きながら話すときはいつもより大きく話すようにしている。なまえの声もさっきまでは聞こえにくかったが、なまえも上から降ってくる仗助の声が聞こえにくいことに気づいたようだ。なまえも仗助も、ちょっと大きな声で話すようになってきた。
「なまえも変わんねぇよな」
「そう?」
「おう。まず、おれとフツーに話せんの、おまえと、高校んときの友達くらいだぜ」
「まぁ、外見はともかく、中身はね。自分でも変わってないなって思う」
「そうそうなまえ、外見、変わったよな。さすが東京。シティーガールっつーの? 地元のヤツじゃあねぇなってのがわかる気がする」
「えー、そうかな、さすがでもなんでもないよ……ていうか仗助、やっぱり怖がられるんだ」
「けっこうな。ビビられてんのわかる」
「まぁ小学校も中学校も、仗助けっこう"強かった"もんねぇ」
 強かった、となまえは言ったが、これはかなりぼかした言い方だった。なまえと仗助は小学校3年生のから一緒のクラスになって、なまえはその頃から仗助が誰よりも喧嘩に強かったのを憶えている。特に、髪型のことをいじられたり、ひとり親だということで悪口を言われたり、爬虫類が苦手なのを知って田んぼのカエルをわざと近づけられたりとすると、仗助はなまえでも制御が難しいと思うくらい暴れる。小学校の高学年の頃、仗助となまえが遊んでいるときにラブラブだとかお似合いだとか囃し立てて、男子と女子だからって友達でいるのがどうしてだめなのかとなまえが悔しくて泣き出したときは一番ひどくて、そうやってからかった男子たちはことごとく仗助にやっつけられた。
 でも教師や親たちが不思議がったのは、そうやってたくさん殴り殴られ蹴り蹴られの喧嘩をしていたはずなのに、なぜだか相手には怪我をして血が出たり腫れたりするような子はいなかったということだ。相手の子どもが口々に言うには、仗助に殴られて最初は痛かったはずなのに、ごめんねと謝る頃には痛みがなくなっていたらしい。それどころか仗助のほうが膝を擦りむいていたり頬に土をつけたりしていることもあったから、大人たちも仗助一人を責められるはずもない。だから子どもたちのあいだでは仗助は暴れん坊という認識で一致していたのだが、大人たちはそうでもなかった。むしろ、よく喧嘩をする以外の点で仗助を悪く言えるような要素がなかった。
「あ」
 なまえと仗助が商店街の大通りをしばらく歩いていると、なまえがふと立ち止まった。
「ん?」
「ここ」
 そう言って指差したのは、ドラッグストアだった。店の前の大きな棚にティッシュや、トイレットペーパーや洗剤をたくさん並べて、蛍光色の紙に蛍光色のペンで値段が書いてある。自動ドアの向こうの店内は白色蛍光灯の光に爛々と照らされて、同じくたくさんの商品を収納した棚が整列していた。なまえはこのドラッグストアの名前をS市街や東京でも、何回も見たことがあった。
「ここ、変わったんだ。ドラッグストアになったんだね」
「おーそうだな。んーと、一昨年か、一昨年のもう一年前くらいだったけな」
 仗助もちょっと考えながら答えた。
「そうなんだ。でもけっこう最近なんだね」
 なまえは後ろ髪をひかれるようにしながらも、歩きだす。そうして仗助に再び並んだ。
「"ますだや"のおばちゃんたち、元気にしてるのかな」
「たぶんな。でもおれが最後に会ったとき、おばちゃん膝悪かったみてぇだからなー」
 "ますだや"というのは先のドラッグストアがある場所に元々あった惣菜屋で、杜王の発展とともに生きた店だった。店の奥では大将が黙々と揚げ物や和え物を作ったり魚を焼いたりして、店番はその妻が一人で回していて、値段は安くて味も良しということで、年寄りも若者も子どももよく来る評判の店だった。特に近所の子どもたちは、学校が終わってひとしきり遊んで小腹がすいたらよく"ますだや"に来て、100円硬貨1枚で買えるだけのコロッケを頬張ったり、昨日の残りの揚げ物の切れ端をもらったり、たくさん余っているサクサクの天かすを手のひらに載せてもらったりしていた。なまえも小学生のときは仗助とよく"ますたや"に来て、おこぼれをもらって腹が満たされたらまた別のところに遊びに行くというのを日課にしていた。
「なんかちょっと、寂しいねぇ」
「だなー」
 なまえがぼやいた言葉に、仗助も同意する。この商店街にはなまえたちが生まれる前からやっているらしい小物売や、タバコとコーヒーのにおいが染み付いた薄暗い喫茶店や、誰かがそこで買い物しているのを見たこともない婦人服屋などがいまも残っているけれど、同時に"ますだや"のように店主の高齢を理由に閉めてしまった店もいくつかあり、他にも空き店舗になったりしている建物もある。仕方のないこととわかりつつも、なまえはこういう光景を寂しいと思った。もうあの惣菜を食べられないということだけではなく、自分の子ども時代と切っても切り離せないくらい固く結びついた思い出の店がもうそこにないということが、なまえにとって寂しかった。故郷に帰れば自分が子どもだったことを思い出せると思ったし、あるいはひょっとしたらまだ自分は子どもなのだと思える気がしていたのだが、後者については難しそうだ。

