Junction the story with you.

 この日以降、ディオはたびたびナマエの家に来るようになった――といっても月に1回か2回、ナマエがベーコンを取りに行った帰りに森で会って、そのまま家に来るように誘ってみて、ディオが行くと答えた日だけだ。ベーコンの日、ナマエの母はまだディオが来るかどうかわからないのに、朝の芋の残りや魚の皮を揚げたり、サルーン・バーによく来る客が持ってきた果物を用意したりする。ディオはそれらを遠慮がちに食べると、ナマエの家には数少ない本を読んだり、ナマエの父の仕事を見学したり、母から料理を教わったりしていた。
 最初こそディオのそっけない感じにおっかなびっくりしていたナマエの弟と妹たちも、だんだん馴染んで話しかけたり遊びに誘うようになった。特に妹などは、ディオの見た目が初等学校で習った物語に出てくる王子様みたいにきれいだと言って、「ディオって好きな花あるかしら」とか「ディオの好きな色って何かな」などと、夜寝る前にナマエにこっそり訊いてくることもあった。
 ディオは基本的に静かだし、自分より小さい子の扱いに慣れていないようではあるけれど、邪険に扱うこともなかった。しかしナマエと2人きりのときに限っては、ディオは以前と変わらずナマエの言うことを無視したり半分聞いてないようなふりをしたりする。でもナマエも、そういうディオの様子を見て楽しんでいる部分もあったので、お互い様だった。
 ナマエはディオにたくさんのことを、たとえ彼がろくに返事をしなくたって話した。ナマエはおしゃべりが好きなのだ。しかし反対にナマエがディオのことを尋ねると、ちゃんとした答えが返ってくるときとそうでないときがあった。好きな本のこととか、ドクター・ワトソンやミセス・ワトソンが教えてくれた旅行のことなどを話すと、ディオはナマエに質問するし、会話をしようとする。だけれど、ディオの個人的な話、特にディオの家族のことについてナマエが尋ねても、彼の返事はとたんにそっけなくなる。ナマエがディオの個人的な話題について知っていることといえば、彼がナマエの3歳年下の12歳で、ナマエと同じ初等学校に通っていたこと、住まいは2階建ての上の階であること、母親が小さいときに亡くなってから父親と二人暮らしをしているということくらいだった。お父さんはどんな人なの、お母さんのこと聞いて良かったらどんな人だったか教えて、とナマエがダメもとで訊いてみると、やっぱりディオは「別に、特に、どうでもない」と言って、その話題を終わらせようとする。そんなときディオにしつこく質問を繰り返したら彼の機嫌が悪くなって、まつげの長い切れ長の瞳で冷たく睨まれてしまうので、ナマエはそれ以上訊くことはしなかった。

 ナマエが初めてディオに会ったときのひどい怪我と、雨の日に見た膝下に広がる青黒い痣のことを、ディオと知り合って半年が経った夏になっても、ナマエは忘れられなかった。顔の傷は誰かに殴られたのだろうと思うけれど、膝下にいくつも痣を作っていたのはどうしてだろうと、ナマエは夜ベッドに横になって眠りに落ちるまでのあいだ、何度か考えた。きれいな顔にひどい怪我を作っていたディオに対して芽生えた小さな好奇心は、彼のことをよく知るようになってからは、彼が誰かに心無い扱いを受けているのではないかという心配に変わった。けれどディオは、きっとその誰かについてのことやどうして殴られたのかということを、決して打ち明けてはくれないだろうとも、ナマエは思っていた。しかし彼が打ち明けることと打ち明けないこと、その境目で淀んでいるものについて、ナマエは想像ができずにいた。



 8月のその日は、夏でもそこまで気温が上がらないロンドンには珍しく暑苦しい日だった。
 ミョウジ・インには氷冷蔵庫がないので、ナマエの両親は夜に出すビールや食後のデザートを冷暗所に置いて、暑いなか仕事を終えた労働者が夕方になってパブに押し寄せるのに備えた。今日はベーコンの日なので、ナマエは昼過ぎから買い物に出ている。こんな暑い日だから、ディオは外に出たがらず森で会えないかもしれない。でも森の日向から木かげに流れていく空気は、家のなかの滞ったそれよりは幾分ましなものだ。ディオがもしやって来たら、とっておきのブルーベリーのジュースを飲ませてあげようと、ナマエの母は思った。これも、田舎で小さな畑を持っている親戚がいるという客が分けてくれたものだ。量は多くないから店には出さない代わりにナマエたち家族のおやつになったのだが、みじん切りにしてボウルに入れて、すりつぶしてミルクを加えるとさっぱり美味しいジュースになるのである。

