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三年生夏(13)

「あ!いた!!黒尾さん見っけ!!!!」


張り上げられた声に二人揃って足を止める。
りんご飴とたこ焼きを食べ終えたのち、また屋台に囲まれた大通りに戻ってきた私たち。指を絡めた繋ぎ方から、黒尾くんが一方的に右手を掴む形へと変えて二人並んで歩いていると、後ろから聞こえてきた灰羽くんの大きな声。振り向くと灰羽くん以外の音駒バレー部の皆も揃っていて、どうやら漸く合流出来たらしい。
人混みの中でも目立つ灰羽くんの姿に、酷く残念そうにため息を吐いた黒尾くん。右手を離した黒尾くんは、灰羽くんを先頭に歩み寄ってくる仲間たちの元へ向かっていく。
「めちゃくちゃ探したんすよ!」「わりーわりー」「お前、スマホちゃんと見たのかよ?」「……なんのことだ?」「すぐ戻るって連絡しといただろ!」
目くじらを立てて怒る夜久くんに「あー、見てなかったわ」と惚けたように答えた黒尾くん。嘘つけ!と声を張りあげて夜久くんは、心底呆れたように大きな大きなため息をついた。


「どうせ苗字さんと二人になりたくて、メッセージ読んでねえフリして連れ出したんだろ?」

「…………さあ?なんのことだか??」


わざとらしく肩を竦めた黒尾くんに、夜久くんが拳を震わせる。夜久くんの話が本当なら、最初にスマホを確認した時、本当は黒尾くんは夜久くんからのメッセージを呼んでいたということだ。策士だなあ、と呆れを通り越して感心していると、まあまあと夜久くんを宥めた海くんが仕方ないとばかりに口を開いた。


「黒尾の気持ちも分からなくないし、黙っていなくなった俺達も悪いだろ」

「黙ってじゃねえだろ。連絡入れてたんだから」

「へいへい。どうもすみませんでした」

「謝る気ねえだろ、お前」


薄目で睨んでくる夜久くんに、逃げるように顔を逸らした黒尾くん。こういうやり取りも気心知れた仲ならではなのだろう。微笑ましさに目尻を下げていると、「あ!!音駒!!」と今度は前方から聞こえてきた叫び声。あれ、この声って。


「げっ!!木兎…………!!」

「俺達もいるよー」

「お前らも来てたんだなー!!!何食った??俺は焼きそばとたこ焼きとはしまきとかき氷とイカ焼きとわたあめ食ったとこ!!」

「腹壊すぞ」


音駒バレー部に負けず劣らず目立つ集団が歩み寄ってくる。見慣れた顔ぶれの登場に目を見開いていると、音駒の皆に囲まれていた私に気づいた木兎が、あれ?と心底不思議そうにぱちぱちと数回瞬きをした。


「苗字じゃん!!」

「「「「「え??」」」」」

『あ、あはは……。こ、こんばんは、みんな、』


呼ばれた名前に黒尾くんたちの後ろからそうっと顔を出す。「名前!?」「え、なんで苗字が音駒のヤツらと……?」「トモと行くんじゃなかったの??」と詰め寄ってきたかおり達に少したじろぐ。実は、と黒尾くん達と一緒にいる経緯を話すと、話を聞いたかおりと雪絵がマジ!?と喜色ばんだ声を上げた。


「てことは今頃とトモと吉田は……!きゃー!!!」

「トモもついにリア充か〜。絶対からかってやろ」

「その前に一から十まで話聞かせて貰わないと」

「それだわ」


むふふ、と企むように笑うかおりと雪絵。揶揄うような言葉の裏には確かな優しさが感じられる。二人とも凄く嬉しそうだ。トモちゃんの恋が上手く行くことを相当喜んでいるのだろう。二人と目を合わせて笑いあっていると、そんな二人の後ろに見えた梟谷バレー部の姿。すると、慣れ親しんだメンバーの中に居るはずの人が居ないことに気づいて、あれ、と目を丸くさせた私に猿杙が不思議そうに首を傾げた。


