Junction the story with you.

Mattina


 少しだけ開けてあるカーテンの隙間から眩しい朝日が入り込む。それがまぶたの向こうを照らして温かいと、覚醒しつつある頭のなかで感じた。

 ピピピ、ピピピ、ピピピ。
 朝か、と意識が認めるのと同時に聞こえてきたアラームの音。それが最後のひと押しとなって、ぱっちりと目が覚める。よかった、ちゃんと起きられた。もうしばらくベッドのなかでまどろんでいたい気もするけれど、今日はそうもしていられない。大きく息を吸いながら、夜のあいだに縮こまった身体にめいいっぱいの空気を入れる、そうして起き上がった。ベッドから抜け出しながら、胸元で無秩序に広がっている髪を手櫛でとかした。よかった、今日は晴れている、だから髪もきっと言うことを聞いてくれる。まどろみとは完全にお別れして、それに代わって身体のなかは期待に胸が膨らむような、落ち着かないような、そんな高揚感が心に注がれていく。

 キッチン棚の手前、残り3枚になったトーストの1枚を取ってトースターに突っ込む。冷蔵庫からはオレンジジュースを取り出してコップに注ぐ。ここまではいつものルーティンで、何も考えなくても手は勝手に動いて、わたしの朝食が出来上がる。いつもならサラダとか果物とかをもう少し食べるのだけど、今日のメインは昼だ。そのためにお腹には空席をつくっておかなくちゃならない。

 トースターが出来上がりを知らせてくれるまで、顔を洗って化粧水と乳液をたっぷりとつける。それに香水は、いまのうちにつけておくのがいい。出かける直前だと、いかにも香りを振りかけてきましたという感じがしてちょっとわざとらしいと思うから。今日のおともは、この1年ほどずっと一番手のジバンシイ。甘すぎない、でも柔らかい香りが気に入っている。
 手首につけようとする直前になって、ふと最近観た映画のワンシーンを思い出した。あの映画の主人公の女の子は、まず香水を自分の頭の上で2、3回出してから、その下をくぐるようにして香りの霧をかぶる、というやり方をしていた。一瞬だけ、わたしもそうしてみようかと思って香水瓶を高く上げる。けれどすぐに腕を下ろした。いつもと違うやり方にして上手くいかなかったときのことを考えれば……冒険しないほうがいい。だって今日ばかりは失敗できないのだから。

 がしゃん、と音をたてて飛び出してきたトースターを取り出す。熱いから親指と人さし指の、2本指でだ。誰の目を気にする必要もないから、それを皿の上に無造作に置いた。今日のジャムはとっておきのマーマレード。おばあちゃんが教えてくれたレシピで作ったやつだ。もったいないから少しずつ食べるようにしていたけれど、今日は特別な日だからともっともらしい理由をつけて、たっぷりトーストに塗り込む。

 ――今日の天気は晴れ。降水確率は10%と低く、一日中からっと晴れた散歩日和となるでしょう――テレビの天気をチェックしながら、誰に恥じらうこともなく、大きな口を開けてトーストにかぶりついた。

 朝食を食べたあとは身繕いの続き。歯を磨きながら髪にオイルをつけて、丁寧に梳かしていく。くせのある毛はブラシを通しているときはされるがままなのに、いったんブラシが抜けてしまえばまっすぐにはなってくれない。でもこれでいいのだ。昔はこの髪が好きじゃあなかったけれど、「オレはどうやってもそうはならないからな、君のふわふわな髪をずっと触っていたくなる」、彼のその言葉だけでもう、くせ毛で良かったと思うようになったのだから。
 それでいよいよメイクの時間。しっとり整った肌に下地を伸ばして、ファンデーションを薄く均等に塗る。眉毛は自然な具合になるように書き足して、二度塗りするマスカラのあいだで、まつげを上げる。最後にリップ、これは今日のために買っておいたワンピースの色とよく合う控えめなピンクだ。唇に色があるだけで、顔はぱあっと明るく華やかになる。鏡を睨むくらい見つめて、メイクの出来栄えを確かめた。うん、きれいにできた、とそう思えた。

