Junction the story with you.

エピメニデスはクレタの人で、次のような金言を残した――クレタ人はみなうそつきである、と。
Hofstadter, Douglas R. "Gödel,Escher, Bach: An Eternal Golden Braid", 1979.




 合理的なものはこれであってそこに情緒はいらないといわんばかりに、無機質な石造りの家屋ばかりが建ち並んでいる。日光をとりいれたほうがいいという配慮は狭い地域にたくさんの人が住むという必要に優ることはなく、みっちり建物が並んでいるせいでこの通りは夕方以降はもちろん朝も昼も薄暗い場所が多い。そのうえ木々もないから小鳥の声一つ聞こえてこないのだが、ただしごみを漁りに来た数多の烏の鳴き声は夜中を除いて、ずっと石畳の上に反響している。上も下も整備されていない水道のせいで、道路の大部分は雨が降ったあとはもちろん、ロンドンにしてはしばらく降っていない日でもどこかは必ず濡れていて、汚かった。ごみも汚物もそこらじゅうに落ちているから決して無臭とは言えないのだが、そのような様子はいつ頃からと数えられないほど昔から常態となってしまっているので、わざわざ改善しようなどという気勢のある者もいない。

 ロンドンの上流階級の者は直接見たこともないくせに、この東の果ての町はもう手のつけようがないほど寂れているだとか、この町からいつも伝染病が流行るだとか、果てには女、子どもを喰う猟奇殺人者が潜んでいるだとかいうことを、茶席は茶席でも暇を持て余しすぎて他に話題のないような時に言い合っては勝手に震え上がる。そうして町の大通りを中心にして広がるこの地域に名づけられたのが「食屍鬼街」――オウガー・ストリートという名前で、こうした話題にタイトルがつけられれば良くない噂が広まるのも早く、これもまたいつの頃からか、まさにオウガー・ストリートで暮らす人々以外はこの地域に寄りつかなくなっていた。そして実際にロンドンのなかでもとりわけ貧しい者たちが住まうこの東の町は陰鬱として湿っぽく、近寄りがたい雰囲気にいつも支配されていた。

 ナマエが寝て食べて暮らしている家屋はこの通りから広がる町の中心部から離れた場所にあって、どちらかといえば隣の町に近い。だからこの辺りは薄暗くもなく、強盗や放火はもちろん、空き巣もめったに起きたことはない。それにナマエの家が家業として「ミョウジ・イン」を経営しているということもあり、家屋の周辺はきれいになっているほうだ。花壇をもってくれば確かに重々しく寂れた壁面には似つかわしくないかもしれないが、家の前の石畳は清潔にしているし、酒が飲めるからといって酔っ払ってその辺で小便などしようものなら一生ここの酒を飲むことは許されない。この町に他にも酒を出しているパブリック・ハウスはいくつかあるのだが、良いものや珍しいものを仕入れているのはミョウジのところだけだという評判は確立しているので、あえて荒そうなどと思う不埒者はこの町といえどめったにいなかった。

 ナマエの家では朝になると、窓の木枠のたてつけの悪いせいで室内よりも少しだけ明るくなった外の光が入ってくる。下のきょうだいたちを起こさないようにと自分が一番窓際で寝ているナマエは、その光のおかげで家族のなかでも母親の次に早く目を覚ます。まずナマエがやることは、きょうだいたちのベッドのほうを見て、ブランケットがちゃんと首元までかかっているかを確かめることだった。いつもならまだ3歳になったばかりの末の弟が、首元も足首も、時には腹まで出して寝てしまっていることがあるので、気をつけなければならない。7歳の妹と5歳の弟は、ナマエが古着で作ってあげたぬいぐるみを抱えて寝ている。それは毎朝ベッドから落ちてぽつねんと床に寝ているときが多いので、ナマエは拾い上げてまた彼らのベッドの上に戻す。幼いきょうだいたちの眠りの保全が確保できたらナマエは、まだ凍える寒さのなか手をこすり合わせながら着替えを始める。ただでさえ古着だったのに何度も洗濯をしたから固く縮んでしまった綿の、すでにほつれている箇所もある縫い目が弱くならないように、そっと寝間着を脱いで日中用の下着をつける。仕事中はずっと歩き回るとはいえ足の指先は冷えるので、毛糸の靴下は欠かせない。足首や手首など人間のからだの曲がるところを温めるといいと、ナマエは一昨年死んだ祖母に教えてもらっていた。だから冬が完全に去るまではペチコートとブラウスの内側、足首と手首にもう一枚ずつ、毛糸を編んで筒状にしたものを履いて、その口を縛る。そうすれば隙間風が入ってきても、身を震わせずにすむ。