 そうしているあいだに商店街を抜けて住宅街に入り、二人は仗助の家まで到着した。今日から2泊3日で、なまえは仗助の家に泊まって、それからまた東京に帰る予定だ。なまえは高校から杜王を出てS市中心部の高校に行くことになったのだが、その時期に離別した両親の母親のほうについていったので、住んでいたマンションはもう別の家族のものになっている。そのあとなまえは東京の大学に行き、東京で就職したから、杜王町でなまえが頼れるところといえば家族同然の仗助の、彼の家なのだ。
「ただいまー」
「おじゃましまーす」
 仗助は帰宅を告げ、なまえは来訪を告げる。「いらっしゃぁい」そう言いながら奥から出てきたのは仗助の母、朋子だ。
「なまえちゃん。久しぶりねぇ! 疲れたでしょ。仗助、荷物上に運んであげて。なまえちゃんお茶淹れるからこちらにどうぞ」
「お久しぶりです。ありがとうございます。今日と明日、明後日、お世話になります」
 なまえは朋子が笑うのを見て、この人は変わらないなと思った。たしかに記憶のなかにあった彼女よりは歳を重ねているが、若々しさ、仗助に似た明るさ、裏表のないさっぱりとした感じは変わらない。なまえはなんとなく安心した。
「あ、その前に……」
 居間に案内されたなまえだったけれど、座って一息つくまえに、和室のほうに向かった。
「あ、ありがとね」朋子がなまえに声をかける。「お父さん喜ぶわぁ」
 なまえはその写真と位牌の前に座って、手を合わせた。