 最後にはとっておきのワンピースの登場。この季節だけ着られるノースリーブに、膝下でそよぐフレア。Tシャツにジーンズなどという格好では今日にふさわしくなくて、特別な時間を過ごすために自分が一番自信を持っていられるものを選んだ。今度は全身鏡の前で、くるくると2周する。あぁそうだ、バッグも持たなきゃ、そう思ってハンカチに財布、それにリップを入れる。

 ちらりと時計を見やるともう約束の時刻を指していた。余裕をもって起きたはずなのに、落ち着かない気持ちで準備すれば時間はあっという間に過ぎていた。これで大丈夫かな、なんて言われるかな。準備のあいだは楽しさばかりだったのに、準備が終わった途端に宙ぶらりん、なんとなく不安になってくる、けれど――

 ――ブブブ……キィ、バタン。外から車の停まる音、それにドアが開いて閉じる音が聞こえた。あぁ、来てくれた、約束通りの時間だ。
 トン、トン、トン。階段を登る音は軽く響いて耳に入ってくる。その音に心臓は勝手に急き立てられる――どうしよう、ベルが鳴ってすぐに出れば、待ち構えていたみたいに思われないかな。一歩、一歩と近づいてくる足音を聞きながら、心では期待と緊張とがぶつかり合って、手には汗がにじむ。
 ジジジジ……それなのに短くベルが鳴ると、変に気を揉んでいたことも忘れてすぐに玄関扉を開けた、と同時に「おはよう!」先走った口からは、そんなうわずった声が出た。あぁやってしまった、これでは子どもみたいに浮かれていることがバレバレじゃあないか――

「おはよう、ナマエ」
 けれど彼は目を細めて、そう返してくれた。彼の屈託のない微笑みに、抱えていた恥ずかしさはどこかに消えていく。
「待っててくれたんだな。ありがとう」
 そう言って伸びてきた手のひらは、わたしの髪を通って首筋、それから頬に。
「じゃあ、行こうか」
 そこに軽いくちづけを落として、彼はわたしの手をとった。

 彼の名前はブローノ・ブチャラティ。わたしたちが付き合い始めてから、半年が経つころになった。

Prima del Tramonto



 わたしたちがまずやって来たのは、ナポリの中心にあるメルカートだ。朝早くから、大通りの両端に徐々に露店が開き始めるこのメルカートは、夏になってかなり増えた観光客でごった返している。
 青果にパンやお菓子、いかにも土産物という感じのアクセサリーや文房具、お世辞にもセンスがいいとは言えない衣服、それに安っぽいバッグ。このメルカートはまるでこの大通りのこちらから向こうまでが一つの百貨店みたいになっていて、何を買うという目的もなくただ様子を見学しに来ているひとたちがたくさんいる。そういうひとたちはゆっくりと歩きながらときどき美味しそうな食べ物を手に取ったり、独特すぎる土産物を指差して笑ったり、人混みを背景にして写真を撮ったりしている。