 自分の身支度が終わると、ナマエは階段を下りていく。1階の炊事場にはすでに母がいて、昨日のスープの残りに水を足しているところだった。「おはよう、母さん」とナマエが挨拶すると、母はナマエを引き寄せて額にキスをする。「おはよう、私のかわいい小鳥ちゃん」と、母は毎朝異なる言い方でナマエを呼ぶ。それは天使のときもあるし、子犬や子猫のときもあるし、花に例えられるときもある。
 ナマエは小さく燃えはじめている暖炉の火に手をかざすと、早く指先まで温かくなるように手のひらを握って開いてを繰り返した。もう3月の末だというのに、朝晩の冷えはいっそう強くなっているとすら感じる。冬のあいだ毎日冷たい水を触るナマエの指先はささくれているけれど、ナマエの母が毎晩、以前身なりの良い客からもらったヘアオイルをとってナマエの髪をとかし、そのあと手を握って温めてくれるから、その甲はふっくらとしていた。
 少しずつ指先が温まってくれば、ナマエはほうきを手にして玄関に向かう。木製の扉がぎぎぎと微かな、しかし重い叫び声をあげて開けば、一日のなかでもっとも冷やされた冬の朝の空気が入ってくる。空にはまだはっきりとした太陽の姿はなく、くすんだ空色とどこか遠くからの光のなかで、薄暗いもやが漂っている。ナマエは胸いっぱいに、一日のなかでもわりあい澄んでいる空気を吸った。これから人々が目覚め炊事をして、馬車が走り蒸気機関車が動き出す時間になれば、石炭や硫黄や汚水の臭いがたちまち満ちてしまう。太陽が昇りはじめる直前の空気に満ちる清らかなこのときは、ナマエがこの町に住んでいていちばん好きな時間だった。雲はほとんどないから、だからこんなに寒かったのか、でも今日はきっとロンドンでは数少ない晴れの日だろうと、ナマエは思った。

 玄関前を掃いて戻ってくると、母はナマエにふかした芋の皮をむくように頼んだ。ナマエはわかったと返事をして、内心はけっこう喜んでいた。ふかした芋は熱々だけれど、冬の朝に皮をむくならちょうどいいのだ。そうしていると父が起きてきて、母とキスをしたあと、ナマエの頬にも冷えた唇を寄せた。といっても、ナマエの頬も冷えているから何も問題はない。暖炉はぱちぱちと音を立ててじゅうぶんに燃えていて、父は寒い寒いと言いながら手をこすり合わせ炎に向かう。それから「ナマエ、こっちに来て皮むきしたらどうだ」と声をかけた。ナマエを気遣っているように聞こえるが、彼は実際のところ炎に加えてナマエでも暖をとろうとしているのだった。ナマエはそれを知ってるから、母と目を合わせてこっそり笑い合いながら、父のほうに行きくっついて皮むきを続けた。

 そうしていると、窓からは橙色の光が入ってくる。このころになると、もうナマエは腹が空くあまりちょうどむきおわった芋を一つつまみ食いしたくなるのだが、すぐにいけないと自制する。芋の数にも限りがあるから、一つでもなくなればもっと食べざかりのきょうだいたちの分がなくなってしまう。それに、つまみ食いも得した気分になるけれど、食事は家族みんなでとるのがいいと、ナマエは思う。7歳と5歳は食事中もそれ以外も喧嘩することが多く、たいがいは歳が下の弟が泣かされてナマエがなだめ、上の妹を叱る役になる。3歳の弟はまだ手が焼けるので、母はずっとかかりきりだ。父はそういう家族の様子を見て面白そうに笑っている。時々ナマエも、笑っている暇があるなら弟と妹に両手を引っ張られている自分を手伝ってほしいと父に文句を言いたいときもあったが、ナマエだってわがまま盛りのきょうだいたちとのやりとりを、たいがいは見物の対象にして笑み、癒やしにもしている。そういうナマエだから、父と母は、バーの常連の客にいつもこう言っていた――「ナマエが下の子たちのことをよく見ていてくれるから、あたしらは仕事に集中できるんですよ」。それを聞いて客たちは、忙しくあっちに行ったりこっちに行ったりして注文をとり酒やチップスを運ぶナマエの姿を見て、ナマエちゃんも立派になったなと感慨にふけって、上流階級の真似をして生やした髭を、わさわさと撫でる。