「?どうかした?」

『あのさ、木葉は?来てないの??』

「ああ、」

「アイツは部活終わった後、真っ直ぐ家に帰ったよ。家族揃って飯食う予定があるんだと」

『そうなんだ、』


猿杙と小見くんから木葉の不在を聞き、改めてメンバーを確認する。かおり、雪絵、木兎、猿杙、小見くん、鷲尾くん、赤葦くんの七人。この中に木葉がいないって、なんだか少し違和感がある。特に意味もなく視線を地面に向けると、「へえー木葉の奴いねえんだー」と心底嬉しそうな声が。


「そりゃ残念だなあ!」

「……微塵もそう思ってないでしょ、黒尾くん」

「思ってる思ってる。名前ちゃんのこんな可愛い姿見れないなんて可哀想だなあって」

「それはある意味否定出来ない」


うんうん頷くかおり達に、え、と小さく声を漏らす。
「木葉は何とも思わないと思うよ?」ときょんとした顔で口にすると、微妙な顔をした猿杙が苦笑いで答えた。


「……や、でも、今日の苗字は凄く可愛いよ」

「確かに!浴衣すげえ似合ってる!」

「お化粧もしてるでしょ?浴衣と雰囲気バッチし合ってる!」

「髪も綺麗に結ってるし、ほんと可愛いよ名前」

『え、あ、いや、あの……………あ、ありがとうございます……』

「なんで敬語??」


猿杙、小見くん、かおり、雪絵からの褒め殺し攻撃に肩を縮める。「うまこにも衣装ってやつだ!!」とグーサインを向けてきた木兎は、かおりと雪絵に頭を叩かれていた。
「それ褒め言葉じゃないからね!」「え??そうなの??」「て言うか、“うまこ”じゃなくて、馬子にも衣装だし!」「言葉の意味と使い所を学べアホ!」「ス、スミマセン……」
マネージャー二人の叱責に肩を落とした木兎。何もそんなに怒らなくても。眉を下げて三人のやり取りを見守っていると、「お前らこれからどうすんだ?」と夜久くんが赤葦くんに話を振る。


「一応花火まで見て帰る予定です。木兎さんがうるさいので」

「お。それなら、監督が教えてくれた穴場で一緒に見ねえ?」

「……いいんですか?」

「もち。賑やかな方が楽しいしよ」


なあ?と仲間たちを振り返った夜久くんに、海くん達が笑って頷き返す。有難い申し出に「それじゃあお邪魔させてもらおうか」と猿杙が応えると、早速全員で穴場の花火スポットまで移動することに。
かおりと雪絵に挟まれて最後尾を歩き出す。ぞろぞろと歩くジャージの集団に唯一紛れた浴衣の自分が、何だかやけに浮いて感じる。遅れないように下駄を履いた足をせかせか動かしていると、あ!と雪絵が声を上げ、一つの屋台を指し示した。


「アメリカンドッグあるー!!!私買ってくるね!」

「あ!ちょっと雪絵!!……もう!ほんと食べ物の事になると目がないんだから……!」

『雪絵らしいけどね』

「ごめん名前。ちょっと雪絵捕まえてくるから、先に行ってるようにアイツらに伝えて!」

『分かった。気をつけてね』


雪絵を追い掛けて行ってしまったかおりを見送る。今のやり取りで少し離れたジャージの集団に追い付こうとした時、かつん、と下駄先に何かがぶつかって身体が前のめりに。わっ、と驚きながらも何とか転けずに済んだ足。けれど、持っていた水風船を落としてしまい、きょろきょろと目線を動かして探し始める。
行き交う人々の足の間に見えた白い水風船。見つけた事に安堵してそれを取りに行くと、ぐしゃっ!と勢いよく風船の上に踏み込まれた足。伸ばそうとした手を止めて目を見開くと、水風船を踏んだ男性がうお!?と驚きの声を上げた。


「つめたっ!」

『あ、す、すみませんっ!それ、私が落としたもので……』

「え??………あー、いいよいいよ。俺こそ踏んじゃってごめんね」

『い、いえ、』


踏まれてぺしゃんこになってしまった水風船に手を伸ばす。折角黒尾くんが取ってくれた物なのに、悪いことしちゃったな。後で謝ろうと決め、割れた水風船を手に取る。カゴ巾着から取り出したハンカチでそれを包むと、「あのさ、」と水風船を踏んだ男性に声を掛けられた。