 かくいうわたしも、そっち側の人間だ。食べ物や土産物に興味があるわけではなくて、とにかく有名なこのメルカートの、それもにぎやかだという朝の様子を見てみたかった、だから今日のコースに加えてみた。でもここまでとは思わなかった。今日という日の始まりに、まずはブチャラティと並んでのんびり話しながら歩くような自分の姿を想像していたのだけど、実際それは難しいみたいだ。人とすれ違うのにも身体をひねらなきゃいけないし、話しかけた声の半分くらいは喧騒にかき消される。
 選択を間違えたなと内心ではけっこうな苦笑いを抱えていると、ふいに半歩先にいたブチャラティがこちらに振り返った。
「ナマエ」
 一言、そうわたしの名を呼ぶのが聞こえると、彼に手首を掴まれるのを感じた。
「離れないように」
 そっと握られた部分に、彼の少しかさついた指先の感触がする。わたしの返事はあ、うん、と気の抜けたものになってしまった。付き合い始めてから半年が経つけれど、仕事、仕事、それから仕事に追われて恋人らしいかかわりは全然してこなかった。彼の、わたしよりもちょっと温かい手のひらから伝わってくる、"彼"というひとの、ひとらしさ。いま、それを初めて感じた。あぁわたしたち、付き合っているんだ、恋人どうしなんだ、と、事実と実感がやっと噛み合わさっていく。一気に心臓の近くの、胸のまんなかあたりが跳ねて、熱をもって、汗ばんでいくような気さえする。
「ここ来るの初めてだけど、こんなに混むんだね」
 わたしはそんな言葉で、うわずった気持ちをまぎらわした。
「オレも、客として朝に来たのは初めてだ」
「そうなの?」
「あぁ。仕事で、ここが終いの時間くらいに来たことは何度もあるんだがな」
 わたしの手首を包んだ彼の手が、少しずつ下りてくる。
「じゃあ今日もたくさん声かけられるかな。どうしよう、また大量の果物もらったりしたら。車、遠いのに」
「どうだろうな、いつものスーツじゃあないから気づかれねぇかもな」
 明確な境界などなく、いつのまにか手は繋がれていた。わたしたちは何も言わずに、しばらくゆっくり並んで歩いた。彼の顔を横目にこっそり見ると、切りそろえられた髪の向こうで、その口元が緩んでいるのがわかった。こんなに混んでいるメルカートだけど、来て良かったかもと思う。

「あらブチャラティ!」

 ふと、前方から声をかけられる。そちらを見ると、店番をしていた中年の女のひとがこちらに手を振っていた。
「どうも、ロッシさん」
 ブチャラティは店に近づいてく。手と手を繋いだままのわたしも、人混みをかき分けてそちらに流れていく。
「順調ですか。今日は初めて朝に来ましたよ」
「えぇ順調よ……って、そうよね。朝にあなたを見かけるの、そういえば初めてだわ。今日はけっこうひとが多いほうね。ほら前にあなた言ってたじゃない、あなたのところの、えっと上司さん? 変わったんでしょ。それ以来くらいからかしら、観光客だけじゃなくって、近所のひともよく来るようになった気がするのよ、それでね――」
 ロッシさん、と彼がそう呼んだ彼女の店には絨毯、クッションカバー、エプロンにミトンと、家で使う布製品がずらりと並べられていた。彼女は商品を適当に手にとって広げて、畳んで、また広げて、を繰り返しながら、早口に、次から次へと世間話の話題を変えていく。
「で、ブチャラティ。あなた……そのひとが例の?」
 しかし彼女はここからが肝心なことだ、とでも言いたげな顔をしてわたしのほうを見て、それから一段声を小さくして訊いた。わたしはなんとなく気恥ずかしくて彼の手を解こうとしたけれど、できなかった。わたしよりも一回り大きなそれは、すっかり完全に、わたしの手を包んでしまっている。それどころかちょっと力を抜いたわたしの手を離すまいと、彼はさらに力を込めたようだった。彼女の爛々とした視線は、わたしたちの繋がれた手に行ってから、またわたしのほうに戻ってくる。隠そうともしない、好奇心をたたえた視線に圧されながら、わたしは会釈して、どうも、と挨拶した。
「えぇ、そうです。ナマエといいます」
 ブチャラティがやっと手を離したかと思えば、今度はそれをわたしの肩に置く。例の、というロッシさんの口ぶりから、ブチャラティがわたしのことを彼女に話したことがあったのだろうということを察した。
「ナマエさん! やぁねもう、美人さんじゃあないの! 彼にはとってもお世話になってるのよ。いつもこの辺りのこと気にかけてくれてね、ほら、この辺ってちょっと荒れてるときもあるじゃあない? でもね、彼がいつも来てくれるから――」
 ころころと変わっていく話題と表情に、わたしははい、はい、そうですね、としか返せずにいたけれど、ロッシさんはそんなことを気にするふうもなく、そのあとしばらく喋り続けた。ブチャラティは外での仕事があるとたいてい予定よりも多く時間がかかって戻ってくるのだけど、わたしはその理由に納得がいった。
 そのあとも何度か声をかけられて、そのたびに数分、長いときは10分くらい店先で話をしたり、案の定果物やお菓子やらを持たされたりもした。ブチャラティは、わたしが思っていたよりも街のひとたちに慕われていたらしい。メルカートを去るころには、わたしたちは片手に一つずつ袋を持つまでになっていた。


