4話
がちゃっ、と回されたドアノブ。錆びかかった丁番がギイッと音を立てる。
「……これは……」
『凄い数の本……』
開いた扉の向こうに見えたのは、本、本、本、本。とにかく沢山の本たちだ。天井まで伸びる背の高い本棚。そこにビッシリと敷き詰められている蔵書の数に全員が目を丸くする。
「とりあえず入ってみっか、」と真っ先に部屋の中へ入ろうとした岩泉くん。しかし、岩泉くんが部屋の中に足を踏み入れようとした直後、ごんっ!と物凄い音がして、「いっっって!!!!!」と声を上げた岩泉くんが、突然顔を押えてその場に座り込んだ。
「え??ちょ、い、岩ちゃん??どうしたのさ????」
「っんなの俺が聞きてえよ!」
慌てて及川くんが声をかけると、顔を上げた岩泉くんの額や鼻先は真っ赤になっている。さっきの音といい、まるで何かにぶつけたみたいだ。「だ、大丈夫?」と声をかければ、「おー……」と答えた岩泉くんが鼻を抑えながら立ち上がると、ふむ、と何かを察したように今度は北くんが前に出た。
「………“何か”あるな」
「?何かって??」
「…………見えない壁、みたいなもんやろか」
何もない場所に伸ばされた北くんの手が、ぺたりと“何か”に阻まれたように動かなくなる。「見えない壁て、」「ホンマですの?」と宮兄弟が疑うように眉根を寄せると、「疑うんなら、中に入ってみたらどうや?」と北くんが二人の背中を押そうとする。ハッと先程の岩泉くんの姿を思い出したらしい二人は、いやいやいや!!と慌てて首を振ってみせると、扉から逃げるように素早く後ろへ後退った。
「見えない壁があるというが、壊すことは出来ないのか?」
「どうやろな。けど、見えないもんを壊すんは、見えてるもん壊すんより難しいと思うで」
北くんに倣うように、部屋に入ることを阻む透明な壁に手を伸ばした牛島くん。ガラスとは違う。何もない空間に存在する“見えない壁”。もっと驚いてもいいように思えるけれど、部室から突然こんな場所に移動した事を考えれば、いちいちこんなことに動じては居られないのかもしれない。
牛島くんが透明な壁をノックすると、コンコン、と何もない空間から響いた音。明らかに硬質なものを叩いた時にするその音に、分かりやすく顔を顰めた天童くんが指で壁を啄こうとした。すると。
「……あれ??」
「?どうしたんですか??」
「俺、普通に中に手え突っ込めちゃうんだけど?」
「なに?」
見えない壁に触れようとした手は、何にも阻まれる事なく部屋の中へ。同じように五色くんが部屋へと手を伸ばそうとしたけれど、コツンという音がしてやはり中に入れることは出来ない。どうして天童くんだけ??
目を丸くして驚く私たちを他所に、「入ってみよっか」と躊躇なく部屋の中へ足を踏み入れた天童くん。岩泉くんとはちがい、すんなりと中へと入れた天童くんに、何かを察した孤爪くんが控えめな声を上げた。
「……カードだ」
『え??』
「多分、持ってるカードが関係してるんだと思う」
孤爪くんの声に、ああ!と納得した様子でジャージのポケットからカードを取り出した天童くん。天童くんが持っていたカードは“クラブの5”。つまり、この扉に掘られていたマークと同じマークのカードである。
「そういうことなら…」と天童くんに続いて部屋へ入った松川くん。どうやら彼もクラブのカードを持っていたようですんなりと中に入ることが出来た。
「あとクラブのカードを持ってんのは……」
「俺です」
「……俺も、です」
木葉くんの声に揃って手を挙げた白布くんと国見くん。
どうやらクラブのカードを持っていたのは四人だけだったようだ。二人が中へ入った事を見届けると、ふと何かに気づいた様子で、及川くんの視線がこちらへ。
「苗字さんはどうなるのかな?」
『っえ?』
「……あ、そっか。苗字さんが持ってるのってジョーカーだったっけ」
菅原くんの指摘にその場にいた皆の視線が集まってくる。
ジョーカー。
トランプの中で唯一数字もマークも持たない異質なカード。まるでこの場にいる私自身を指しているようだ。ブレザー越しにポケットに入っているカードに触れると、チラリと伺うような視線を向けてきた孤爪くん。どうやら彼も気になっていることらしい。
