Junction the story with you.

 ベーコンを迎えに行く日はただでさえ機嫌の良いナマエだけれど、あの少年と出会ってから、ナマエは次の月にその日が来るのがもっと楽しみになった。
 もともと、ナマエは人と話すのが好きだ。たしかにあの少年は、野良の子猫みたいに自分の必要と他人に対する拒絶を使い分けていて、大人や普通の子どもにとっては付き合いたくないと思う類の人間だろう。けれどナマエは野良猫がけっこう好きだし、あの少年のことも、時々思い出してはまた会えるかな、会いたいなと考えている。それは、きれいな顔をしているのに、どうして殴られたような痣をつくっていたのかについての単純な好奇心でももちろんあったけれど、それと同じくらい、あの森で特等席を分け合う人ができた喜びでもあった。
 あのあと、インに帰ってきたナマエに、母は特に何も聞かなかった。ナマエが持ち出した軟膏を引き出しに戻しているのを見て、「友達の怪我は大丈夫だったの」とだけ声をかけた。肯定の返事をしたナマエの頬が緩んでいたので、誰かが怪我したというのに、そのあと何か良いことがあったのだろうかと母は不思議に思った。けれどナマエは何か困ったことがあったら素直にそう言うし、やましいことを考えつくような子でもないし、打ち明けるべきことを隠し立てできるほど器用でもない。その数日後にバーにやって来たワトソン夫妻がナマエと楽しそうに話しているのを見て、母の心配はなくなった。
 ワトソン夫妻は、この東の町の住人にも別け隔てなく面倒を見てくれる、立派な医者とその妻だ。夫妻はナマエのことを気に入ってくれていて、難しくはない小説を貸してくれたり、旅行先で買った絵葉書や余った刺繍の糸をくれることもある。ナマエの両親は、こっそり、近い将来ナマエが夫妻の家で手伝いをすることになってくれればと考えていた。幼いきょうだいたちはまだ手がかかるし、なにかと金が必要だ。ナマエは小学校を比較的優秀な成績で出たことだし、どこか中流階級の、もっと希望を言えばそれ以上の階級の邸宅でメイドとして働くことになれば、これ以上安心なことはない。そうミョウジ夫妻は思うのである。

 次の月、ナマエがまたベーコンを受け取りに行く日になった。そろそろ外は寒さが過ぎ去り、よく晴れた日の午後なんかはうたたねをしてしまうほどだ。春は、いつも湿っぽい東の町としては一年で一番と言っていいくらいには、わりあい爽やかになる。ナマエはその日出かけると、また野菜や日用品を入れた袋を持って、最後に肉屋に寄った。この1ヶ月もモリスは変わらずだったようで、自分の息子が最近反抗しがちだとか、娘とまた遊んでやってくれだとか、そういう話をいくつか持ち出した。そのあとミョウジさんのところは上々か、弟や妹は元気かという質問もしてくる。そういえばあのあと森で少年と出会ったという出来事があったから頭からすっかり抜けていたのだが、先月話していた「禁酒の団体が活動しているのを見た」という話を、ナマエはモリスの顔を見て思い出した。でもどういうふうに、どんな語彙を使って話を切り出せばいいのかわからなかったので、ナマエは話題にできなかった。しかも、そろそろ先月少年と出会ったくらいの時間になってきている。ナマエは店を出たいと思ったけれど、「用事があるから」と相手が喋っているのに話を切り上げるのは失礼に当たるとも知っているので、できないでいた。
 しかし幸いにも、それから長くないうちにモリスが「はい、いつもどうもね」といつもの挨拶をしたので、「こちらこそ。それでは、モリスさん」と、ナマエも店を出る流れになった。ナマエは、家に帰ったら両親に禁酒運動の話を聞いてみることを、頭の隅に書き留めて、店をあとにする。
「あ! 待ってナマエちゃん!」
 しかしモリスはナマエを引き止めた。それから金庫の横にあった小袋を渡した。
「これ、干し肉。売れ残りだけど、まだ全然食べれるから。もし固かったらね――」
 モリスが干し肉の調理方法を解説しだしたので、ナマエはいよいよやきもきしだした。