Mezzogiorno


「噂には聞いてたけど、やっぱりすごい人気だったね」

 昼食は、サンタ・ルチア港近くのリストランテで。ここは、わたしもブチャラティも初めて来る店だ。個室に入ると、メニューを渡される。二人して黙々とメニューに目を通していたのだけど、そこにぽつりと言葉を挟んだのはわたしだった。
「ん? あぁそうだな。この店、フーゴも気に入ってるらしくてな」
「あ、いや、そうじゃなくて」
「うん?」
 あなたが、メルカートでたくさん声をかけられていたねってこと。ブチャラティはこんなふうに天然に可愛い勘違いをする。
「……人気。そうなんだろうか、人気ということなのかはよくわからないが、たしかにしょっちゅう声はかけてもらえるな」
「うん、人気。みんなブチャラティのこと好きだもの」
 ブチャラティは自分が頼られて、慕われているということに自覚的ではないようだ。あまり腑に落ちていない彼の様子に、いろんなひとを魅了するのを天然でやっているのだと確信する。わたしも多分、そのうちの一人。なんて罪なひとだ。
「そうか、それはありがたいな。……"噂"?」
 彼はメニューにやっていた視線を上げると、噂ってどんな? と訊いてきた。
「うん、まだ旧体制だったころ、うちの、情報チームの子がね、ブチャラティのチームに入りたいって言ってたんだけど」
「へぇ」
「理由訊いたら、ブチャラティがいい人らしいからって。面倒見がよくて、怒らなくて。それにね、わたしがこっちに異動してきてからも、外に仕事行くとブチャラティは一緒じゃあないのとか、ブチャラティによろしくとか、けっこう言われたよ」
「そうか」
 彼の返事は短いけれど、その顔を見れば照れているのがわかる。柔くつくった拳で口元を隠して、目元が少し下がっているから。彼にしては珍しい表情だと思った。
「それで、どうだった」
 ブチャラティは上目でわたしを見て言った。
「オレは、その噂通りいいヤツ、だったか」
 そんな顔をされるとこちらまで照れてしまう。無意識のうちに、わたしもメニューで顔半分を隠していたのに気がついた。緩んでしまう口元を隠しながら、首を縦にふる。そのあともう一度頷きながら、うん、と答えた。会話はそこで途切れる。わたしたちは、照れている。まるで中等学校で初めて恋人ができたカップルのよう。わたしたちは、もう二人とも大人なのに。
「食前酒をお持ちしました」
 これ以上どうしようもない気がしていた雰囲気のなかに、ギャルソンが入ってきてくれて助かった。