 東方家でしばらく休んでからなまえがこのあたりを散歩したいと言うと、仗助もついてきた。二人はまた連れ立って、しばらく歩く。
「どこまで行く?」
 仗助はなまえに合わせて歩きながら、そう訊いた。
「んー……」
 季節は夏の終りで、ときどき吹く風が、歩いていると少しだけ汗ばむ肌を乾かしてくれる。道路脇や家々の庭に数本ずつ立っている向日葵は、花びらをすべて落として重くなった頭が太い茎にかろうじて支えられている。空き地に勝手に広がる紫陽花は、花の色をもうなくしてみすぼらしくなる代わりに、ツヤのある葉と枝がこんもりと大きなシルエットを作っている。
「とりあえず、そうだなぁ、神社まで行ってもいい?」
「おう」
 なまえは、こういう隙のある光景というか、自由奔放さを残した景色が懐かしくて、散歩しているだけで静かな楽しさがあると思った。S市も地方都市とはいえかなり大きな街なので、誰が管理しているのかわからない空き地や、街路樹の下で好き放題になった植物というのは、さすがにあまり見かけないし、東京は言わずもがなである。そういう隙のない街というのはたしかに便利ではあるけれど、いまのなまえにとって良いのは、便利さよりも気楽さだった。
 その神社――六壁神社に着いたころ、時間としてはまだ夕方になったくらいなのに、神社を囲む森の背の高い木々が日光を遮って、境内は少し薄暗くなっていた。でも、なまえにとってはこれこそが慣れ親しんだ神社の姿そのものだ。なまえは小学校のころは特に、冬以外は学校が終われば仗助やほかの友だちとずっと外で遊んでいたし、冬も雪が降っているときと、大寒波の日以外は外で走り回っていた。小学校から帰宅してランドセルを置いたら、仗助の家になまえが迎えに行くか、なまえの家に仗助が迎えに行くか、それともこの神社で待ち合わせるかをしていた。そういうときは季節によっては薄暗くなっているときもあるから、なまえは夕方の神社というものに親しみがあった。それでそのまま森で虫取りか、空き地でキャッチボールか、商店街でかくれんぼか、あるいは新しくテレビゲームを買ってもらったという同級生の家に行くとかもしていた。ゲーム機というのをなまえはもっていないし、仗助も朋子がゲームのうるさい音を好きじゃないということであまり買ってもらえないので、2人はちょっと気に入らない態度の同級生にも我慢して媚びて、新しいゲーム機に触らせてもらっていた。
「お参りしてこうか」
「おう」
 手水舎で手と口を清めて、雑草がないように整えられている道を歩いた。周囲を見渡しながら、ゆっくり進んでいく。そうするとなまえの頭には、この町で暮らしていたときの思い出が、あふれるように蘇ってきた。ここで仗助と待ち合わせたときにどこにいつも座っていたかとか、夏の日差しが強い日はどこが涼しいかとか、森で変なキノコを見つけたことや宝箱を埋めたことも、そんなたくさんの些細な、でもあのとき子どもだった自分にとってはとても面白くて、重要だったことを思い出した。
「ここは変わらないんだね」
「神社だからな」
 二人は神社の本殿を過ぎて、奥の森のほうに進んでいく。それから向こうの小道を通れば、別の出口から森を抜けられる。なまえも仗助も、子どものころは目をつぶっていたって神社に入って出ることができた。いまだって、たぶんできるだろう。からだが憶えているはずだ。
「ね、仗助わかるかな」
「ん?」
「どの木だろう……あのさ、手紙書いて、結びつけて、秘密の連絡ごっこしてた木」
「あぁ! あれはァ……」
 仗助はあたりを見回す。なまえが言い出したのか仗助が言い出したのか、小学生のとき、二人のあいだでは1年ほど、「きのうのテレビみた?」「みた。おもしろかったよな」とか「今日おいしーものたべた」「何くったの?」とか、口で伝えればいいようなことをなぜだか手紙に書いて、それをこの森の木の枝にくくりつけて、二人だけの秘密の通信をやっていたのだ。そしてなぜだか、手紙に書いた内容について直接会ったときには絶対に話題にしないという暗黙の決まりがあった。それでこそ"秘密感"が保たれるというものだと、二人は示し合わせたわけではないのに共通に思っていた。こうしたことが二人の、日常の楽しみになっていたときがあった。
 なまえも見回すが、あの木を見つけられない。当時はわかりやすい木のわかりやすい場所を定めたのに、木だって成長したり切られたりするのだから、もうどれだったかわからなくなってしまっていた。
「どっかいっちまったな」
「いっちまったね」
 そうして二人で顔を見合わせて笑った。いま思い出すとばかなことをしていたなと笑えるけれど、あのときは、そういうばかみたいな遊びを開発することに全力だったのだ。

 ――夕焼け小焼けで日が暮れて。

 ふと、遠くからあのメロディーが聴こえてきた。杜王町全体に響く、無線放送だった。放送は歌詞のないただの曲だけれど、その歌は何度も歌ってきたから、メロディーを聴いただけで、歌詞が思い浮かんでくる。子どもたちにとっては家に帰りなさいと急かされるような、少し憎らしい放送でもある。