 少し遅くなっちゃったかなと思いながら、ナマエはあの森に来た。先月小さな芽の萌えていた梢はいくつか葉をつけ、霜の降っていた道は雑草が伸びてよく乾いている。寒さにやられてしおれていた背の低い木にも枝葉が広がっているので、今度は遠くからではあの特等席が見えない。あの少年がいるかどうか、ナマエにはいると言える自信がなかった。そしていざそこに近づいてみると、やはり少年はいなかった。あの日見た、自分と同じくらいの大きさの背中は、倒れた木の上には座っていなかった。ナマエはあたりを眺めて、とすん、と木の上に腰掛けた。もう少し待ってみてもいいけれど、少年と別れるときナマエは、「月に1回、この日、この時間に」と言ってしまったのだ。正確な時間を伝えたわけではないから、少年は少し遅くなったナマエを待たずに帰ってしまったのかもしれない――そもそもここに来る保証もなかったのだけれど。
「ハンカチ……」
 ナマエはぽつりとつぶやいた。でもあのハンカチは返してほしいなと思った。別にレースがついているとか見事な刺繍が施されているとかいうわけではない、ただの綿の布だけれど、ナマエがいつも洗ってきれいにしておいたものだ。ナマエは足元を見つめた。

「返すに決まってるだろ」

 その声は突然、軽い足音とともに聴こえてきた。ナマエは顔を上げた。あの少年だった。
「……来てたの」
「……まぁな」
 ナマエが少年の顔を見ると、彼は、今日は最初から目を合わせてきた。もう先月のようなひどい痣や切り傷はない。目つきは鋭いしむすっとしているけれど、それでもやはり、美しい顔をしていた。
「あの、待った? わたし、ちょっと遅くなっちゃったと思うけど――」
「別に待ってない。……おれだって今着いたところだ」
 少年は、ナマエの言葉を遮るようにして、ぶっきらぼうにそう答えた。ナマエが少年の現れたほうに目を向けると、そこには枝葉が茂っている木が集まって生えている。さっき、足音は数歩分だけしか聞こえなかった。つまり、少年はこの倒木には座らずにいて、向こうの茂みで待っていたということだ。ここからわかるのは、少年はわざと、ナマエが気が付かないような場所で待っていて、あえてナマエが来てから姿を現したということだ。でも、何のために? ナマエはこう疑問に思って、でもすぐに答えを得た――彼は野良の子猫、しかも相当ひねくれている。だから自分がずっと待っていたとは思われたくないのだ。
 ナマエがちょっと口の端を上げるのを見て、少年は何笑ってんだ、とでも言いたげに眉間にしわをよせた。でもナマエは全然怖くもなんともない。ナマエとは反対に彼は口元を曲げながら、片腕を真っ直ぐに突き出した。そこにナマエのハンカチが握られていた。
「あ、……」
 唐突な返却だったから少しの間をおいて、ナマエはハンカチを受け取った。血液は布についたら落とすのが大変なのに、ハンカチには汚れ一つついていなかった。
「……ほんとに洗ってくれたのね。ありがとう」
「当たり前だろ。そう言ったんだから」少年は差し出したその手を上着のポケットに戻す。「……じゃあな」そして用が済んだと言わんばかりに踵を返した。
「ちょっと待ってよ、あの」
「あ?」
 ナマエがそう呼び止めると、少年は顔だけこちらに向けて立ち止まる。
「ちょっと、話したりさ、しようよ」
「……」
「せっかくまた会えたんだから。急いでるの?」
「……別に急いでは……」
 いないけど、という語尾が弱まる。少年は眉間にしわを寄せて、ナマエのほうをうざったそうに見た。なんでナマエが話したがるのかわからない、他人同士なのに、といった考えが、表情にあからさまに浮かんでいた。
「あのね、お腹空いてない?」
 野良猫と仲良くなりたいのならば、まずは食べ物を差し出すべし。ナマエは、モリスからもらった干し肉を取り出すと立ち上がり、少年の手に握らせた。