 もう15歳になるナマエは14歳までに学校を終えたあと昼も夜も両親を手伝うようになったのだが、そのころから、彼女は近所でも評判の気立て良しと褒められるようになった。ミョウジ・インの住所は一応ロンドンの東町にあるのだが、位置としてはこの辛気臭い町のはずれにあって、労働者用のパブはもちろん、ロンドンに泊まりに来たけれども高級ホテルに泊まるほどの懐の余裕はないような、あるいは食事に頓着のないような中産階級用に、サルーン・バーも設けていた。宿や食堂部分は質素ではあるがよく掃除されていて整っており、出されるものも高級ではないけれど決して不味くはなく、むしろ標準的な家庭の味が良いと言われている。この町でもそこまで嫌がるほどの立地ではないし、値段のわりに小綺麗で、何より店主のミョウジ夫妻の人柄が温厚で、そのうえ夫妻の娘の物腰も悪くない。加えて良い酒を出すとなれば評判は上々で、この宿は地元民にもそれ以外にも信頼される店であるといえた。



 ナマエはその日の午後、母にお使いを頼まれた。毎日の食事になるパンや豆、ちょっとの野菜、料理の味付けに使う塩、バーに出すナッツ、それに月に1回だけ買える、分厚くて脂ののったベーコンがその内容だ。ナマエたち家族はこのベーコンを買った週だけ、薄切りにしたものをカリカリに焼いて、出てきた脂でパンを焼き目玉焼きを作って朝食に食べる。ベーコンが食べられる週というのはナマエにとっても幼いきょうだいたちにとっても、ちょっと特別な週だった。ナマエがまだ幼い頃は父がベーコンを買いに行っていたのだが、ナマエはそれについて行った先の肉屋で立派なベーコンがいよいよ登場する瞬間が好きだった。ナマエが小学校を出てからその重大な役目は彼女一人でこなすようになり、お使いのついでに2ペンスだけ自由に使っていいと渡される。ナマエはその2ペンスで買い食いしたりせずに大事に取っておいて、自分のベッドのマットをめくったところに保管している古い茶缶のなかに入れていた。もうしばらく数えていないのでいま何枚になったかわからないが、月に2ペンスをもうすぐ1年間も貯め続けているので、ある程度にはなっているはずだった。

 ナマエが朝感じたとおり今日は晴天で、しかし季節としては春が近いはずなのに冬の寒さを保っていた。でも太陽が路地を温めて、さらに歩き続けていれば身体も温まってくる。歩き慣れた道からしばらく遠ざかり、太陽が照らしてすっかり乾いた石畳の道まで来るとナマエは、今日は良い散歩日和だと思い空を見上げては目を細め、頬を緩めた。雨の日はペチコートの裾や靴先が濡れて汚れてしまわないように慎重に歩く必要があるけれど、今日はそんなことを気にしないで良い。ナマエは道の段差のあるところでときどきジャンプしたりステップを踏んだりして、ずっと歩いていった。道の端では、弟や妹と同じような年齢の子どもたちがかけっこをして遊んでいる。そのとなりで自分と同じくらいの年齢の娘が乳離れしていないくらいの赤ん坊を抱えながら、幼い子らを見守っているーー「こら! あんたたち道路にはみだすんじゃあないよ! 馬車に轢かれちまうよ!」という小言つきだ。2、3年前は自分もあのようにきょうだいを抱えて、別のきょうだいを叱ったりしていたなと、ナマエは昔を思い出してくすりと笑った。

