涙雨【完】 | ナノ
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捌拾漆

夜空に光る淡い月に目を細める。開けた障子を後ろ手に閉めると、少し冷たい縁側にゆっくりと腰掛けた。

人の世から戻って来たのは、つい先程のこと。

人の世と妖の世を行き来する為には、月口と呼ばれる出入口が開く必要がある。それが及川たちが知っている二つの世界の行き交い方。けれど、陰陽師である牛島くんは、いつでも好きなタイミングで通ることが出来る特別な道を確保していた。おかげで、あれ程焦がれていた人の世界にあっという間に戻ることが出来た。
けれど、今回の目的は大将さんや星海さん、侑さん達の説得であったため、訪れたのは東京、長野、兵庫の三県だった。目的を果たすとまた直ぐ妖の世界へ戻り、大将さん達と話した結果を牛島くんに報告することに。侑さん達九尾の一族には断られてしまったことを伝えると、「……そうか」と一言応えた牛島くんはどこか悲しげに目を伏せていた。いくら過去のこととは言え、牛島くんにも思うところがあるのかもしれない。
結界の修復に向け、準備があるからと何処かへ行ってしまった牛島くん。そんな彼と別れて直ぐ屋敷に戻った私は、「大丈夫だったか?」「怪我は??」「何もされてねえよな?」と心配する皆に出迎えられた。


けれどその中に、及川の姿はなかった。


牛島くん達の話によると、及川の妖気は既に安定しているため、いつ目覚めてもおかしくない状態らしい。けれど及川は未だに目を覚まさない。茂庭くんの話では、妖は大きな傷を負ったり、妖気が強く乱れたりすると、身体の調子を整えるために深い眠りにつくことがあるのだとか。「んな心配することじゃねえよ」「そうそう」「及川だしな」と岩泉達は笑っていたけれど、四人揃った姿が恋しいせいか。寝付きの悪さに、こうして外へ出てきてしまったのだ。
ホーホーと森から聞こえてきた何かの鳴き声。梟だろうか。この世界にも妖気を持たない動物がいると聞いているし。踏み石の上に置かれた下駄に足を入れる。からん、と音を立てて一歩踏み出した足。そのまま森の入り口に近づくと、柔らかく吹いた夜風に枝葉が揺れる。
風に吹かれて宙に舞った木の葉が地面に落ちて行く。風に揺れた髪を右手で撫で付けたとき、




「名前、」




夜風に乗って届いた耳に馴染む優しい声。体の動きが、止まる。枝葉を見つめていた瞳をゆっくり、ゆっくりと振り向かせると、そこには。


『おいかわ…………?』

「……おはよう、名前」


月明かりの下。
瞳に映った微笑みの柔らかさに息を飲む。

及川だ。及川が、いる。

地面を擦るように前へ出た足。吸い寄せられるみたいに、一歩、また一歩と前へ進んでいく。裸足のまま地面に降り立った及川に足が早くなる。おいかわ、と涙混じりの声で呼んだ名前に、応えるように伸びてきた及川の右手。優しく手首を掴んだその手に引き寄せられた体は、及川の腕に包み込まれた。


『よかったっ……目、覚めたんだね、おいかわっ……!』

「……心配かけてごめんね、名前、」

『っ、いいのっ……!謝らなくて、いいのっ……!』


流れた涙が及川の着物を濡らしていく。
謝らなくていい。謝らないで欲しい。謝らなければならないのは、むしろ私の方だ。及川は、私を庇ったせいで、一歩間違えば死ぬところだった。ごめんね、と伝えるために見上げた及川の顔。けれど、重なった視線の優しさに、謝罪の言葉が喉の奥で消える。
違う。そうじゃない。及川に伝えなくちゃいけないのは、“ごめんね”なんかじゃない。“ごめんね”なんて言われるために、及川は、みんなは私を助けてくれる訳じゃない。だから、伝えるべきは謝罪の言葉ではなくて、