 ナマエはとっさに干し肉で少年を引き止めたけれど、いざこうして二人で倒木に座ってみると、沈黙のほうが長くナマエたちの時間を使ってしまっている。この1ヶ月ナマエは少年がどこに住んでいるのかとか、どこの初等学校だったのかとかを聞いてみようとあれこれ考えていたのに、実際は、簡単にはできそうにない。少年は握らされた干し肉を拒否することはなかったし、「ここ座ってよ」というナマエの提案にも従ったけれど、だからといって突然饒舌になるわけでもなかった。それでもナマエは、なんとか会話らしい会話をしようと、口を開いた。
「……あのね、この肉、モリスさんにもらったんだ。モリスさんっていうのはね、ホートン・ストリートにある肉屋さんなんだけど、ときどき屑肉とか、余ったものをくれるの」
「……」
「モリスさんは、子どもがえっと、5人もいてね、まぁうちも4人きょうだいだけど、そのうちの一人、エイミーはわたしの友達なのよ」
「……」
 少年は何も答えない。ぶちぶちと、雑に肉を噛みちぎる音が返事代わりだ。
「モリスさんのところでは、いつもベーコンを買うの。月に1回なんだけど、うちの家族みんな楽しみにしてるの。わたしはベーコンを買いに行く係だから、だからこの辺りを通るのよ」
「……ふん」
 少年は、ベーコン、という言葉に少しだけ反応した。ナマエは、おや、と思った。やはりみんなベーコンは好きなのだ。ここから会話を続けてみようと考える。
「ねぇ、あなたもベーコン好き? わたしの家ではね、蒸し芋と一緒に焼いて食べるの。そしたら全然美味しくないハズレの芋でもね――」
「別に好きじゃあない」
 しかし少年は、またナマエの言葉を遮った。しかもその声色がちょっと怒っているように聞こえたから、ナマエはびくっとした。
「好きじゃあないの? でも美味しいのに。嫌いなの?」
「……嫌いじゃあない」
「じゃあどっち?」
「別に。どっちでもない」
「……変なの」
 少年の態度が解せなくて、ナマエの機嫌も少しだけ傾く。何よ、そんなつっけんどんな言いかたしなくてもいいのにと。ナマエも、干し肉の最後のひとかけらを口に放り込んだ。歯で思い切りすりつぶしてやろうと思う。けれど、一呼吸おいて、ナマエはもしかしたらと考えた。
「……ねぇ、もしかしてベーコン、食べたことないの?」
 干し肉を口に運ぼうとしていた少年の動きが止まった。そしてまた動き出すと、返事の代わりに少年は、いっそう乱暴に肉を噛みちぎった。



 ナマエが帰ってきたのがいつもより遅めだったので、母はインの扉が開くとすぐに「ナマエ、食事の仕込み手伝って」と声をかけた。客間では、父が椅子やテーブルや調度品を整えている。ナマエはごめんなさい、すぐやるわと返事すると、買い出ししてきた品の入った麻袋を台所に持ってきた。それでいくつか野菜や日用品を戸棚に仕舞ってから、もじもじとしながら母に視線を向けた。
「……あの……」
 ナマエは言いにくいことを言い出そうとしているようだ。母は、食事の仕込み作業をする手を止めずにどうしたの、と訊いた。
「あの、実は……」
 ナマエは麻袋の最後の内容物を取り出した。それは、いつもナマエが両手で持たなければならないくらい長い、厚切りのベーコンだった。しかし今日は、ナマエの片手でも収まるくらいの長さに――いつもの長さの3分の2くらいになっていた。
「ベーコン、ちょっと食べちゃったの。……お腹が空いて、どうしても、我慢、できなくて」
 ナマエは歯切れ悪くそう白状した。珍しい出来事だったので母はちょっとびっくりして、あら、とだけ反応した。
「だから、あの、今日のお小遣い、返すね。……ごめんなさい」
 ポケットからコインを2枚取り出して、ナマエは申し訳なさそうにうつむいた。目の前の母と目を合わせようとしない。
「いや、いいよ。どうしても腹が空いたんだったら仕方ないさ。でも今度から、腹が空いたらちゃんと言うこと。芋とか豆とかもあるんだから」
 向こうで仕事をしていた父が寄ってきて、そう言った。「そうよナマエ、あなたも育ち盛りなんだから、我慢しちゃあだめよ」母もうんうん頷く。ナマエは顔を上げた。そしてわかったわ、ごめんなさい、ありがとうと言うと、仕込みの作業を始めた。その様子を見て、ミョウジ夫妻は不思議そうに顔を見合わせた。これまで家族6人、たしかに食事が足りないと思うことも1年に数回、冬が厳しい時期にはあるけれど、ナマエがつまみ食いをするくらい腹を空かせてしまうことはめったになかった。子どもたちの一度の食事の量を増やさなければと、夫妻は思った。
 ただし、そう思ったからといって、簡単に食事の量を明日から増やせるわけではなかった。モリスが心配したとおり、1800年代初頭に始まった労働者階級の禁酒を求める運動は政治と結びつき、いまでもイングランドにおいて大きな影響力をもっている。ミョウジ・インでも実際、営業時間の短縮を余儀なくされるだけではなく、先代の頃よりも酒を――特にビール以外の強い酒を仕入れることが難しくなっているし、それ目当てで来ていた客は当然来なくなる。収入はだんだんと減り、一番下の妹が生まれた頃あたりから、ミョウジ夫妻は毎月の家計のやりくりをかなり工夫しなければならなくなっていた。
 そのことをナマエに言わなかったのは、ただ余計な心配をさせたくなかったからだ。ナマエが家計のことを知ったら、すぐにでも奉公に出る、あるいは工場で働くと言って聞かなくなるだろうと、ミョウジ夫妻は確信していた。ナマエは素直なぶん、一度決めたことはたいてい変えたりしない。小さなきょうだいたちが3人もいるのだから、自分は早くこの家を出て働くべきだと思ったらもうそのあとは曲がらないのだ。収入が減っていて月1回のベーコンを買っても余るほどの金があるというわけではないけれど、しかしナマエの働き口はしっかり選びたいと、夫妻は考えていた。ろくに休憩も取らせてもらえない、汚い、辛い労働を強いられる工場で働かせるということだけはしたくなかった。それなら初等学校を出ただけのナマエに残る選択肢は、自ずと良い家庭でメイドとして雇ってもらうということになる。だからその夜ミョウジ夫妻は、今度ワトソン夫妻がサルーン・バーに来たらナマエの働き口を探しているということをそれとなく相談してみようと話し合ったのだった。信頼できる者に紹介してもらえれば、これほど安心なことはない。