 のんびり歩いて30分ほど経つと、食料品を売っている店が並ぶ通りに着いた。ナマエは母に渡されたメモを見ながら、何回も来たことのある店々を効率よくまわっていった。腕のなかの麻袋には、野菜やらパンやら、ナマエたち家族を支える食材がどんどん入っていく。そうして最後にナマエは、馴染みの肉屋まで来た。
「あら来たねナマエちゃん。元気?」
「こんにちはモリスさん。わたしも家族も元気です」
「そう、良かった」
 モリスという店主は大柄な中年で、使い古した前掛けはいつも茶色く汚れていてがさつな印象を与えるが、笑顔を絶やさない愉快な男だった。モリスは自分にも子どもが何人かいるけれど、礼儀正しいナマエを彼女の幼い頃から気に入っていて、ベーコンを買いに来たら屑肉を余分につけてくれることもある。今日もいつものね、と知ったる口調でナマエに確認すると、カウンターの上に吊り下げてある大きな肉の塊を取り、使い込んではいるがまだまだ切れる大きなナイフをざくり、と勢いよく引き下ろした。この一連の動作の末に、ナマエの好きな瞬間は来る。肉塊は見慣れたベーコンの大きさになって、ナマエの手元に渡ってくるのだ。この味を想像して、ナマエは腹が空いてきてしまった。モリスからベーコンを受け取ると、ナマエは持ってきた布で包み、その代わりありがとうと言って金を渡す。
「はい、いつもどうもね」
「こちらこそ。それでは、モリスさん」
 ナマエが会釈して店を出ようとすると、モリスはちょっと待って、と呼び止めた。
「ナマエちゃん……最近、バーのほうはどうなの」
「え、うちですか? どうって、なにがですか?」
「いやね、最近……っていってもおじさんが若い頃からあったんだけどさ、禁酒のさ、団体が最近、ここらへんでも活動してるの見たんだよ」
「禁酒の、団体?」
「あれ、お父さんお母さんから聞いてない?」
「はい、聞いてないと思いますけど……」
 モリスは、彼の普段と比較すれば険しい顔になって説明しはじめた。その話によると、労働者階級の禁酒を訴える活動が最近また活発になってきていて、ロンドンのはずれのこの町の酒屋やバーやインに対しても酒の規制を厳しくするようにとの声が強まっているのだという。
「あたしらはさ、客商売なわけだから、そういう活動されちゃあたまんないよね。禁酒禁酒っていうけども、そんなのアッパーの人たちが勝手にあたしらのこと決めつけてやってるわけで。こちとら酒が唯一の楽しみだってのにさ。ま、ミョウジさんとこで何もないならいいんだけどね。でも気をつけるように、お父さんとお母さんに言っておいて、ナマエちゃん」
「わかりました……ありがとう、モリスさん」
 モリスが一人でああだこうだと言っているのを、ナマエはあまり要領を得ない心地で聞いていた。禁酒運動というもの自体、小学校では習わなかったし両親が口にしたこともなかったから知らなかった。気をつけるようにと言われても、何をどう気をつけるのかもわからない。しかし正直なところナマエは腕に抱えたこのベーコンから微かに漂ってくる熟した肉の香りに気をとられて、モリスの話の内容を覚えるのはともかく、そこから自分で何か考えるような余裕はなかった。しかしモリスは、ナマエの返事に満足したようだ。「じゃあね、また待ってるよ」という声にナマエはまた礼を言うと、帰りの道を歩きだした。

 早く家に帰ってこのベーコンをきょうだいたちにお披露目するのもいいけれど、冬の終わりの寒さの和らいだこの日はもう少し散歩を続けたいと、ナマエは思った。いつもの散歩のコースは何通りかあるのだが、ベーコンを仕入れてくる日だけいつも通る道があって、その近くには小さな森がある。それはロンドン東部のこの地域をテムズ川から遠ざかる方向に進んだところにある、ただの小さな森なのだが、ナマエはけっこう気に入っている。ロンドン中心部の宮殿だとか、由緒ある貴族の邸宅だとかが並ぶきれいな地域にある公園よりは、もちろん小さいし見栄えもしないし、たいしたことのない場所なのだろう。けれど、そんな場所にこんな身なりで行けるはずのないナマエにとっては、敷物をしかなくても寝転がれるきれいな草原、手に取るのを躊躇しないきれいな葉や花が生えている森というのはありがたい存在だった。いまは冬の終わりだから、まだ新芽も顔を出さず空気が淀んでいるかもしれない。でも春になれば、背の高い木々が一斉に枝葉を広げ、野草が小さな獣道を囲み、空気も澄んできれいになる。周囲を住宅に囲まれているから森のなかで迷ったり猛獣に遭ったりするような危険もない。ナマエが生まれたころから比較しても、こういう自然のままの森や林や草原というのはどんどん少なくなってきている。ナマエはあの森を帰り道の休憩地点と定めて歩きだした。