「悪いことしちゃったし、何か奢らせてくれない?」

『え?』

「てか、お姉さん一人なの??友達と来てたりする?」

『と、友達と来てますが、』

「それって女の子?もしよければ俺の友達と一緒に花火を、




「すみません。この人俺の連れなんです」




『え……』


優しく肩に置かれた手。見上げた先には赤葦くんの姿が。見開いた目で赤葦くんを見つめていると、「んだよ、男連れかよ」とつまらなそうに吐き捨てた男性はさっさと歩いて行ってしまう。
今のってもしかして。俗に言う、ナンパというやつだったのだろうか。居なくなった男性にちょっとだけ安心する。そんな私に、「急に居なくなったので驚きましたよ」と眉を下げた赤葦くん。「ご、ごめんね、」と慌てて謝ると、持っていたハンカチを巾着の中へと仕舞いこんだ。


『ちょっと落し物しちゃって、』

「落し物?何を落とされたんですか?」

『あ、もういいの。ちゃんと見つけたから、』

「そうですか?それならいいんですが、」


心配そうに眉を下げた赤葦くんに頷いて返す。
「みんな探してると思うので連絡しますね」と赤葦くんがポケットからスマホを取り出した時、「あ!おーい!赤葦ー!!」と夜久くんの声がして視線をそちらへ。夜久くんの後ろには黒尾くんと海くんの姿もあって、赤葦くんと一緒にいる私に気づいた夜久くんは安心したようにほっとため息をついた。


「よかった!苗字さん見つかったんだな!」

「赤葦に先越されたな、黒尾」

「……うっせえなあ、見りゃ分かるよ、」


海くんの声に拗ねたように私たちから目線を逸らした黒尾くん。二人のやり取りに首を捻る赤葦くんの鈍さに感謝する。
「他のみんなにも連絡しようか」と海くんもスマホを手に取ると、はい、と頷いた赤葦くんが自分のスマホに触れようとしたその時、



「…………京治くん…………?」



祭りの喧騒をすり抜けるように届いた可愛らしい声。スマホに向けられていた瞳が躊躇なく声の相手へ移される。
間違いない、叶絵ちゃんだ。彼女もこの祭りに来てたのか。
薄桃色の浴衣に身を包んだ叶絵ちゃん。そんな彼女は一緒にいる私に気づくと、気まずそうに目を伏せてしまう。叶絵、と赤葦くんが彼女に近づこうとした時、「おーい!仁科ー!」と彼の動きを遮るように叶絵ちゃんを呼んだ声。声の相手は赤葦くんと同い年くらいの男の子で、駆け寄ったきたその子に叶絵ちゃんは少し戸惑った様子で瞳を揺らした。


「何はぐれてんだよ。心配するだろ?」

「あ…………ご、ごめんね。…………友達を、見つけて、」

「友達??」


叶絵ちゃんの答えに男の子の視線が赤葦くんに向けられる。「……どうも、」と小さく会釈をした赤葦くんに、「あ、どうもっす!」と明るく答えた男の子はまた直ぐ叶絵ちゃんに向き合って、彼女の細い腕を掴んでみせた。


「友達への挨拶は済んだんだろ??だったら早く行こうぜ!花火見るのにいい場所取られちまう!」

「あ…………」


少し強引に手を引かれて歩き出そうとする叶絵ちゃん。何か言いたげに一瞬赤葦くんを見た彼女だったけれど、結局何も言うことなく、迎えに来た男の子と一緒に人混みの中に紛れてしまう。
「今の子誰だ?」「……赤葦の知り合いだろ」「ふーん。可愛い子だったな」と夜久くんと黒尾くんが話す声を後ろに、再びスマホに視線を落とした赤葦くん。何事もなかったかのように指を動かす彼に、胸がひどく苦しくなった。


「木兎さん達には俺が連絡するので、灰羽たちへの連絡はお願いします」

「ああ、了解」


指先をスマホの画面に走らせる赤葦くんの姿に、きゅっと唇を引き結ぶ。どうして、どうしてそんな風に振る舞うのだろう。何も見なかったような顔をするのだろう。
男の子と二人で行ってしまった叶絵ちゃん。そんな彼女のことを赤葦くんが気にならない筈がない。だって彼は、