視線を集めたまま部屋の入口へと移動する。恐る恐る伸ばした指先は、見えない壁に阻まれることなく部屋の中へ。
『入れるみたい、』
「ジョーカーは、“何にでもなれる”カードだしね」
『……ちなみにさ、天童くんたちは今からこの部屋を調べるんだよね?』
「そうなるねえ」
部屋の入口から室内の様子をもう一度確認する。
高い戸棚と沢山の本。学校の図書室なんて比べ物にならないほど大きな書庫には、今日よく見る室内証明はなく、部屋を照らすのはいくつかのガラスランタンのみ。これを四人で調べるには、手間も時間も掛かる筈だ。
伸ばしていた手を引っ込め、代わりに足を一歩前へ。「おい苗字、」と引き止めるような夜久の声に、部屋の中に進めた身体でくるりと振り向いて笑ってみせた。
『人手はあった方がいいでしょうよ』
「そりゃそうだが……」
心配そうな視線を向けてくる黒尾と夜久。そんな二人を安心させるためか、「部屋の扉は開けたままにしておきましょう」と言う赤葦くん。それもそうだ、と開けたまま放っておいていた扉を、木兎くんが押さえようとしたその時、
バタンッ
「は?」
「え、」
「あら?」
「はあ?」
『…………え??』
随分と大きな音をたてて閉まった扉。扉の向こうに見えていたみんなの顔が一瞬で見えなくなる。慌てて扉を開けようとしたのだけれど、本来あるべき筈の物がないことに気づいて動かそうとした腕の動きが止まってしまう。
『……ど、ドアノブが、ない、』
「マジか」
悲愴な顔で振り返った私に、松川くんの顔が引き攣る。ドアノブがなければ、こちらからは扉を開けることは出来ない。となると、向こうにいる皆が戸を開けてくれるのを待つしかないのだけれど、閉まった扉が開く気配はなく、扉越しに声すらも届いてこない。
「……これ、閉じ込められたんじゃ……」
「だろうな」
国見くんの呟きにため息混じりに答えた白布くん。「及川!岩泉!!花巻!!」と松川くんがドンドン戸を叩きながらチームメイト達の名前を呼んでみたけれど、やはり声が返ってくる気配はない。「どうするー?」と間延びした声を零しながら、頭の後ろで手を組んだ天童くん。あまりに呑気な様子にため息を漏らしそうになった時、「案外出れるかもしれないよ」と扉の前に立っていた松川くんの声に、え、と全員の視線がそちらへ。
『え、ほんと?』
「確証は全くねえけど……でも、これは流石に意味深過ぎね?」
「これ?」
ん、と松川くんが指し示したのは、扉に刻まれた何かの文字とその下にある四角く掘られた小さな枠。枠は全部で10箇所あり、枠の中にはクラブのマークと1から10の数字が描かれている。確かにこれは意味深すぎる。
「何なのこれ?」と首を傾げた天童くんが人差し指で掘られた文字をなぞる。「なんて書いてあるんですか?」と言う白布くんの問いかけに、松川くんがゆっくりと唇を動かした。
「“我らは農民。服従を強いる力には、棍棒を持って立ち上がれ”」
「………………なんて?」
きょとりと目を丸くさせた天童君。そう言いたくなる気持ちはよく分かる。農民ってなんだ。服従を強いる力ってなんだ。棍棒ってなんだ。とにかく突っ込みたい事が多すぎる。
「さあね。俺は書いてあんのを読んだだけよ」と肩を竦めた松川くん。そんな二人のやり取りを横目に扉に歩み寄った白布くんは、四角い枠をなぞる様に扉に触れてみせた。
「……この枠、カードの大きさと似てませんか?」
「…………言われてみると…………」
白布くんの指摘に国見くんがポケットから出したカードを枠に嵌めようする。カチリと嵌め込むような音がして一度は見事枠に収まってみせたカード。けれど直ぐ、何かに押し出されたようにカードは床へ。
「ありゃ。落ちちゃった」
「サイズ感は丁度いいみたいですけど……」
ふむ、と顎に手を添えた白布くん。その隣で国見くんが拾ったカードは“クラブのキング”。キングは数字にすると13。先程国見くんがカードを嵌めようとした枠に描かれていたのはクラブのマークと10の文字。あ、もしかして。
『数字が違うからダメだったんじゃない?』
「数字?」