 突然、ドン! と勝手口の扉が空いた。台所にいたナマエの母は、ナマエが入ってきたんだなとあたりをつける。「かあさ……父さん! 父さんいる?!」しかしばたばたとナマエが家に入ってきたかと思えば、父親を探している。それは珍しいというわけでもないが、父を探すナマエの表情を見て、母はいつもと様子がちがうとわかった。
 ナマエは泣きそうな顔をして、走ってきたのではない原因で息が上がっている。「どうしたの」母がそう声をかけるとナマエは「あッ、あの母さんあのねッ……」と、もう涙を落としそうな目をして母に駆け寄った。
「どうしたナマエ、そんな顔をして……何があった?」
 客室のほうにいた父親がやって来た。ナマエの顔を見て、父親も眉の間を険しくする。
「父さん、ディオの……ブランドーさんってここに来たことある? ディオのお父さんなの」
「ナマエ、何があった? ディオがどうしたんだ? 何かあったのか?」
 父はナマエの肩に手を置いて、落ち着きなさい、どうしたんだ、と低い声で静かに言う。
「ディオが、ディオが……誰かに傷つけられてるの、助けなきゃ……」
 ナマエはとうとう泣いてしまった。



 少し落ち着いてきたナマエがやっと話したのは、今日お使いの帰りにディオと会ったときのことだった。

「いつもの帰り道わたし歩いてたの、今日は暑いから麻袋持ってる腕がすごく汗ばんでね、ベーコンが悪くなるかもしれないから、早く森に行ってディオに会って、家に来なよって誘おうと思ったの。いつも待ち合わせしてる倒れた木のところにね、ディオが立ってて、わたしを見つけてディオが歩いてきてね、顔を合わせたらすぐに、"今日は行けない"って言ったの。どうして、って訊こうとしたら、ディオの顔に、ほっぺたと目のところに、痣があって……それにディオ、今日暑いのに長袖のシャツを着てたのよ! わたし、前見たの、ディオの膝にたくさん痣があって、痛そうで……だからわたし言ったの、腕見せてって。そしたらディオ、黙っちゃって、袖を押さえるから……訊いたの、誰かと喧嘩してるの、誰に殴られたのって。そうしたらディオは、お、……"おまえには関係ない"って言って、もう帰るって言って、帰っちゃったの……どうしよう、ディオ、いつかきっと骨が折れたり、治らない傷ができたり、……もしそれがひどくなったら、し、死んじゃうかもって思って、ねぇ、父さんどうしよう、ディオを止めなきゃ……もう絶対喧嘩しちゃだめよって言わなきゃ、でも彼はきっと聞かないわ、わたしの言うことなんて聞かないわ……だから、ディオのお父さんに言うしかないって思ったの。だから父さん、ブランドーさん知らない? ディオのこと話さなきゃ。ディオのお父さんなら、ディオにもう喧嘩したらだめって言えるでしょ? ねぇ、だからわたし、ブランドーさんに会わなきゃ……」
 ナマエは涙と一緒に出てくる鼻水をハンカチで拭った。ナマエの母は黙って背中をさすっていて、父はところどころ、うん、うんと返事をしながら聞いていた。
「うちには、ブランドーという名字の客は……来ていないな。それにナマエ、ブランドーさんと言っても、どこのブランドーさんなのか分からなければ、どうすることもできないんだよ。おまえの気持ちはよくわかったから、まずはディオともう一度会えるようにしてみよう」
「どこの、……」
 ナマエは一つ息を吸って、それから父の言うことに答えた。