叶絵ちゃんが好きなのだから。


「……雀田さん達も合流できたみたいなので、俺達も、『……いいの?』っ、」

『赤葦くん、いいの?このまま……このまま叶絵ちゃんのこと追い掛けなくて、本当にいいの……?』


スマホの画面に触れていた指先の動きが止まる。驚いた顔を見せる音駒の三人を他所に、赤葦くんの前まで歩み寄ると、スマホから顔をあげようとしない赤葦くんは、「…いいんです、」と自嘲するように笑って何処か悲しげに目を伏せた。


「……俺と叶絵は、ただの“友達”で、追い掛ける権利なんて俺にはありませんから、」

『っ、でもっ……!さっきの叶絵ちゃん、何か言いたそうだった……!赤葦くんに聞いて欲しいことがあったんじゃない……!?』

「例えそうだとしても、俺が叶絵とさっきの彼の事を邪魔する理由にはなりません。……二人で祭りに来てるくらいです。叶絵にとって、特別な相手なのかもしれません。それを、ただの友達の俺が追い掛けて何になるって言うんすか……?自己満足な行動や言動は、叶絵の迷惑になるだけで、

『じゃあ、私が赤葦くんに告白したことも、ただの迷惑だった?』


俯き気味だった顔が勢いよく持ち上がる。「違いますっ……!」と慌てて口にした彼に、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべてみせた。


『うん、知ってる』

「っ、」

『赤葦くん、あの時言ってくれたよね。私に好きだって言われて嬉しいって。……叶絵ちゃんも、そうなんじゃないかな』


スマホを持つ手をゆっくりと下ろした赤葦くん。迷うようにゆらゆらと揺れる瞳と目を合わせると、自分でも驚くほど穏やかな表情が浮かんできて、迷いに揺れる赤葦くんの瞳がゆっくりと見開かれていった。


『誰かに向けられる“好き”って感情が、ただの迷惑にしかならないなんてきっとない。困らせたりすることはあるかもしれないけど……でも、自分を想ってくれた言葉や行動を、迷惑って言葉だけで突き放すことは出来ないと思う』

「苗字先輩……」

『赤葦くんには赤葦くんの事情があって、叶絵ちゃんを追い掛けられないのかもしれない。でも……赤葦くん、本当は追い掛けたいって思ってるんじゃないの?追い掛けて、叶絵ちゃんに聞きたいこと、聞いて欲しいことがあるんじゃないの……?』

「………どうして……分かるんですか?」

『分かるよ。だって、』


一つ落とした瞬き。瞼を持ち上げた瞬間、目の前の彼に真っ直ぐ言葉を向けた。





『だって私は、叶絵ちゃんを好きな赤葦くんを好きになったんだもん』





柔らかな微笑みと共に紡いだ言葉に、赤葦くんだけでなく夜久くん達までもが目を見開かせた。

赤葦くんを好きになった。叶絵ちゃんから貰った、好きな人から貰ったキーホルダーを大事にしている赤葦くんを、私は好きになった。優しく、柔らかく、愛おしさを詰め込んだみたいに笑う彼が好きだった。叶絵ちゃんを想う彼の笑顔に、私は、恋をした。
だから分かる。叶絵ちゃんの事を好きだという気持ちと、彼女の迷惑になりたくないと言う気持ちの間で揺れている赤葦くんの心が、私には分かる。

赤葦くんを好きになって変わることが出来た私がいる。変わる切っ掛けをくれた彼に、私も何かしてあげたい。大好きだった人のために、出来ることを、してあげたい。だから。


『こういう時は、勢いだよ、赤葦くん、』

「……勢い……?」

『自分の心に素直になって、勢いに身を任せちゃうの。そうすればきっと…………赤葦くんの想いも、叶絵ちゃんに届くよ』

「っ……」


迷うように揺れていた瞳が瞼に覆われる。ぎゅっと拳を握った赤葦くんは、次の瞬間、弾かれたように走り出した。
人混みを縫って走って行く彼の背中を見送る。この夏祭りは、誰かを見送ってばかりだ。頑張れ、と小さく呟いたエールは心からのものだ。何か言いたげに向けられる夜久くん達の視線。けれど、三人は何も問うことはせず、「みんなのとこ行こっか」と笑った私に、黙って頷き返してくれた。






