三年生秋(14)
園内を一通り見終え、正面ゲートに戻ってきたのはつい先程のこと。十年以上経って訪れた動物園はとても新鮮で、特にお昼後に向かったふれあいゾーンでは、うさぎやモルモットを撫でたり膝に乗せることができ、可愛らしさに相好を崩す私を、黒尾くんは微笑ましそうに見つめていた。
その後も園内の動物を見て回り、最後に寄ったのはゲート付近にあるお土産屋さんだった。久しぶりに来た記念として、キャップにフクロウが付いたボールペンを買おうとしていると、レジに向かう途中でボールペンはあっさり黒尾くんに奪われてしまい、結局そのボールペンは黒尾くんにプレゼントされてしまった。
「く、黒尾くんっ、ボールペンくらい自分で買うから!」「いいからいいから」「よくないよっ!チケット代も出して貰ったのに、」「彼氏面彼氏面」「そう言えば引き下がると思ってるでしょ!」
ボールペン代を払う払わない論争をしながら店から出ると、空はすっかり夕焼け色に変わっていて、頭上を仰いだ黒尾くんは、「日い暮れて来たな」と少し残念そうに口にした。もうそんな時間なのか、とスマホで時間を確認しようとした時、名前ちゃん、と呼ばれた名前にポケットに伸ばそうとした手を止める。
「……帰る前にさ、もう少し話したいんだけど……いい?」
伺うような問い掛けに、ぱちりと目を瞬かせる。夕日が顔を覗かせているとはいえ、暗くなるまではまだ時間がある。遅くなりそうなら親に連絡を入れれば怒られることもないし、断る理由はもちろん無い。「うん、少し話そっか、」と笑顔で頷き返せば、嬉しそうに目を細めた黒尾くんと一緒に園内の脇にある小さなベンチへ。
並んでベンチに腰掛けて、少し遠のいたゲートに目を向ける。ゲートには子供連れの家族が沢山集まっており、中には帰りたくない!と駄々を捏ねる子供もいる。私もあんな感じだったのかな、と目尻を下げていると、「どうかした?」と首を捻った黒尾くんに視線をゲートから彼へと戻す。
『帰りたくないって、泣いてる子がいるなあと思って、』
「ああ、あの子か。……まあ、動物園とか遊園地とかだと、よく見る光景だよな」
『確かにそうだね。私も小さい頃は泣いてたかもしれないし……あ、黒尾くんは?帰りたくないって泣いた覚えとかある??』
「泣いた覚えは流石にねえけど。……でもまあ、帰りたくないって思う気持ちは分からなくねえな。俺も今、そう思ってるとこだし、」
右手を掴む大きな左手に力が籠る。繋いだ手から伝わる熱に、忘れていた緊張が戻って来てしまう。気恥ずかしさに視線を泳がせ始めると、くすりと笑った黒尾くんは愛おしさを詰め込んだみたいに瞳を和らげた。
「……一個聞いていい?」
『っ、え、あ、な、なに??』
「今日、どうだった?楽しかった?」
微笑みながら投げ掛けられた問い掛けは、少しだけ、ほんの少しだけ、緊張を含んでいるように聞こえる。彷徨わせていた視線を黒尾くんの瞳と重ねると、じっ、と答えを待つ黒尾くんに、柔らかな笑みで応えてみせた。
『うん、すごく楽しかった』
「っ、」
『動物園が久しぶりだったって言うのも、もちろんあると思うけど……見て回ってる間も、移動中も、黒尾くんが色んな話を振ってくれるから、時間が経つのがあっという間だった。あっという間に感じるくらい、ちゃんと楽しかった』
「誘ってくれてありがとう、黒尾くん」と気持ちをそのまま笑顔にすれば、丸くなっていた黒尾くんの瞳が徐々に優しく細まっていく。柔らかい笑顔と視線に、また目線がさ迷いそうになった時、「じゃあ、提案な」と零された声に、提案?と小首を傾げた。
「ちょっと先の話になるけど……クリスマス、俺とデートしようよ」
『……クリスマスって……まだ二ヶ月以上先、だよね?』
「そう。練習もあるだろうから、当日かイブ、どっちで会えるかは分かんねえけど………とりあえず、二ヶ月先の名前ちゃんを予約させて欲しいなって」
「だめ?」と顔を覗き込むみたいに首を傾げてみせた黒尾くん。だめ、とはっきり断る理由はない。二ヶ月先の予定なんて埋めている筈もないし、さっきも言った通り、黒尾くんとの“デート”は間違いなく楽しかった。でも。
『……だめ、ではないけど……。……その……もし、二ヶ月経って黒尾くんが、やっぱり他の子を誘いたいって思った時、私と約束してたら困るんじゃ、
「ないよ」
『っ、』
「それはない。絶対にない。たった二ヶ月で変わるほど、名前ちゃんへの気持ちは軽くねえから。……そんな、安い気持ちじゃねえから、」
返された言葉に唇を引き結ぶ。
いま、私、すごく失礼なことを言ってしまった。初めて気持ちを伝えてくれてから今日まで、黒尾くんはいつも、いつも私に惜しみなく好意を伝えてくれた。向けられる気持ちの大きさに戸惑うこともあったけれど、でもそれは、それだけ黒尾くんが、揺らぎのない想いを伝えてくれていたから。だからこそ私も、黒尾くんの気持ちにちゃんと答えを出したいと思った。黒尾くんの真摯な想いに向き合いたいと思った。なのに今、私は、