「ね、ベーコン美味しかった?」

 次の月にナマエが森に向かうと、少年はすでに二人の特等席に座って待っていた。その日もお使いを済ませてモリスの肉屋でベーコンを仕入れ、最後に森まできたナマエは、少年の隣に腰を下ろす。そして「最近どう?」などの挨拶もなしにいきなりそう訊いた――というよりも、少年に「最近どう?」と挨拶をしてもろくに答えてくれないだろうとナマエはなんとなくわかっていたので、本題から入った。しかし少年は「まぁな」と一言返事をしたきり味の感想もどうやって食べたかも話さなかった。
 でもナマエはそれでいいと思った。この少年と出会ってから3ヶ月、今回を含めてたった3回しか会っていないけれど、彼が自分に対してどういう態度をとるのが標準なのかを、ナマエはわかってきていた。野良猫だって、どれだけ顔見知りになっても撫でさせてくれない猫もいるくらいだ。少年の場合、舌打ちや無視をするときは機嫌が悪いときなのだが、返事が返ってくるならまずまずなのである。

 季節は春の盛りになっていた。今から夏にかけてが、ロンドンで一番ましな季節だ。雨はしょっちゅう降るけれど、太陽の温かさのおかげですぐに土は水を吸収して乾く。ナマエも少年も、コートはもう厚手のものではなくなっていた。襟巻きもないし、ナマエはもう毛糸を腕にも足にも巻いていない。ナマエは軽く伸びをした。風が強いが、天気がいい日は春の香りが運ばれてくる。「気持ちいいねぇ」と、ナマエは別に返事も期待せず話しかけた。少年からはやっぱり返事が返ってこなかったけれど、彼も太陽の昇っている、半分くらい雲に覆われている空を見上げたので、ナマエは気を悪くしなかった。
「もう少し暖かくなったらね、この森もいくつか花が咲く場所があるのよ。ほら、このへんってちょっと汚いでしょ。林も少ないし。でもこの森はまだましなの、小さいけれどね。だからわたし、ここが好きなのよ」
 ナマエはひとりごとのように言葉を並べる。少年は返事をしないけれど、構わずのんびり話し続けた。
「ねぇ、あなたの住んでる場所ってどのへんなの? わたしはね、グレイズ・パークのほう。東町のはずれのほうよ――あれ、前も言ったっけ? とにかくね、ここまでは歩いて……えぇと、半刻くらいかな――」
「オウガー・ストリート」
 ナマエの喋りが一息つく前に、少年はそう言った。ナマエは少年の返事に期待していなかったのでちょっとびっくりして、その声が聞こえてきてから彼のほうを見た。しかも返事が、労働者階級のなかでもあまり近づかないほうがいいと言われているあの通りときたものだから、ナマエは「え?」と調子外れな声で聞き返してしまった。
「東町の中心だよ。オウガー・ストリートって呼ばれてんの知ってるだろ」
 ナマエが見ていた少年の横顔は、こちらに振り向いた。少年の琥珀色の瞳が、雲に覆われて弱まってしまった日差しのなかで濁る。少年は射抜くようにナマエを見つめた。
「汚いよな、ほんと」