 ――おててつないでみなかえろう。

 懐かしいメロディーが響く空を見上げながら、なまえはすう、と大きく息を吸った。この夏の終わりの森のにおいを、胸いっぱいに、入れてみる。乾いた土と、落ちる前の木の葉と、歳を刻んだ幹。それらのにおいが混ざって、なまえは、心のなかにある懐かしい記憶が呼ばれている気がした――あのころは、いつだって楽しかったね。幸せだったね。なまえは、心のなかで、昔の自分に語りかける。
「帰ってきて、よかった」
 まぶたの裏に、子どもだった自分が、この町で笑っている姿が浮かぶ。仗助と一緒に、この狭い町の端から端までが世界のすべてで、そのすべてを冒険して、いろいろなことを発見して、自分たちはなんでもできる、何にでもなれるんだと思っていたころ。くだらないことでずっと笑えて、喧嘩したってすぐに仲直りできた、あの日々。
「ここに帰ってきて、よかったよ、わたし」
 なまえは東京から逃げてきたのだ。杜王を離れて、高校、大学、そして就職という針路から一度も逸れることができずに、目の前のことだけを考えて生きるしかないような、そんな狭い世界から。
 仗助は黙ったまま、なまえに一歩近づいた。そして並んだなまえの手をとって、握った。なまえもぎゅう、と握り返す。
「子どもに戻りたいよ」
 そうなまえは独り言みたいに言うけれど、仗助はうん、と返事をした。
「生きていることが楽しかった、あのときに戻りたい」
 仗助はまた、うん、と返事をした。なまえの目尻には涙がにじんで、1粒、2粒と、頬を伝っていく。仗助は、なまえの顔くらい大きな手のひらの、その指で、なまえの頬に触れた。
「東京で、一人で頑張って生きていたらね、苦しくて、生きてるってことがわからなくなったの」
「うん」
「いつの間にか、自分ができることも、自分がなれるものも、もうほとんど残ってなかったの」
「うん」
「だから逃げてきたの」
「うん」

 仗助はなまえの手を引く。そして二人は森を抜けた。なまえは歩きながらしばらく涙を落としていたけれど、家に着くころには顔を上げていて、深い紺色と黒が混ざる空を指差した。そこには金の星が輝いていた。





 杜王駅のなかのいくつか、たとえばトイレやエレベーターは新しいものになっていたりきれいになったりしているけれど、ほとんどの部分はずっと変わらない。

「また近いうちに、来てもいい?」

 駅の正面、改札前の広場も変わらないものの一つだ。地方都市の郊外の駅らしくこじんまりとしていて、そこに人はぽつぽつと現れて電車に乗り、ぞろぞろとホームから出て来た人たちは、それぞれの場所へ帰っていく。
「今度は、仕事もう少し長めに休んで、来たいな、なんて」
 なまえは、ちょっと意を決したみたいにそう言った。東京に向かう電車は、もうすぐ来る。
「おう。当たり前じゃん」
 仗助はそう答えて、なまえの頭をわしゃっとなでた。この3日間で、二人の距離は、子どものころみたいに戻った。
 改札の向こう側で、メロディーが鳴った。東京に向かう電車が、ホームに入ることを知らせるものだ。
「ありがとう、……じゃ――」
「あれッ?」
 またね、となまえが言おうとしたとき、仗助は改札から出てきた小さな人波のほうを指差した。
「あの人、"ますだや"のおばちゃんたち?」
「ん、え? どこ?」
「あそこ!」
 仗助が指すほうを見ると、少し背の丸くなった老女が、同じく背の丸くなった老爺と改札から出てきたところだった。
 なまえは必死に惣菜屋夫婦の顔を思い出してみた。言われてみるとたしかに、夫婦の顔には記憶よりもしわが深く刻まれているが、目もとや眉の感じは変わっていない。二人とも、歩く速さは周囲と比べてちょっとだけゆっくりだが、たしかな足取りで商店街のほうに歩いて行った。
 改札の向こう側で、またメロディーが鳴る。今度は、電車が到着したことを知らせるものだ。なまえは、はっ、とした。行かなきゃ、じゃあね、と言って、改札に向かう。
「なまえ!」 
 仗助が後ろからなまえを呼んだ。
「次はさ、おれが東京行くわ!」
 二人でまた冒険な! そう言って、仗助は大きく手を振る。
「――うん! 冒険ね!」
 なまえは小走りで電車に乗り、それから手を振り返す。東京を冒険するなんて本当にできるのだろうかと、なまえは一瞬思った。けれど二人ならきっとできるだろうし、それはすごく楽しくなるはずだ。

 ホームには出発のメロディーが鳴り響いて、電車が動き出した。

back to list
back to home


- ナノ -