Junction the story with you.

 12月になると、天気が良く晴れていても空気が寒くて外には出たくない、そんな気温が続くようになった。ミョウジ・インによく来る常連客は、寒いから身体を温めようといって冬になってもよく訪れる。といっても彼らは夏でも暑いから冷たいビールを飲みたいといってインに来るので、全体としてはあまり変わらない。ただ、ビールのような軽い酒ならまだしも「悪魔の酒」などと呼ばれるジンを店に出すことはできなくなってきていて、「ごめんなさいねぇ、最近ジンは入荷もできないんですよ」とミョウジ夫妻は毎晩客に断りを入れなければならないときが増えていた。その代わりにインでは安価なビールを提供するのだが、安くて軽い酒だからといっても客は比例してたくさん飲んでくれるわけでもない。朝からビールの提供をすることにしたならまだ消費量も増えるだろうが、禁酒団体が批判しているのは、まさに飲みながら労働するという「怠惰なありかた」なのだ。判断力が弱まった状態で工場や工事の作業に臨めば当然事故も増えるし、実際指を失うとか、深い切り傷を負うとか、重大な事故に遭う労働者も多い。ミョウジ夫妻は、自分のところで出した酒に酔って怪我をした、怪我をさせてしまったということだけは避けなければならないと考えていた。だから良い酒が手に入りにくくなっていても、代わりに安価な大量の安い酒をばらまくということはしなかった。

 ある日の夜は、サルーン・バーにワトソン夫妻が来ていた。ワトソン夫妻はいつも夕食を注文して、食後には少量の酒を追加する。ナマエは夫妻が好きなので、両親の手伝いのときは自分から注文を取りに行って、手が空いているときはそのまま夫妻とおしゃべりすることもある。けれどその日は食事が終わると夫妻は酒を注文することなく、バーの閉店間際になって手の空いたナマエの父と母と、何かを話し込みはじめた。ワトソン夫妻と相談することがあるからと両親から後片付けを頼まれたナマエは、話し声は聞こえないがその様子を遠くから眺めていた。と思ったら、「ナマエ、ちょっといい?」と不意に母から手招きされた。
「なぁに?」
 ナマエが近寄っていくと、両親は安心したように眉は下げながら口元を上げて、ワトソン夫妻も微笑んでいる。何かいいことがあったのかとナマエが思っていると、ナマエの母が口を開いた。
「ナマエ、あなた看護学校に行けることになりそうよ」
「……どういうこと?」
 手を合わせて喜ぶ母を解せない顔で見つめると、父も付け加えた。
「ドクター・ワトソンが紹介状を書いてくださるとおっしゃっている。試験を受けて、優秀な成績なら奨学生として入学できるんだ」
「ナマエの初等学校での成績ならじゅうぶん奨学生になれるそうよ。ねぇ、ドクター・ワトソン?」
「えぇ、そうです。試験は半年に一回なのでね、来年2月に試験と面接です。早めに初等学校の成績証明書も依頼しないといけませんね。でもナマエちゃん、急な話だったからびっくりしただろう」
 置いてきぼりになって戸惑っているナマエに、ドクター・ワトソンは声をかけた。
「以前、ご両親に相談されてね。私も工場勤務は反対だ。うちにも工場で怪我した若い女性がよく来るよ。痕が残ったら大変だというのに、まったく政治はなんにも動いちゃくれないんだ」
「えっと……」
 ドクター・ワトソンはナマエに気を遣って話を振ったつもりだったが、結局ナマエは話についていけないでいる。
「ナマエちゃんなら聞いたことがあるかもしれないが、ナイチンゲール女史を知っているかい? 彼女みたいな職業看護婦は女性が自立するためにもよい仕事だと思うよ。ナマエちゃんが行く学校も最近できたばかりのものなんだ。看護婦は今の時代とても必要とされているからね」
「ナマエちゃんなら気立ても面倒見も良いから、いい看護婦になるわね」
 ミセス・ワトソンも嬉しそうにしている。ナマエは、もう自分がその学校に行くことが決まっているのか、と驚いた。
「でも……でも学校に通っているあいだは自立はできない……ですよね」
 それでナマエはやっと疑問を口にした。突然のことだったので他にももっと確認したいことはあったのだが、看護学校に通うあいだはたぶん家の手伝いをする時間が減るのに、食事などには金がかかるままだ。それは両親も困るのではないかと考える。ドクター・ワトソンは答えた。
「あぁ、それなら大丈夫だ。その学校はオックスフォードにあって、全寮制だからね。住む場所や食べ物も込みで、奨学金が支給されるんだ。成績が良ければ1年で卒業して、その後すぐに病院勤務ができる。病院はロンドンのどこかを選べば――」
 ドクター・ワトソンが話し続けているのを、ナマエは呆然とした心持ちで聞いていた。両親が家計のやりくりに困っているのは察しているし、幼いきょうだいたちにもっと食べさせてあげたいと思っていた。このままインの手伝いをするだけでは、弟を中学校に行かせるのも苦労するかもしれない。でも自分が看護学校に行って優秀な成績で出れば、早くて1年で自立ができる。
 けれど、ナマエは今の生活が好きだった。裕福とはいえなくても、家族とともに過ごすこの家での、この町での生活が好きだった。いつも騒がしくて、汚い、暗い町だけれど、それでも楽しみも喜びもあったのだ――朝の空気は言うほど不快でもないし、きれいな森や優しい人だっているし、月に1回だけどベーコンを食べられる、小さな楽しみや喜びが。