 すっかり乾いてぱり、ぱり、と軽快な音を立てる落ち葉を踏んでいく。色、大きさ、重なり、どんな具合の落ち葉を踏めば良い音が鳴るかをナマエは心得てきた。顔を上にやれば、細くやつれたような枝に2つ3つの葉を辛うじてつけた木々が風に吹かれているが、よく目をこらせば小さな芽がぽこりと顔を出している。最初こそナマエはその数を指差し数えていたけれど、もう数が多すぎてできなくなってしまった。そのことを、ナマエは嬉しいと思った。もう少し進んだところに、折れて腰を掛けられるようになっている木があるはずだ。そこで休もうと思って、ナマエは遠くを見渡す。殺風景なおかげで、すぐにその場所がわかった。

「ん、あれ?」
 
 しかしナマエは、自分だけの特等席と思っていたところに、ひとつ人影があるのを認めた。後ろ姿しかわからないが、背は大きくはないから子どもだろうか。くすんだ緑や茶の風景と同じようなぱっとしない色の上着が丸まっており、しかし頭はまだ高い位置にある太陽に照らされて細かい金色の髪がきらきら反射している。襟巻きからこぼれた髪が短いのを見てナマエは、少年だ、と思った。
 自分が一休みしようと思っていた場所に先客がいたことにナマエは気分を害したわけではなく、むしろ奇妙な邂逅への期待が、そっと頭を擡げた。夏の晴れた日ならともかく、冬の終わりのまだ寒い日にここを選ぶとはなかなかお目が高いと思ったのだ。別にそろりと近づいていく必要もないので、ナマエは引き続き落ち葉を鳴らしながら歩み寄っていった。
 木の目の前まで来ると、ナマエはあえてよいしょ、とつぶやいて、折れた木に腰を下ろす。食料の入った麻袋は足元に置いた。少年が向こうに顔を向けているので、自分は反対に、来た道のほうに向けた。しかし、少年はナマエの身体2つぶんくらいを挟んだところに座っていて、落ち葉の音からもつぶやきからもナマエが来たことはわかっただろうに、振り向いたり反応を示したりはちっともしなかった。寝てるのかなと、ナマエは首をちょっとだけ曲げて、横目で少年を見る。顔はいまいち見えないけれど、身体はぎゅうっと縮こまっており、寝ているわけではなさそうだ。何もお話できないのかしら、せっかく今日はベーコンの日だったから、世間話でもしたい気分だったのに。そうナマエが思っていると、不意に、少年がげほげほと咳き込む音が聞こえてきた。
「……風邪を引いているの?」
 ナマエはたまらず声をかける。自分の身体ごとひねって少年の姿をしっかり見れば、上着はぶかぶかで所々に穴を拙く補修したあとや、まだ開きっぱなしの穴やスレがある。襟巻きは薄汚れているうえに寒さをしのげるような厚さでもない。靴は剥げが目立ち、雨の日には水が入ってびしょびしょに濡れてしまうこと間違いなしだ。ナマエの声が聞こえているのかいないのか、相変わらず少年はこちらを向こうとしないが、鼻先が見える頬は寒さと日焼けで火照っていて、触ればかさかさするとわかるくらい乾燥していた。
「ねぇ、大丈夫?」
 ナマエはもう一度声をかけた。それでも少年は懐に入れた手を一度引き抜いて袖口で鼻をこすっただけで、ナマエのほうを見なかった。こうなると、ナマエも少し意地になってくる。絶対聞こえてるのに無視してるのね、とわかると、どうしてもこちらに顔を向かせようと思った。少年の丸まった背中に手を伸ばし、その小さな肩に触れた。「ねぇ、聞こえてるでしょ、大丈夫って――」