 仕事をする日は忙しいし、チームの他のメンバーもいることが多いから、こうしてゆっくり二人で食事をすることはあまりなかった。経済的に困っているわけではないけれど、そもそもこんなふうに入るのにおしゃれが必要な店にはあまり行かない。しかしさすがそこらの食堂とは違って、味はとても丁寧で、大変に良い。
 前菜、スープの次にはパスタが来て、ギャルソンは「ポルチーニと帆立貝のクリームソース・パスタでございます」と告げた。
「ポルチーニと帆立貝。良かったね、ブチャラティ」
 さぁ食べようとフォークを手にしたブチャラティにそう言うと、彼はこちらを見て首を少しかしげた。
「あなた、この組み合わせ好きでしょう」
「あぁそうだな……って、知ってたのか」
「うん、ミスタが言ってたんだ。前にみんなでモストラ駅前の、チェザーレ通りのとこのバールに飲みに行ったことあったでしょう。あのときミスタがやたら帆立貝の料理を注文するからなんでって訊いたら、ブチャラティが好きだからって。それでね、他に好きなものあるのかなって訊いたら、ポルチーニ、って言ってたの。あと、ブチャラティは肉よりも魚が好きだっていうのも聞いた。逆に嫌いなものはリンゴ、だよね」
「よく知ってるな」
「みんな、あなたのことよく話すから……やっぱり人気。大人気」
 ブチャラティはみんなに好かれている。それは恋人としても誇らしいことだけれど、でも同時に、どこか寂しいような気もした。ブチャラティは、わたしだけのブチャラティではないのだ。わたしだけが知っている彼の秘密なんてものはなくて、好きなものも嫌いなものも、みんなが知りたがる。それにブチャラティは隠しごとなんてしないから、みんながよく知っている。
 パスタのクリームソースはきのこと貝の旨味がよく馴染んで美味しかったけれど、食べ進めるとちょっとくどいかもと感じるようになったから、一口、水を飲んですっきりさせた。
「一番好きなのは、オーブン焼きなんだ。ポルチーニと、帆立貝の」
 ブチャラティも同じように感じていたのかもしれない。ボトルから注いだ水をぐい、とあおると、わたしの空いたグラスにも注いでくれた。
「……きみの好きなものは?」
 彼のまなざしは、とても優しい。
「わたしは何でも食べられるよ」
「へぇ、いい子だな」
「……アップルパイなんかは、もう大好きだね。毎日でも食べたいくらい」
 わざとらしくそう言うと、ブチャラティも笑った。アップルパイならオレも好きなんだぜと、彼は子どもみたいに言い張る。
「じゃあ今度作るよ。おばあちゃんのレシピがあるから」
 わたしはまた新しい、彼についてのことを知った。


Pomeriggio


 午後の日差しは初夏らしく爽やかで、リストランテを出たわたしたちはそのまま歩いて博物館へと向かった。
 こつ、こつ。石畳の上にわたしたちの靴音は揃って短く響く。ときどき、すぐ隣を歩くブチャラティの腕や手が、わたしに触れる。
「博物館ね、これで行くの5回目くらいになるんだ」
 どうしよう、手を繋いでもいいのかな、さっきのはちゃんとした事情があったからともかくとして、いまはどういう流れで手を繋げばいいのだろう。そんなことを頭の隅で考えながら、だんだん近づいてきた赤い大きな建物を見やる。
「そうなのか、ずいぶん多いな」
「うん。新体制になってからも休日はやっぱりやることなくて、家でじっとしてるのも落ち着かなくて。わたし、わりと博物館とか美術館とか好きだから」
 恋人どうしなら、何も言わなくても自然に手は繋がるものなのだろうか。もどかしい。でも自分からは手を伸ばせないでいる。恋人らしさがわからない。
「ブチャラティは行ったことあるの? 博物館」
「オレもそうだな、何回かは」
「え、そうなの。一人で?」
「あぁ。13になるころにはここに住んでいたんだが、仕事がない日に行く場所がなくてな。家で一人でいるのも退屈だったから、この辺をよくぶらぶら散歩したもんだった」
「そっか、じゃあごめん、博物館、もう飽きてるよね?」
 今日のコースはわたしが行ってみたいところをリストアップしたものだ。同じ博物館でも一人で行くのと気の合う人と行くのとでは楽しさが違うと思って、リストに入れてみた。リストを渡したとき、ブチャラティは何も口出しなんてしないで、わかった、楽しみだとしか言わなかったから、彼も相当、目の前に見えているこの建物に通っていることなんて、知らなかった。
 博物館の入り口の手前、階段をゆっくり上る。わたしはブチャラティの横顔を見る。すると彼も、わたしを見た。
「いや、そんなことはない」
 その手が伸びてきて、私の手を取った。そのまま持ち上げられて、指先に彼の唇が触れて、すぐ離れていく。
「ここに来るのは、ずっと一人でだった。オレはけっこうここが気に入ってるんだ。だから今日きみと来られて、嬉しい」
 ブチャラティは優しい。だから知りたい、ブチャラティのことを、もっと。
「わたし……も、嬉しい」
 ブチャラティは満足そうに笑うと、わたしの手を握った。