 その晩が更けて寝るときになっても、ナマエの心にはずっともやがかかったままだった。両親やワトソン夫妻にとって、もう自分がオックスフォードに行くことは決まってしまっているのだろう。そういえば以前、両親が「ナマエの就職も考えなきゃねぇ」と話し合っているのを見たことがあったし、「ナマエは看護婦っていう仕事聞いたことある?」とか訊かれたこともあった。でもナマエは自分がこの家から出ていくことになる具体的な時期を想像していなかった。またきょうだいたちは幼いのだから自分が面倒を見なければ両親も困ってしまうだろう、いまのうちはインやバーの手伝いでじゅうぶんだと思っていたからだ。でも両親があのように言うということは、ナマエが就職して少しでも家計を助けるようになるほうが、家に留まって手伝いをすることよりもマシということなのだろう。それがわかるとナマエは、別にそんなことこれっぽっちも言われていないのに、自分が家族にとっていらない存在になってしまったような気がして、少し滲んできた涙をごしごしこすった。
 実際はそんなことないのはわかっている。それでも、突然の決定、自分が考える暇も与えられなかったのだということがショックだった。家計が決して楽ではないのは知っている、けれど、でも、だって。ナマエの気持ちはぐちゃぐちゃになって、もう夜中なのに目は冴えていく。ナマエはうまく言葉にはできなかったけれど、自分はもう「子ども」ではない、親に守られるだけの存在ではなく親を支えていかなければならない頃になったのだということを感じて、奇妙な寂しさを覚えた。できることなら、もう少し待ってほしいと言いたい。もう少し選ばせてくれと言いたい。でも、できない。できるだけ早く、家族に、両親に面倒をかけないようにしなければいけない。

 ナマエはぶるりと震えて、毛布を頭までかぶり直した。その震えは、決して寒さだけのせいではなかった。



 その月のベーコンの日は、朝から薄暗い雲が空を覆っている日だった。雪は降らないだろうが、冷たい雨が降り出しそうではある。ナマエは冬用の腹巻きや靴下を11月の寒くなったころから編み始めて、最近やっと家族の分を完成させつつ、ディオの分も作っていた。ディオの好きな色がわからないから、とりあえず無難な茶や緑の毛糸を使ったが、少々年寄りくさくなってしまったかもしれない。今日ベーコンのお使いの帰りにディオと会えれば渡そうと思って、ナマエは家を出た。