「オウガー・ストリートよ。ディオが住んでるのはオウガー・ストリートなの……」

 ナマエはあの日のディオを思い出した。自分の住む町を汚いと言った、あの日のディオのことを。道路、空気、家屋だけではない、それだけではなく、ディオはきっとあのとき、この町のたくさんのものを指して、あんなふうに言ったのだろう。そうナマエは思った。ディオみたいな子どもがあんなひどい痣ができるくらい誰かに殴られてしまう、そして誰もそれを助けない、この町と、この町の人間のことを。
「オウガーストリートの、ブランドー……」
 ナマエが両手で顔を覆ったのを見ながら、父は顔を険しくしながら、目を見開いた。
「ナマエ」そうしてナマエの手を外してやって、代わりに自分の手で彼女の頬を包む。「ナマエ、おまえには辛いことだと思うが……ディオの父親に会うなんてことは、考えてはいけない。ディオのことはかわいそうだが……でも、おまえにはどうすることもできないんだ」
「え……?」
「"ブランドー"。"オウガーストリートのブランドー"。……奴は一度、ここに来たことがある。おまえがまだ小さいときだ。でもそれは客としてではない」
 父はナマエを見つめる。どうしたって言い聞かせなければならないことがあると、強く、優しく、ナマエの目を真っ直ぐに見つめた。
「……奴は、うちの店の酒を盗んだんだ。他にも何件かの窃盗で捕まって、しばらく出てこられなかったと聞いた。それが……オウガーストリートに……」
「そんな……そんなこと、関係ないわ。ディオを助けなきゃ、だからブランドーさんに会うの、それは絶対正しいことでしょ、ね、父さん、そうでしょ……」
「ナマエ、正しくても、やるべきではないことが、世の中にはあるんだ」
「……」
 ナマエは、父が何を言っているのかがよくわからなかった。
「ナマエ、世界には、どうしようもない悪さをもった人間がいるんだ。……ディオの痣は多分、父親から、殴られたものだと思う」
「……そんな、どうして……」
「近所に住んでいなくても、伝わるんだよ。特にこういう、荒くれ者が多い町では。もう盗みや暴行や詐欺で何回捕まっているか……暴力もうそも、奴は気にしちゃあいない。……だからナマエ、奴に近づいてはいけない。ディオの痣のことは忘れるんだ」
「でも、でも……」
「近づいてはいけないんだ。ディオにこれ以上深く関わってはいけない。おまえの安全のためだ」
「じゃあ……じゃあ、ディオの安全はどうでもいいって言うの……」
 ナマエの目からは涙の粒が溢れて、父の手を伝って落ちていった。
「どうでもよくなんかない! どうでもいいわけがないだろう。……でもナマエ、おまえの安全のほうが大切なんだ」
「どうして……わかんないよ……全然わかんないよ……」
 ごめんな、ナマエ、父はそう言ってナマエを抱きしめた。ナマエはもうわけがわからなくて、ただ泣いた。この町の汚さ、人間の冷たさ、大人のいう「悪」と「正しさ」。それらを仕方がないものなのだと諦めながら、付き合うべき人間と深入りしてはならない人間とを区別して「上手く」振る舞うという生きかたを、ナマエは知らなかった。この町は汚くても、人びとの心までもが最悪というわけではないと思っていたし、そう思いたかった。話せばわかる、だって同じ人なのだからと思いたかった。けれど両親につらそうな顔をさせたくはない、心配させたいわけでもない。だからナマエは、わかんないよと繰り返しながら、ただ泣くしかなかった。



 それ以来、ナマエの父も母も「ディオに会うな」とは言わなかったけれど、以前のように今日はディオを連れてくるの、とも聞かなくなった。ナマエはその翌月のベーコンの日を、ディオに会いたいのに会いたくない、話したいのに何を話せばいいのかわからない、胸がむかむかして落ち着かない気持ちで迎えた。
 出かける前、ナマエは自分の寝床のマットをめくった。そこには2ペンスを1年以上貯め続けた、錆びた古い茶缶がある。ナマエはそれをしばらく見つめて意を決した顔になると、懐の内に仕舞って家を出た。

 お使いを済ませて森に寄ると、ディオはいつもの場所にはいなかった。先月、ディオは痣のことを「お前には関係ない」といってナマエを拒絶して帰ってしまったから、ナマエはもうディオと会えないかもしれないと思っていた。でもナマエは森に来た。ディオに深く関わるなという父の忠告の意図、その背景にはナマエ自身の安全を守るためだという思慮があるのだということは、よく理解していた。けれどそれでも、ナマエはまだ諦めきれなかった。自分がディオを見捨てるようなことはできなかった。そうしてしまったら、今度こそディオは孤独になってしまうだろうから。

 あのときディオは泣いていたのだ。初めてナマエがディオを見つけたとき、きれいな顔にひどい傷を作って、ディオは泣いていたのだ。きっと彼は助けを求めている。頑なになって言えないだけで、ディオはこの町の汚さを、人間の冷たさを、暴力を嫌っている。抜け出したいと思っている。そう思うからナマエは、ディオの父親に知られないように、ディオ自身にも拒絶されないように、彼のいる場所を変えるためにはどうしたらいいかを考えた。そしてひとまずは、ディオがまたひどい痣を作ってもすぐに手当てできるようにしなければならないと考えた。だから、上着の内側に、いままでずっと貯めてきた金を忍ばせて、お使いの最中に薬売りから軟膏を買った。