 その言葉を何に、誰に向けて言っているのだろうと、ナマエは思った。どんな感情を抱えているのかもわからない少年の瞳に圧倒されて、「そう、なのかな」と、ゆらゆら足元がふらついているときのような返事をする。少年はまた顔をそむけた。けれどナマエは少年のすがたかたちから、目をそらせないでいた。少年が放った「汚い」という言葉に縁取られるように、彼の着ているものや履いているものの染みやほつれ、彼の手や爪や頬についてとれない煤の汚れ、彼という人が纏う暗く湿った雰囲気が、ナマエの視界に次々と、飛び込んできたのだ。「そんなこと、」――ナマエは思わず、そう口にした――ないよ、と続けたかったけれど、「そんなことないよ」という言葉は、ナマエにとって嘘だった。本心ではなかった。ナマエは、嘲りの心をもって呼ばれるオウガー・ストリートという通りがあることも、そこには近づかないほうがいいと人びとが言っていることも、実際自分もあそこは暗くて汚い地域だと思っていることも、よく知っていた。そんな場所に住んでいるという目の前の少年にかけるべき言葉が、ナマエにはわからなかった。そのうちに、少年はふいと立ち上がった。「じゃあな」とだけ言い残し、去っていこうとする。待って、と言いたかったけれど、ナマエはその言葉さえも口にできなかった。その代わり、いろいろなことを考えすぎて何も考えられなくなった心のまま立ち上がって、少年の腕をとっさに掴んだ。

――ぽたり。

 「あ」その手に雨粒が落ちてきたのを感じて、ナマエは空を見上げ、少年もつられて顔を上げた。空はもうすっかり、薄暗い雨雲に覆われていた。



 せっかく晴れていたのにまた雨が降ってきてしまったので、ミョウジ・インでは洗濯したばかりの手ぬぐいや衣服をナマエの母と子どもたちが大急ぎで取り込んでいたところだった。雨降ってきちゃった! と小さく悲鳴を上げながら半分くらい濡れてしまった洗濯物をかごに入れていると、向こうから全速力で走ってくる人影が2人見える。それはナマエと、一人の少年だった。ナマエは片腕に買い物の麻袋を抱えて、もう片方の手で少年の腕を掴んでいる。「ナマエ!」「ただいま!」というやりとりのあと、ナマエは少年を引っ張るようにして掴んだまま家に入る。そこでようやく彼を解放した。
「おかえり、ナマエ。買い物できた? あらま、けっこう濡れちゃってるわね。ちゃんと乾かすのよ。ほら、あなたもよ」
 ナマエの母は、ちょっとだけ濡れていた手ぬぐいを、びしょびしょに濡れてしまったナマエの頭にかぶせる。そして、隣で渋い顔をして突っ立っている少年にも同じようにした。でも少年が呆然として手を動かさないでいるので、代わりにナマエの母は少年の頭をごしごし拭きはじめる。
「ありがと、母さん。買い物はできたよ、野菜がちょっと……いやけっこう濡れちゃってるけど。それであの――」
「おねーちゃん! この人だあれー?」
 ナマエの上の弟が、少年を指差して訊いた。「えっとね」ナマエはもう一枚、だいたい乾いている手ぬぐいを取って自分の髪を押さえるようにして拭きながら言った。「説明が難し……いや、あの、うん、わたしの友達。最近できた友達なの」
「へぇ、そうなの。お名前は? ほら、あなた上着も脱いで。かなり濡れてるわよ」
 ナマエの母は、少年の着ている上着を脱がせようとした。少年はそれに抵抗を見せる。
「いや、ちょ、自分で……」
 できる、という言葉が消えそうな声で聞こえてきた。ナマエはふっ、と鼻から息を漏らして笑ってしまった。濡れた野良猫が甘んじて施しを受けるときの可愛さといったら、と思ってにこにこしながら様子を眺めていると、少年から睨まれる。何を見てるんだ、早く自分を紹介しろと訴えかけているみたいだ。
「彼は、えっと、ディオ。ディオっていうの」
 ナマエはこのとき初めて少年の名を呼んだことに、そう言いながら気がついた。