黒尾くんの気持ちを疑う言葉を口にしてしまった。
「名前ちゃんが嫌なら断っていいからね」と笑って付け加えた黒尾くん。繋いだままだった右手を解き離そうとする彼に、慌ててその手を両手で引き止めた。
『ちがうよっ!!』
「っ、へ??」
『ち、ちがうから!ちがうからね黒尾くん……!私ちゃんと分かってるよ!黒尾くんの気持ちが本気だって、もう十分知ってるよ……!』
「いや、あの、」
『黒尾くんの気持ちを疑うなんて、もうこれっぽっちもしてないからね!ちゃんと、ちゃんと分かってるっ……!でもっ、あのっ、さっきのは、そのっ……わ、私が、自分に自信がないだけって言うか、好きでいて貰える理由もないというか……!だから、』
どうしよう。ちゃんと伝えられてるかな。勢いに任せて口を開いたせいで、気持ちが言葉に出来ているかよく分からない。紡ぐ言葉に不安が増し、矢継ぎ早に動かしていた唇が止まる。えっと、その、といい淀み始めた私の耳に、ふっ、と届いた小さな笑い声。はた、と瞬かせた瞳を隣へ移すと、口元に手の甲を押し当てた黒尾くんは、嬉しそうに、楽しそうに、満面の笑顔で肩を震わせていた。
『えっと……あの、黒尾くん……?』
「っ、ふっ、っ、ごめんごめん、名前ちゃんがあまりに必死に否定するから、可愛いやら嬉しいやらで、なんかつい笑っちまって、」
『かっ……!っ、も、もう!黒尾くん!!私、真面目に言ってるんだよ!』
「っ、いや、それはマジ、十二分に伝わった。名前ちゃんが、俺がどんだけ名前ちゃんのこと好きなのか、ちゃんと分かってくれてんだなって、めちゃくちゃ伝わった」
そう言って、目尻に浮かぶ涙を指の甲で拭った黒尾くん。
伝わったのは良かったけれど、もしかして私、すごく恥ずかしいことを口にしていたのでは。黒尾くん本人に向かって、あなたが私を好きなことを分かってますよって、わざわざ伝えただけなのでは。
気づいた途端に込み上げてきた羞恥心。黒尾くんの手を掴んでいた両手を、ぱっ!と放すと、赤くなった頬を隠すように顔を下へ向け逸らす。
名前ちゃん?と熱の籠る耳に届いた黒尾くんの声。優しく穏やかなその声に恐る恐る顔を上げる。動かした視線の先には、とても柔らかな笑みを浮かべる黒尾くんが居て、愛おしさと甘さの込もった視線に、また顔が熱くなった気がした。
「……もし、今ここが誰もいない屋上とかだったら、多分俺、名前ちゃんのこと抱き締めてたかもしんない」
『っ、へ!?!?だ、だきっ……!?』
「例えね例え。……そのくらい、さっきの台詞は嬉しかった。名前ちゃんが本気で、俺の気持ちに向き合おうとしてくれてるんだなって伝わって来た」
「やっぱ俺、すげえ見る目あるわ」と破顔した黒尾くん。眩い笑顔と真っ直ぐな言葉に、今度こそ顔から火が出そうだ。真っ赤な顔で固まる私を横に、再び空を見上げた黒尾くんは、「そろそろ帰るか、」と酷く名残惜しそうに呟き零す。緩慢に立ち上がった黒尾くんに、慌てて自分も席を立つ。すると、ん、と差し出された大きな右手に、見開いた瞳でその手と黒尾くんの顔を交互に見やった。
「……家に帰るまでがデートって、先生に習ったっしょ?」
『……ふふっ。そうなの?初めて聞いたけど、』
「あれ?ほんとに??っかしいなあ、義務教育で習う筈なんだけどなー」
態とらしく首を捻る姿に、くすくすと溢れる小さな笑顔。笑う私に満足そうに目を細めた黒尾くんは、「行こっか」と口元に当てていた右手を拐って、そのままゲートへ歩き始めた。
ゲートから出ると、真っ直ぐバス停へ向かった私たち。
目当てのバスが来るまで一緒に待っていてくれた黒尾くんは、バスが来るまでずっと、手を離さないでいた。漸くバスが来た時、酷く残念そうに吐かれたため息。黒尾くんの口から零されたそれに、思わず彼を見上げれば、眉を下げた黒尾くんはゆっくりと手を離して、緩く弧を描いた唇でそっと言葉を紡いだ。
「さっきの、考えててね」
『さっきのって……』
「クリスマス。気が早いのは百も承知ですけども、………特別な日に、特別な子と出掛ける約束をするのは、早いに越したことはねえかなって」
「返事、待ってるね」と言われたのと同時に、目の前に停車したお目当てのバス。後ろ髪を引かれながらも慌ててバスに乗り込むと、手を振る黒尾くんに見送られつつ、再びバスに揺られることに。見えなくなった黒尾くんの姿に、小さく振り返していた手をゆっくりと下ろす。
車内に流れる広告を頭上に、安堵と困惑のため息を吐き出した。
『……クリスマス、どうしよう……』
一難去ってまた一難。独り言ちた呟きは車内の揺れに掻き消されるように消えてしまった。