 ナマエは、しばらく倒木に座ってディオを待っていた。けれど、陽がすっかり家屋の高い壁の向こうに隠れ、烏が寝床へと戻ってくるまで、ディオは現れなかった。



 10月になるとロンドンは一気に冷えて、葉には色がつきはじめる。雨が降ったらかなり冷え込み、また朝晩は毛糸で手足を覆わなければなたなくなってきた。
 先月、ディオが現れなかったベーコンの日以来、ナマエは暇を見つけてはあの森に行くようになった。不意に、ディオがまた現れるのではないかと思ったからだ。けれど、ただ森の様子を観に行くだけでは意味がないとわかったので、ある日、一度長い雨が降ったから明日から2、3日くらいは晴れが続くだろうという日に、ナマエは手紙を書いて待ち合わせの倒木の上に置き、風で飛ばないように石を重しにした。内容はこうである。

ディオ、
この前はごめんなさい。また会いたいな。
ナマエ


 けれど予想が外れて、手紙を置いた日の次の日にまた小雨が降ってしまったので、その次の日もナマエは再び同じ内容の手紙を書いて倒木に預けた。こういうことを3回ほど繰り返したとき、またベーコンを受け取る日になった。
 今日こそディオと会いたい、今日会えなかったらオウガーストリートに行ってでも会ってやると、ナマエは決意を固めた。昼ならまだ危険はほとんどないはずだから、明日午前の早い時間に行ってブランドー宅を探して、ディオを見つけて、薬を渡して、気持ちを伝えて、できるだけ早く帰ろうと思っていた。

 しかし今日は、いつもの場所にディオがいた。ナマエが落ち葉を踏みしめて歩いてきた音を聞いて、こちらに振り返る。その手にはナマエが残した手紙が握られていた。
 ナマエはゆっくり歩いていく。遠くから顔を合わせて、二人ともそのまま目をそむけなかった。
「……ディオ」
 ナマエが挨拶代わりに彼の名を呼ぶ。
「……」
 ディオは何も答えないけれど、握り込んだ手紙に目をやって、そのあと再びナマエを見た。それでナマエは、ディオがこの前のことを、彼の難しいところに無理に入り込もうとした自分のことを、許してくれたのだとわかった。
「元気だった?」
 ナマエとディオは、自然と並んで倒木に座る。赤や黄や橙に色づいた木々を眺めながら、ナマエがそう訊いた。まぁな、とディオは答える。ナマエは、ディオが普通に会話してくれることに安堵した。
「あのね、ディオ」
 手を出して、とナマエが言った。ディオはナマエを一瞥したあと、手紙を握っていないナマエ側のほうの手を差し出す。
「これ、また怪我したときに使って。わたしが小さいころから使ってるのと、同じのよ」
 ナマエはディオの手に、軟膏を握らせた。ディオはナマエの手が自分のそれに触れたとき一瞬身体をこわばらせたけれど、ナマエの手のちからがけっこう強くて、ただ従った。
「……ねぇディオ。あなたはまだ子どもだし、わたしもまだ大人とはいえないから、多分いろいろと大変なこと、あると思うけど」
 ディオは握られた手を見つめている。ナマエはディオの手を握ったまま、彼の目を見据えて言った。
「でもわたし、ずっとあなたの味方よ。あなたに辛いことや苦しいことがあったら、わたし、あなたのちからになりたい」
 ディオは顔を上げた。ナマエには黙ったままのディオの心をすべて読み取ることはできなかったけれど、少なくともディオはナマエが言っていることや手を握っていることを拒もうとはしなかった。二人はそのまま、数秒見つめ合い、それからナマエはハッ、と息を呑んだ。
「あッ、別に助けるとかじゃあなくって、ディオのことを心配してるとかそういうのじゃあなくあって、あ、いや心配してないわけじゃあないんだけど、しすぎてるわけでもないっていうか、その……」
 ナマエがしどろもどろになっている様子をディオは、彼にしては珍しい呆気にとられたという表情で見た。そしてふふ、と鼻で息を漏らして笑った。それは全然嫌味ではなく、彼なりに笑いを押さえているときの仕草だった。ナマエはそれを知っているので嬉しくなって、続けた。
「ディオは友達だから! 友達が困ってたら、ちからになるのはあたりまえだから!」
「……友達」
「友達! あッ、友達でもいいかな、嫌だったらえっと、知り合い……とかでもいいかもしれないんだけど……とにかく――」
「友達、でいい」
 ナマエの言葉を遮ってから、ぷい、とディオはまた顔をそむけたけれど、その手はナマエに握られたままだ。ナマエはもっと嬉しくなった。ディオの腕をぶんぶんと振った勢いで、下のきょうだいたちにするように、そのままディオを抱きしめそうになった。でも「おいやめろ」と言ってディオが腕からすり抜けてしまった。けれど、野良猫だって仲良くなれても抱っこすることはあまり期待しないほうがいいくらいだ。だからこうして手を離さないでいてくれることが、ディオの気持ちの証だった。



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