 春になったとはいえ、雨が降れば寒くなるし身体を冷やしてしまう。ナマエはディオの腕を掴んで、ひどく降り出した雨のなか、あの森から駆けて戻ってきた。動いているあいだは気にならなかったけれど、落ち着いてみると寒さがやってきて、2人はぶるりと身を震わせた。それを見たナマエの母は屑野菜で温かいスープを作った。季節外れだけれど、小さな薪を焚いて服を乾かす。ディオは居心地が悪そうにしているが、弟や妹が近くで遊んでいるのをうるさがったりしないし、ナマエの両親に話しかけられれば普通に受け答えしている。ナマエは、自分と話すときとはえらい違いだなと思いながらも、ディオがこういうふうに振る舞うこともできるのかと感心もした。
 両親にいつどこで友達になったのかを訊かれたので、ナマエは冬の終わりに偶然会ったということを話す。けれど、初めて会ったときディオが「少し」怪我をしていてその手当をしたのだと、実際の怪我よりも大したことないように伝えた。どうして事実をありのまま喋らないのか、ナマエは自分でもよくわからない。けれどディオが特に否定することもなかったのでナマエは、それ以来、ディオとは月に1回森で会うようになったのだと言った。
「だからベーコンの日、いつもよりちょっとそわそわしてるのね、ナマエ」
 母がそう言うと、ナマエは照れくさい顔をスープのカップで隠した。野良猫を見守っているような気持ちだったけれど、人にもわかるくらいにはその楽しさが顔に出ていたのかと気づく。
「どこに住んでるの、ディオくんは」
 父が仕事の片手間にそう訊いてきた。ナマエははっとする。さっき森で同じことを自分が訊いたときに、ディオを嫌な気持ちにさせたのではないかということを思い出した。
「ディオはね、さっき言ったあの森の近くに住んでるのよ」
 だからとっさに、本人の代わりにそう返事した。ディオは否定せず、こくりと頷く。
「上着、そろそろ乾いたかしら。ねぇ、あなたたちも髪の毛ちゃんと乾いた? あと服も」ナマエの母は暖炉のそばに干してあるナマエとディオの上着を触って確かめた。「あらナマエ、ディオくん、あなたたち靴下濡れたままだわね。替えの持ってきてあげるからそれ脱いでしまいなさい」それから2人の姿を見てそう言った。
 ナマエは「はーい」と返事して、微妙に湿って気持ちの悪い靴を脱いだ。しかしディオのほうを見ると、眉のあいだに少しシワを寄せて、どう返事をするか迷っているような顔をしている。ぜひ断りたいが、どう断るべきか決めかねている様子だ。ディオが靴を脱ごうとしないので、ナマエの母は「足がふやけちゃうわよ」と言いながら屈んで、ディオの靴に手を伸ばす。小さい子どもの面倒を見ていると、5歳も過ぎればできるだろう「靴を脱ぐ」という行為も手伝いたくなるものである。しかしディオは立ち上がって「いい、自分でやります」と早口に言った。ディオはそのまま、暖炉があるほうへ向かう。ナマエはその姿を目で追った。「今日のうちにできるだけもう一回洗濯しちゃおうかしら」「じゃあもう少し薪取って来ようか」などと両親が話しているのをぼんやり聞きながら、ディオが暖炉のそばで靴を、そして靴下を脱ぐのをなんとなく見ていた。
 
「え……?」

 ナマエの口からは、近くにいる人でも聞きとれるかどうかといった大きさで、この声が出た。そのときナマエが見たのは、ディオの膝下にいくつか広がる、青黒い痣だった。



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