 ――ぱしん。

 ナマエの手は乾いた音を立てて振り払われ、その代わりにナマエは少年と目があった。ナマエは少年の顔を見て、小さく息を呑んだ――その左の目元は赤紫に腫れていて、口元には血が流れ、袖口には乾いた赤黒いものがこびりついていたからだ。

「おれにさわるな」

 たしかな棘をもった言葉。その言葉を放った少年の目元を通って顎先からは、しずくが落ちていった。
 


 インの勝手口が勢い良く開いたかと思えば、息を切らして頬を上気させたナマエが帰ってきた。
「おかえりナマエ。モリスさん元気だった?」
 台所で食事の準備をしていたナマエの母は扉の開いた音だけでナマエの帰宅を知ったが、自分の娘にしてはばたばたと騒がしく帰ってきたことを不思議に思って、音のしたほうを見た。
「ただいま母さん! あの、あのね、えっと……薬ってどこに仕舞ってある?」ナマエは椅子に麻袋を置いて、すぐに母のほうへ駆け寄ってきた。「あ、モリスさんは元気よ。いつもどおり」と付け足す。
「どうしたのナマエ、走って帰ってきたの?」
 母はナマエの冷えた頬に両手をあてたが、ナマエは気が気ではないようだった。うん、と頷いて息を整えようとしている。
「あの、痣に効くようなやつと……あと、口のなかってどうやって治せばいいの?」
 ナマエは上着も脱がずに台所を通って、その奥の戸棚に見当をつけて開けていく。母は娘に何が起こっているのかわからぬまま、でも彼女がこんなに落ち着かない様子なのは珍しいから、とりあえず何も聞かずにここに入ってるわよと言って引き出しを開けた。ナマエに軟膏を手渡したが、口のなかに効く薬はうちにはないと告げる。
「そっか……どこで買えるかな。お医者様に言ったらもらえる?」
「もらえるかもしれないけど……ワトソン先生は今日回診なさってるだろうからすぐには呼べないわ。急ぎなの? 誰か怪我したの?」
「うん……えっと、友達、が怪我してて。先生のお家に行ったら迷惑かしら? 薬っていくらくらいかかるの? 高いよね?」
「その友達のところに診察に来てもらえばいいんじゃあないの? 急患ならすぐに診てくださるかも」
「えっと、ううん、えっとね、できないの。先生に来てもらうのは、ちょっと……」
 ナマエの疑問も、ナマエの母からの質問も多すぎて、収集がつかなくなっていく。ナマエはとりあえず大急ぎで階段を上がると、自分のベッドへと向かった。マットの端をぐいと上げると、がらがら音を立てる茶缶を取り出した。口のなかの怪我に効く薬というものが一体いくらかかるのかはわからない。わからないから、なけなしのその茶缶ごと胸元に包み、また大急ぎで階段を下りていった。母が自分を呼んだけれど、「ごめんなさい、すぐ帰るから!」と顔だけ向けて返事をした。そうしてナマエは再び駆けだした。

 ナマエは森を離れる前に、一応「ここで待ってて! 薬取って、すぐに戻ってくるから!」と言っておいたのだが、ぶっきらぼうだった少年の態度を見るに、ちゃんと待っていてくれるかどうかは自信がない。しかも森へと戻る途中にドクター・ワトソンの家に寄ったから時間がかかってしまった。
 母が言っていたとおりドクター・ワトソンは回診のため外に出ていた。玄関を強くノックすると家政婦が出てきて、切羽詰まったナマエの様子を見てすぐに代わりのミセス・ワトソンを呼んでくれた。何か重大な事故でもあったのかとミセス・ワトソンは思ったのだが、額に汗をにじませたナマエが訊いたのは、口のなかに塗れる薬はないかということだった。「友達が怪我しちゃって」と言うナマエにミセス・ワトソンは「口のなかには薬は塗らないのよ」と教えながら、小さいきれいな綿をいくつかくれた。それで口内の切れた箇所をしばらく押さえておけば、血が止まるらしい。ナマエが胸元から茶缶を取り出すと、ミセス・ワトソンはお代はいらないと言う。それでもナマエがいくつかのコインを手のひらに出すと、彼女はその手を自分の両手で包んで「それは受け取らないわ。その代わり今度私たちがバーに行ったとき、また一緒におしゃべりしてくれる?」と頼んで、ウィンクした。ナマエは頷いて何度も礼を言うと、すぐにまた走り出した。