 瑪瑙のカメオを見て、これ売ったらいくらになるんだろうね、と冗談を言い合う。ヘラクレス像を見て、昔もこんなにたくましい人もいたのかな、でもどうやって鍛えたんだろうと想像しては面白がる。わたしたちはのんびり歩きながら、展示の品の一つ一つについてくだらないことを言い合って笑った。
「これがオレのいちおしなんだ」
 ブチャラティは1枚の大きな絵の前でそう言った。それはポンペイ遺跡から発掘された壁画だった。2000年以上前に描かれたというのに、その色彩はいまも鮮やかな赤色だ。
「長い時間が経ってもこんなにはっきりとかたちも色も遺っているのが……なんというか、奇跡みたいなものを感じるんだ」
 わたしたちは並んでその絵にしばらく見入った。この絵を何度も見たことはあるのに、ブチャラティにとっての特別は、すぐにわたしにとっての特別になる。
 ずっと昔に描かれたこの壁画が、いまもかたちを保っていること。その赤色が、いまも鮮やかなこと。ブチャラティが、この絵を好きなこと。わたしが、そんな彼の隣に立っていること。壁画のなかの世界へと吸い込まれるような感覚がして、ブチャラティの言った"奇跡"はきっと本当にあるのだと、わたしも思う。
「わたしが好きなのはね、これ」
 そこから少し歩いて、一人の女性の肖像画の前まで来た。本を左手に、ペンを右手に持って、何か考えているような視線をこちらに向ける、女性のフレスコ画。
「このひとが誰なのかはわからないんだけど、サッフォ像って呼ばれてるの」
「サッフォ?」
「うん、古代ギリシア時代に、レスボス島で生きてた女のひと。断片的にしか遺ってないんだけど恋と愛の、きれいな詩を作ったらしいの」
「へぇ……」知らなかった、とつぶやいて、ブチャラティはじっとその絵を見た。「好きなのか、詩とか――」
「あれ、ナマエ?!」
 その呼びかけが突然後ろから聞こえてきて、わたしたちの会話は途切れた。わたしはその聞き覚えのある声を一瞬誰だったかと考えて、あの子か、と答えを得る。振り向くと、やはりその子だった。
「マティルデ」
「やっぱり、ナマエ! えっどうしたの、久しぶり、どうしてここに? あなたボローニャに住んでるんでしょ?」
「あー……うん、そうだったんだけど、ちょっと事情があって。しばらくナポリにいるの」
「そうなの?! すっごい偶然! あたしはね、学芸員の面接しに来たの! ほんと偶然!」
「あぁそっか……学芸員。そうだよね」
「えぇ、ナマエあなた、元気だった?! あのときあまりちゃんとお別れできなかったから、ずっと心配してたのよあたし! ね、これまでちゃんと元気だった?!」
「う、うん、元気だったよ……」
 久しぶりの、予想外な友人との再会だったけれど、相変わらず元気で勢いがある。彼女はわたしの手をとったり頬に手をあてたりして、元気で良かった、あれから4年かしら、教授も心配している、おばあさんは元気か、と次々に質問を投げてきた。わたしはうん、うん、大丈夫、元気だよ、と一言二言で返事をする。
「会えて良かった……だってあなた、手紙も全然返さないし電話にだって出ないし……。でもいまはナポリにいるのね。こっちには帰ってくるの、――あらナマエ、こちらの方は……」
 ごめんなさいいま気づいたわ、と言って口元を押さえながら、マティルデはブチャラティの方を見て、それからわたしに視線を戻して訊いた。
「あー……」
 なんて説明しよう、どこから説明しよう、できれば説明したくない。そんな思考がうめき声みたいな微妙な返事になって出てしまった。けれどブチャラティは淀むことなく口を開いて、おまけに愛想の良い笑みを浮かべている。
「オレはナマエの同僚なんだ。どうも」
 なるほど同僚と言えば良かったのか、とわたしは他人事みたいにこの状況をぼんやり捉える。昔の自分を知ってるひとには会いたくなかった。だって何も、いまの自分について言えないから。ブチャラティはやっぱり人付き合いが上手い。
「あらそうなのね! あッナマエ、これあたしの名刺!」
 どんな説明をしても、彼女にとっては重要な情報ではなかったらしい。いらない心配をしたかもと思って苦笑いが浮かんでくる。
「あたしもう行かないといけないんだけど、ナマエ、絶対ここに電話ちょうだい! またナポリで、それかあなたがローマに戻ってきたら、絶対会いましょう!」
 マティルデは腕時計を一瞥すると、急ぎ気味にわたしの両手に名刺を握らせる。そのまま抱きしめられると、彼女は4年前と同じ香水を使っているのだとわかった。
 大きく手を振って階段を下りていった背中を見送る。彼女の姿はすぐに見えなくなる。大雨が降って一瞬のうちに雨雲が去っていたような、気の抜けた心地がした。
「……彼女は?……」
 しばらくの沈黙のあと、ブチャラティはぼんやりとした疑問をそこに置いた。
「……彼女は、わたしの、友達……だったの」
 わたしもぼんやりと、頭に昔の思い出を浮かべていた。