            * * *






夏祭りの終わりを告げる放送が響く。帰ることを促すその声に、会場から大勢の人が遠のこうとしている。

音駒バレー部の監督さんが教えてくれたと言う穴場スポット。そこで見た打上花火はとても綺麗で、思わず何枚も写真を撮ってしまった。かおりや雪絵とも写真を撮って、俺も俺も!と入り込んで来た木兎の写真を撮ったりして。
そうこうしているうちに、最後の花火まで打ち上げられて、夏祭りは終わりの時間を迎えてしまう。楽しい時間と言うのはどうしてこう早く過ぎてしまうのだろう。
帰りの電車を確認する皆を横目に、花火の消えた暗い夜空を見上げる。あれから、赤葦くんが戻ってくることはなかった。黒尾くんたちの助けもあって上手く誤魔化すことが出来たけれど、赤葦くんは叶絵ちゃんに、ちゃんと気持ちを伝えられたのだろうか。
夜空を見上げたままの私に、名前?と雪絵が不思議そうに首を傾げてくる。はっ、として視線を皆の方へと向けると、「苗字も同じ駅だよね?」と確認するように猿杙が尋ねてきた。


『あ、ううん。私はバスで帰るから、』

「バス?珍しいね??」

『少し歩いた所にバス停があって、そこから乗ればうちの近くまで帰れるんだ』

「そっか。じゃあ、バス停まではうちらで送って、」



「悪い雀田。その役、俺に譲ってくんない?」



かおりの言葉に被せるように聞こえてきた声。え、と声を上げている間に当たり前のように掴まれた右手。掴んだ相手はもちろん黒尾くんで、そのまま間髪入れずに腕を引かれて歩き出してしまう。
「ちょ、ちょっと黒尾くん!!」「勝手に決めないでよー!!」と後ろから聞こえるかおりと雪絵の声が徐々に遠ざかって行く。会場の出口に向かう人の波。その中に紛れてしまうと、かおり達の声は完全に聞こえなくなってしまう。流石にこの中から皆の元へ戻るのは難しいだろう。
あまりにスムーズな動きに呆気に取られてしまう。何も言わずに隣を歩く黒尾くんをそうっと見上げると、視線に気づいていないのか、黒尾くんの瞳は前を向いたままだ。なんとなくいつもとは違う雰囲気を感じ取って、彼の隣を黙って歩き続ける。すると、会場の出口に着いたところで、黒尾くんが漸く口を動かしてくれた。


「バス停、どっち?」

『あ……え、えっと、あっち、』


駅に向かう人の流れとは逆向きに指した進行方向。頷いた黒尾くんは、再び黙って歩き出す。今度は横並びではなく、彼の斜め後ろをついて行くように歩いていると、進んで行くに連れて人の気配が少なくなっていく。どうやら私と同じバス停の利用者は少ないようだ。
街灯に照らされた暗い夜道を黒尾くんと二人で歩く。こんなに何も話さない黒尾くんは初めてだ。夜というのも相まって、流れる空気があまりに静かで、慣れない空気に少し居心地の悪さを感じていると、前を歩いていた黒尾くんが不意に足を止めた。


『……く、黒尾くん……?』


立ち止まった黒尾くん。釣られて自分も足を止める。何も言わない彼に不安を感じていると、ゆっくりと振り返った黒尾くんは、酷く困った様子で口を開いた。


「全然ダメだな、俺、」

『へ……?』

「良いとこみせて、名前ちゃんに好きになって貰わなきゃなんねえのに………俺の方が、惚れ直させられちまってる、」


どこか自嘲するようにそう言った黒尾くん。
惚れ直させられたって。そんな。一体どこに。
目を丸くして固まる私に一歩距離を詰めた黒尾くんは、愛おしむように和らいだ瞳で真っ直ぐ私を映し出した。



「好きだよ、名前ちゃん」



甘く優しい声で紡がれた愛の言葉。
これは告白なのだろうか。だとしたら返事をしないと。何か言わねばと開こうとした唇。けれどそれよりも早く、黒尾くんは付け足すように言葉を続けた。


「今のは、独り言な」


そう言って緩やかに笑った黒尾くんは、「行こっか」と離した手をもう一度掴んで暗い夜道を歩き出した。
独り言。それはつまり、返事をする必要はないという事なのだろう。まだ、返事を聞きたくないと、言うことなのだろう。
右手を掴む手はさっきよりも熱い。触れ合った手から感じる黒尾くんの緊張に、結局そのまま、バス停に着くまで何も言うことが出来なかった。
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