 肉屋のモリスの店まで来たとき、歩いたおかげで身体の内側は温まっていたけれど、頬や指先が冷たくなっていた。店に入ると多少暖かかったので、ナマエはほっとした。
「ナマエちゃん。元気だった?」
「こんにちはモリスさん。元気です、わたしも家族も」
 いつもの挨拶を済ませると、モリスは雑談をはさみながらベーコンの塊を切り分けていく。最近寒いねとか、息子が学校の勉強に困っているからナマエちゃんに見てもらいたいんだとか、娘のエミリーが自分の言うことを聞かないからナマエちゃんから言い聞かせてほしいだとか、そういった世間話が中心だ。けれどナマエはモリスのしゃべることを半分くらいしか聞いていなかった。その代わり考えていたのは、自分がこの町を離れて看護学校に行かなければならないということで、「あの、モリスさん」と、彼の話が一息ついたときにナマエは切り出してみた。
「わたし、来年に看護の学校に行くことになりそうなんです。ドクター・ワトソンが、紹介してくださるらしくて……」
「あら! そうなの。良かったじゃない」
 モリスはベーコンを手巾に包みながらそう答えた。そのときチャリン、と店のベルが鳴って、新たな客が店に入ってきた。いらっしゃい、と言ってモリスはドアのほうを向いた。
「はい、あの、すごく、ありがたいことなんですけど……」
「そうだよねぇ。でもナマエちゃん初等学校でも成績良かったんでしょ? さすがだね、頑張ってねぇ」
「はい、でも……」
 ナマエはこのあとを言うか、一瞬迷った。けれど、己の内に抱えたものを吐き出さないと、それはますます大きくなっていってしまうと感じる。だから続けた。
「学校がオックスフォードにあるんです。だから寮に入らなきゃいけなくて、家族と離れるのが……怖いというか、不安というか……。本当にありがたいことなんですけど、わたし、ちょっと迷ってるんです。自立はしなきゃいけないんだけど、もう少し考えたいというか……」
「そうなの? いいじゃない、ナマエちゃん立派な看護婦さんになるよ」
「はい、あの、ありがとうございます。……でも……」
「はい、今月もどうもね」
「あ、はい」
 モリスからベーコンの塊を渡されると、ナマエも反射的に代金を差し出した。ナマエはもう少しモリスに話を聞いてもらいたかったのだが、彼は次の客の相手をしに離れてしまった。ナマエは何もすっきりしないまま、肉屋をあとにした。



 いつもの森は、すっかり梢から葉を落とし、殺風景な眺めになっていた。ナマエは微妙に湿った、くすんだ色の落ち葉を踏みしめながら歩いていく。待ち合わせの倒木に近づくと、ディオはまだ来ていなかった。今日はモリスのところで長く時間を取らなかったから、ディオはいまごろ向かっているころだろうとナマエは思った。

 倒木に腰を下ろすと、ナマエは沈んだ気持ちをどうにかしようと思って、息を吸ってみた。静かな空気は、たくさんのにおいを含んでいる。雨に濡れ、これから土に還っていく落ち葉のにおい。風に吹かれて、表面が削げ落ちた幹のにおい。それらが森の向こうから運ばれてくるにおいと混ざる――掘って、燃やして、ものを動かすにおい。食べて、燃やして、人びとが生きているにおいと。
 ナマエは、目がつんと痛くなって、勝手に目の前がかすんでいくのを感じた。住み慣れたこの町のことを五感で感じようとすることは、かえってナマエの心をしめつけたようだった。なんとか涙の粒をこぼさないようにしたけれど、落ちなかった涙は代わりに下ってきてしまった。ナマエは雑にごしごしと鼻をこするけれど、自分が泣いていることを認めるとさらに、涙が出てきてしまう。