 こつ、こつ。こつ、こつ、こつ。石畳の上にわたしたちの靴音はそれぞれに響く。博物館を出てわたしたちは、何も喋らないままカステロ・デル・オーボに向かった。
 再び港に近くなると、夕暮れの近くなった海からは湿った風が吹いてきた。潮のにおい、たっぷりと太陽に温められた街のにおい。もうそろそろバールが開くような時間帯だけど、ここもまだ観光客が多い。海に臨むようにして建っている四角形の箱のような城、そこへと続く橋からは、ナポリ湾の海岸に並んだ景色がずうっと向こうまで見える。今日が晴れていて良かったと思った。
「この城、夜になるとライトアップされるらしい」
 ブチャラティが、城前の看板を見ながらそう言った。
「夜までもう少し、歩こうか」
 彼の横顔が、海の向こうで沈んでいく光に照らされている。


Tramonto


「わたしね、ナポリに来る前、ローマの大学にいたの」

 フランチェスコ・カラッチョーロ通りは終わりが見えないくらい長く続いていて、別にそんなつもりはなかったのだけど、昔の話をするにはちょうどいい散歩道だった。まずは何から話せばいいか考えてもまとまらなかったから、マティルデという友人がどこで出会ったひとなのかということから話していくことにする。
「19歳で大学に入って、文学部にいたのね。といっても、1年くらいしかいられなかったけど。あの子は、大学で知り合ったの」
「……だからさっき、あのフレスコ画が好きって……」
「うん。小さいころから、詩が好きだったの。特に、うんと昔の詩が」
「それは……知らなかった」
「……あまり言わなかったから。あなたにも、みんなにも、誰にも」
 ときどき海から強い風が吹いて、フレアスカートのなかを駆けていく。朝に櫛を通した髪は、湿っぽい海風に吹かれて絡まってしまった。
「わたしにスタンドが憑くようになったのは矢で怪我したから、ってところまでは言ったことあるよね」
「あぁ」
「……研究室の手伝いでね、博物館展示の移転作業をしたときに、うっかり、やっちゃったんだよね」
 あの日のことを思い出す。あの日のあの一瞬、自分の未来がそれまで思い描いたものとまるきり違うふうになる、あの瞬間のことを。
「最初は、わけが分からなかった。怪我のあとしばらく寝込んで、起きたら変な幽霊が憑いてるし、単位は落としてるし。……わたし、奨学生だったんだ。頑張って働いて、いろいろなお金を返したころにはもう、大学辞めることになっちゃってて……」
 橙色の光がたくさんの波のかたちに反射して、きらきら眩しい。車やひとは、家路に向かっている。
「流れるように行き着いたのが、旧体制のころの、この組織だった」
 わたしが立ち止まると、一歩先でブチャラティも立ち止まった。彼はゆっくり、こちらを向く。わたしは彼の顔が見られない。