『ほら、この枠の中、数字が書かれてるでしょ?』
「あ、ホントだねえ」
「つーことは、数字があってりゃ嵌るのか?」
取り出したカード、“クラブの2”を扉の枠に嵌めた松川くん。今度は押し出されることはなく、カードはそのまま収まったままだ。どうやら、予想は当たりだったらしい。
続いて天童くんが5の枠に、白布くんが10の枠にカードを入れていく。どちらのカードもカチリという音ともに綺麗に枠に収まった。
「……で??これ全部埋めたらなんか起こるの??」
「分かりません。けど、これだけ怪しげな物見せつけておいて、何もないなんてこと流石にないんじゃないですか?」
「……でも、残りの枠はどうしますか?」
げんなりとした白布くんの言葉に国見くんが眉を下げる。残りの枠は全部で7つ。私の持っている“ジョーカー”を入れたとしても残りは6つ。どう足掻いても手持ちのカードで埋めることは出来ない。
どうしたものかと全員で扉を見つめていると、徐に部屋を見回し始めた白布くんに、「どったの?」と天童くんが声を掛けた。
「さっきあの部屋を探した時、カードは一枚も出てこなかった。なら、残りのカードが何処かにあるとすれば、」
「……この部屋か……」
白布くんに倣うように、ぐるりと見回した仄明るい部屋。1から10までのカードを見つければこの部屋から出られるとして、残りのカードがこの部屋にあるのは有難い。そう、有難いはずなのに、何せこの内観である。本、本、本、本。兎に角本だらけ。高すぎる本棚のせいか、ご丁寧に同じような高さの梯子までもが用意されている。4、5階建てのビルと同じかそれ以上の高さがある本棚を、見るからに普通の梯子で登れなんて心許ないにも程があり過ぎる。
さあっと顔色を悪くする私を他所に、「面白そうだし、俺が上見てくるねー」と早速梯子へと向かった天童くん。この部屋にも躊躇なく入っていたし、彼には怖いという感覚はないのだろうか。「俺たちも探してみるか」と言う松川くんの声に、頷き返した国見くんと白布くんも各々散ってカード探しへ。私も探そうと近くの本棚へ向かえば、すぐ隣の棚へ松川くんがやって来た。
「この中からカード探すなんて、骨が折れそうね」
『そうだね……』
はは、と乾いた笑みを返しつつ、本棚の本を一冊手に取ってみる。タイトルのない古い背表紙。厚い見た目同様にかなり重たい。
「今頃、音駒の人らは大騒ぎかもな」
『それを言うなら青城や白鳥沢の人達もじゃない?』
「あー……まあ、うちや白鳥沢の連中も焦っちゃいるだろうけど、黒尾たち程じゃねえんじゃね?むしろ、岩泉なんかは俺らより苗字の心配してそうだな」
『……あー……』
なるほど、そういう。
この場にいるのはスポーツマンである男子高校生四人と何の部活にも所属していない帰宅部女子高生が一人。もし今ここで何かが起きたとすれば、反応が遅いのは間違いなく私だ。そして恐らく、松川くんが隣の棚へ来たのもそれが理由だ。他校とは言え、こんな場所で女子を一人にさせる訳には行かないという配慮なのだろう。後輩の国見くんも心配だろうに、なんとも優しい人である。
「ありがとね、松川くん」と突然お礼を口にした私に、ぱちりと瞬きを落とした松川くん。少し気恥しそうに頬をかいた彼は、苦笑いと共に口を動かした。
「……一応それとないつもりのフォローだったんだけど……」
『ああ、うん。凄くそれとなかったよ。女の子の扱いに慣れてるんだなって感じ。及川くんもそれっぽいけど』
「アイツに関しては間違いない」
「色々と残念なやつだけどな」と付け足して笑う松川くんに自分の頬が緩むのが分かる。緊張とか恐怖とか、そういうのを解そうとしてくれているのかもしれない。やはり女性の扱いに慣れた人である。
松川くんの気遣いに感謝しつつ、手に取っていた本をペラペラと捲ってみる。特に何も見当たらない本に小さく息を吐くと、閉じた本を立ち並ぶ本の間へ差し戻した。
『……早く出られるといいね。この部屋はもちろん、この場所から』
「……そうだな」
松川くんの頷きを確認して、再び本棚に向き直る。次の本を調べる為に伸ばした手は、さっきよりも随分と軽くなった気がした。