 そのとき地面を踏みしめる音がして、ナマエはディオが来たのだとわかった。ディオにこんな顔を見られたくなくて、ナマエは精一杯笑顔を作って、彼の来たほうを向いた。
「ディオ、こんにちは」
 でもディオはナマエの取り繕った顔に気づいたのか、一瞬固まると少し間を置いて、ナマエの隣に座った。普段からナマエに対して愛想がいいわけではないけれど、彼女の目尻にしずくがあるのを見てディオは、眉のあいだにしわを作る。何も知らない人が見たらディオのこの表情を不機嫌だと判断するかもしれないが、これはディオにとっての困惑の表情だった。
「……」
「……」
 二人はそのままお互い何も喋らずに――といっても、ナマエとディオが一緒にいるときに話を始めるのはたいがいナマエのほうだったけれど――並んで座る。ナマエは、こうしてディオと会える日も今日が最後か、来月が最後なのだろうと考えた。そしたらまた涙が出てきてしまって、鼻水だって止めようもない。ナマエは「ごめ、ごめん……」とぼそぼそ呟いた。何に対して謝っているのかもわからないのに。
 ディオはナマエのほうに顔を向けずに、目線だけちらりとやった。
「…………どうか、したのかよ」
 そう問うてみたことは、ディオにとってかなり珍しいことだった。ナマエもやっぱり驚いて、目を見開いてディオを見る。彼の口から、言葉少なとはいえ誰かを心配するような言葉が出てくるとは思わなかった。普段のナマエだったら「ねぇ、ディオもう一回言って、いまのもう一回言って!」とディオに抱きつく勢いをもって頼んだかもしれないが、現在のナマエは何をされたってどんな言葉をかけられたって、泣いてしまう。すべてのものが、不安と寂しさをかきたてる。
「あの……あのね……」
 ディオは相槌をはさまない。ナマエの口からは放流された水みたいに、一気に話したいことが溢れ出てきた。
「わたし、この町を離れなきゃいけないかもしれないの……お父さんとお母さんがね、わたしを看護婦の学校に行かせてくれないかって、ドクター・ワトソンに相談したの。来年の2月よ。2月に試験と面接を受けて……オックスフォードにある学校なの。ここから頑張ったって半日以上かかるのよ。しかも、寮生活なの。休暇中にしか、こっちに戻ってこれないのよ……」
 ナマエは、ところどころつっかえながら、話し続けた。
「わたし、嫌なの。行きたくないの。だって、弟も妹もまだ小さいし、勉強は嫌いじゃあないけど、でも、お父さんとお母さんの手伝いしているほうが楽しいもの……。……でもわかってるの、うちだってお金、ないのよ。4人も子どもがいるし、弟たちを中学校に行かせるために、わたしがちょっとでも働かなきゃいけないの、それはわかってるの」
 ナマエは鼻声で、ときどき目をこすりながら、話し続けた。
「……どうすればいいのかな。この町と、家族と離れたくないのに、でも自立しなきゃいけないの……わたし、どうすればいいか、わかんないよ……お父さんもお母さんもすごく喜んでるから、いまさら嫌だなんて、言えないよ……」
 ナマエは両手で顔を覆った。自分でそう言った通り、いまのナマエには自分で何かを決断したり行動したりすることができなかった。やりたくないことと、捨てたくないものに両方から引っ張られて、自分では身動きがとれない、ふらふらの足で迷路にいる、そんな苦しさがあった。苦しいから、ナマエは誰かにすがりたかった。父や母ではない誰か別の人に言ってもらいたかった――学校なんて行かなくてもいい、家族と離れなくてもいい、いまのままでいい、子どものままでいいと、言ってもらいたかった。言ってもらえたら心がどんなに楽になることかと思うのだ。
「ねぇわたし、どうしたらいいのかな……わたしがいまここで我慢すれば、お父さんもお母さんも、下の子たちも、みんな幸せになれるの? でもわたしの……わたしのいまの幸せはどうなるの……」
「…………」
 けれどディオは何も答えない。特定の誰かに対するものでもないようなナマエの問いかけは、そのまま寒空に、かすかな白い吐息とともに消える。追い打ちをかけるように風が吹いて、すでに落ちた葉はいくつか舞い上がり、辛うじて枝にすがっていた木の葉は振り払われた。
「……ねぇディオ、なんとか言ってよ」
 ナマエの心は、不安と寂しさに支配されていた。
「……なんとかって、何を」
 ディオは、やっと口を開いた。
「ディオがどう思うか、言ってよ。わたしがどうするべきか、ディオならどうするか、教えてよ」
「……おまえの好きにやればいいだろ」
「好きにできないから! できないから言ってるのに……」
 ナマエはせめて、ディオに言ってもらいたかった――頑張れ、おまえが頑張らなきゃ家族が大変なんだ、おまえならできる、きっとまた家族で暮らせる、だからいまは頑張れと、言ってもらいたかった。ナマエは、自分ではもう動けなかった。だから、誰かに引っ張ってもらいたかったのだ。
「……学校に行けるだけいいだろ」
 けれどディオはそう言った。ナマエの期待は、少しも拾われることがなかった。ナマエはその答えを聞いて、ついに溺れてしまったように感じた。少しでも息を吸おうとしているときみたいに余裕がなかった。息をすること以外のことに注意を払えなかった。「じゃあわたしが――」だから、ディオが重い口を開いたときの表情、声色が、一体どんなものなのだったのか、敏く感じ取ることができなかった。