 かなり疲れてきたナマエが精一杯の小走りで森に戻ってくると、まだあの少年はさっきと同じところに座っていた。ナマエは安堵して、さっきから外気にさらされて冷えに冷えた汗を拭った。「良かった、ちゃんと待ってた」と声をかけながら少年に近づくと、今度は少年はこちらを見た。しかし何も答えない。
「これ……家から取ってきたの。目のところに塗るのよ」
「…………」
 ナマエは何も答えない少年の目の前にしゃがんだ。軟膏の瓶の蓋を取って、中身を指ですくう。少年の顔の、痛そうではない部分に手を添えた。少年は眉のあいだに深くしわを作りながらも、今度は「触るな」とは言わず、宙を見ている。ナマエは人差し指で、丁寧に、できるだけ痛くならないように、軟膏を塗る。少年は目を薄く開けているが、ときどきくぐもった声を出した。そのたびにナマエは「ごめんね」と謝る。
 ナマエは薬を塗りながら、ようやく少年の顔を、姿を、まじまじ見つめた。髪は金糸のような細さで、透けている。目元の痣は痛々しく目つきは鋭いようだけれど、傷が治れば美しい顔立ちをしているに違いなかった。これほどきれいな顔をしていれば誰からも愛されるだろうに――少なくとも女にとって美しいということは大事にされるための条件だと言われていることをナマエは知っていた――、どうしてこんな、誰かに殴られたみたいな傷を作っているのだろう。誰かが殴ったのだとしても、一体誰が、こんなにもきれいな少年を殴れるというのだろう?
「できた。この薬ね、よく効くのよ。わたしもよく塗ってもらってたもの」
 ナマエが少年の頬から手を離すと、少年はやっと解放されたと言わんばかりに首をふるふると振った。しかし目元の傷に響いたのか、「いてッ」と小さく悲鳴を上げる。まるで野良猫の子どもだと、ナマエは思った。しかしまだやらねばならないことがある。今度は口である。
「口のなか、切れてるでしょ。これもらってきたの」ナマエはきれいなハンカチにつつんでいた、ミセス・ワトソンが持たせてくれた綿を取り出す。「口、開けて。これで切れてるところを押さえるのよ」
 ナマエはハンカチで少年の口元の血を拭こうとする。しかし今度は、少年はそれを嫌がった。「じぶんでやる」と、痛みでうまく開けられない口をやっと動かしてそう答える。少年はナマエの手からハンカチと綿を中ば奪い取るようにして受け取ると、またきれいな顔を歪めながら手当てしていく。ナマエはその様子をじっと見ていた。
 しばらくしてから突き出された手には、しわくちゃになったナマエのハンカチが握られていた。少年は痛みに耐えながらやっと自分自身の手当てを終えて、隣に座っていたナマエに腕だけを向けた。目は合わせようとしない。ナマエが受け取ろうと手を伸ばすと、少年は不意に腕を引っ込める。「え?」ナマエがぽかんとしていると、「……やっぱり、あらって、かえす」と、綿の詰まった口のなかをもごもごさせながら少年は言った。ナマエは聞き取りにくいその言葉をちゃんと聞き取って、「わかった」とだけ返事した。少年は微妙に顔をそっぽに向けたまま、目線だけナマエのほうにやった。するとナマエと目が合う。そうして少年はやっと、自分からナマエに話しかけた。
「……ディオ」
「え?」
「ディオ。……おれのなまえだ」
 少年はそう言い残して立ち上がった。ハンカチを洗って返すと言っておきながら、次に会う約束もせずにさっさと立ち去ろうとしている。けれどナマエは、少年がやっとまともに口を開いたことが嬉しくて、そんなことは気にならなかった。
「あのッ、わたし、ナマエ!」
 ナマエは少年の背中にそう呼びかける。
「ここ、わたしの散歩道なの。月に1回、この日、この時間に通るから!」
 少年は立ち止まって振り向く。ナマエをじっと見つめて1秒、2秒経つとまた背を向けて歩きだした。ナマエはその背中が木枯らしの向こうに消えるまで、見送っていた。



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