「いまに不満があるわけじゃあないの。いまは食べていけるし、住む場所もあるし、こうやって遊びに出かけることもできる。でも……ときどきふとね、自分がどうしてここに来てしまったのかがわからなくなる。子どもだったころの自分が思っていた未来と、実際のいまが、けっこう違うなってことに、びっくりしちゃうの」
 贅沢な悩みなんだけどね、と、いつまでもくすぶっているばかりの自分の思いを自分で笑う。もしもあのとき怪我をしなければ。もしもあのとき手伝いなんてしなければ。もしも、もしもと、回想のなかでいまの自分と違う可能性を探すことをやめられない。
「……ナマエ」
 ブチャラティとわたしのあいだが縮まる。ずっと静かにわたしの話を聞いていた彼は、わたしの名をひとつ呼ぶ。その声は優しい。
「オレは、自分を恥じている」
 彼の両手で、わたしの両手が包まれた。彼の額が近づいてきて、こつん、とわたしのそれと合わさった。内緒話をするときみたいに、声が小さくても彼の声はよく聞こえてくる。どうして、とは訊かずに、わたしは言葉の続きを待った。
「オレは、きみのことを何も知らないんだ……きみはオレのことを、たくさん知ってくれているのに」
「ううん、わたしが言ってこなかっただけだよ」
 わたしはそう言ったけれど、ブチャラティは小さく首を横に振った。
「それなのに、オレはさっき、きみが昔の友達と会ったとき……嫉妬したんだ。オレの知らないきみを知っているひとがいるんだということに。オレのいない、きみの昔に。きみの気持ちを知らずに、きみがここにいてくれることを、当たり前だと思っていた」
 伏せていたまぶたを上げると、ブチャラティと目が合った。夕暮れの最後の光に縁取られたまつげ。彼のまっすぐな細い髪が、わたしの頬をくすぐる。
 彼のまなざしは優しい。目を合わせて数秒、わたしたちはそれぞれに、これまでのことを思う。そしてこれからのことを、考える。
「ナマエ、よかったらこれからも……きみのことを、聞かせてほしい」
「うん」
「……できればずっと、ここにいてほしい」
「うん」
「オレと一緒にいてほしい」
「うん」
 鼻先が触れて、それから唇が合わさる。それは少しだけ湿っていて、かすかに潮の味がした。これが、彼の唇の感触。これが、わたしだけが知っている、彼についてのこと。 
「ブチャラティ、あなたでも……嫉妬、するんだね」
「……するんだな。……自分でも、珍しいと思った」
 わたしたちはまた笑い合う。彼の指がわたしの髪に通る。その手が頬まで下りてきて、添えられる。そうしてわたしたちはまた、キスをした。
 
 閉じたまぶたの向こうで、ゆっくりと、陽が沈んでいく。

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