「じゃあわたしがいなくなったら、誰があなたの心配をするの?」

 不安と寂しさに追い立てられたナマエの心では、自分以外の誰かの境涯を、そこに重たく横たわる不運や不幸や悲しみを、慮ることができなかったのだ。

「ディオはいつもそう。強がって、突き放すようなことばかり言って。わたしがあなたのこと心配してるのが馬鹿みたい。どれだけわたしがあなたのこと心配したって、あなたには関係ないのね」
 頭の隅では、こんなこと言ってはいけないとわかっていたはずだった。心配だいう気持ちも、ディオと友達でいたいという気持ちも、自分が本当にそう思っているから伝えたのだ。ディオがどう反応しても、反応しなくても、これが自分がやりたいことだから、正しいと信じることだからやってきた。だからこそいままで、ディオと友達でいられたというのに。
 ディオは何も答えない。うつむいているから、表情も見えない。ナマエは立ち上がった。そしてディオを見下ろす。だめ、言ってはいけない。これ以上言ってしまったら、壊れてしまう――そう思うのに、心臓の鼓動が速くなって、冷えているのに熱い頭では、言葉を止めることができなかった。

「ねぇディオ……殴られたんでしょ? 初めて会ったときも、夏のときも、殴られたんでしょ? お父さんに、殴られたんでしょ?」

 ディオがゆっくり顔を上げた。その瞳を見て、ナマエは氷に貫かれたみたいな寒気を感じた。そうして自分が何を言ってしまったのか、ようやく気がついた。「あッ……あ、ごめ、」手が、唇が、震える。「ごめん、いまのはッ……ちがうの、」ナマエは首を振った。

「よく知ってるな。親父がおれを殴ってる、なんて」

 ディオもやおら立ち上がった。その声はいやに落ち着いていて、けれど冷たくて、鋭い。

「ディオ、ごめ、」
「親父のこと聞いたなら、おれのこともわかっただろ」
「ごめんね、ディオ、わたし、」
「この前、言ったな。おれとおまえが、友達だって」

 息ができないくらい苦しいと、ナマエは思った。必死に手繰り寄せようとしても、一度ぷっつりと切れてしまったものは、どんどん離れていく。

「あれはうそだ。おれは、おまえのことがずっと嫌いだった。目障りだった。おまえが友達? そんなわけあるかよ」

 ディオはもうナマエの顔を見ない。ナマエは彼の表情がわからない。ディオは震える手を伸ばしたナマエから徐々に距離をとって、淡々と言葉を置いて、去っていこうとする。

「おれは、うそつきなんだよ。親父と一緒だ。おれは一度だって――ナマエ、おまえに本当のことを言ったことがない」

 もうナマエの声も、手も、届かなかった。断絶。壁。決して元通りにならない溝。ディオはそのまま背を向けて、寂れた森を抜けて、自分の住む場所へ戻っていった――かつて、自ら汚いよなと嘲笑った、あの町に。

 ナマエは膝をついて、声をあげて泣いた。ごめんね、ごめんねという言葉は誰にも届かず、冬を耐え春を待つ森の空に、すぐに消えていった。



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