『……ありがとう、』

「っ、え…………?」


『助けてくれてありがとう、及川』


溢れた微笑みに及川の目が小さく見開く。ごめんねじゃない。私が及川に伝えるべきは、謝罪ではなく感謝だ。
瞬きと同時に目尻から零れた涙。頬を伝った涙が顎先から滴りそうになった瞬間、再び抱き締められた身体。背中に回る逞しい腕に込められた力は、まるで距離が出来ることを厭っているようだ。


「お礼を言わなくちゃならないのは、俺の方だよ」

『そんなこと、「あるよ」

「名前がいなかったら、俺はここにいなかった。名前の声を聞くことも、顔を見ることも、こうして抱き締めることも出来なかった。……名前、」


力がこもる。
及川の手に、腕に、体に、声に、力がこもる。
けれど。


「……ありがとう」


耳元で囁かれた言葉は、あまりに優しく温かい。込み上げて来たものが涙となって頬を濡らす。零れても零れても止まる気配のない涙に、微かに聞こえた及川の吐息。柔らかな空気と共に零されたそれに、そっと顔を持ち上げると、困ったように笑った及川が両手で頬を包み込んだ。


「泣き過ぎだよ」

『だって、嬉しくて。及川と、及川とこんな風に話せることが、また皆で笑い合えることが、嬉しくて、涙が止まらないの、』


ぽろっ、と零れ落ちた涙粒が及川の手に落ちる。頬を包む手から伝わる熱の気持ちよさに瞼を閉じると、名前、と呼ばれた自分の名前。気のせいか、どこか甘さを孕んだその声に瞼を持ち上げる。
目が合った瞬間、愛おしそうに目を細めた及川。見たことがないくらい優しい微笑みに少し目を見開くと、頬を包む右手の親指が涙の跡を消すように目尻を撫でた。


その直後。


「元気そうで何よりじゃねえか」


屋敷の方から聞こえてきた声に、ぎくりと及川が肩を揺らす。振り向いた先には縁側に佇む岩泉、花巻、松川の姿があって、三人の姿を捕らえた途端、及川の手が頬から離れて行った。


「違うから!今回はほんっっっとに疚しいことはしてないから!!」

「弁解の仕方が最早怪し過ぎんだろ」

「それな」


両手を挙げて無実を証明する及川に、花巻と松川が白けた目線を送る。以前、印の上書きをしてくれた際、誤解をされて酷い目に合った及川からすれば、身の潔白を証明することが第一なのだろう。
呆れた様子でため息を零した岩泉が裸足のまま庭へと降り立つ。続くように花巻と松川も庭へ降りると、そのまま三人は私たちの方へ歩み寄ってきた。


「……身体は?」

「え?……あ、ああ、うん。それはもう大丈夫」

「起きるまで随分時間かかったな」

「あんまり深く寝入ってたから、名前がすげえ心配してたんだぞ」


苦笑いと共に向けられた言葉に、及川の視線が此方へ映る。「心配させてごめん」と眉を下げた及川に、慌てて首を振り返した。


『それは及川が謝ることじゃないよ。岩泉達は心配しなくていいって言ってくれたのに、私が勝手に不安になってただけなんだから』

「……たぶん、僅かに残った大蛇の妖気が意識を混濁させてたんだと思う。自我を保てなくなってからずっと、…………あまり、いい夢は見てなかったから」


目を伏せたまま吐かれた台詞に、きゅっと唇を引き結ぶ。
及川が見ていた夢。大蛇の呪いと縛りに苦しみながら、今日までずっと見ていた夢。“いい夢”じゃないと言っている以上、どんな夢なのかなんて聞かずとも分かる。及川の身体を蝕んでいた大蛇の妖気が、“いい夢”なんて見せてくれる筈がない。
労わるように優しく握った及川の手。触れられた事に気づいた及川は一瞬目を丸くすると、直ぐに手を握り返してくれ、どこか嬉しそうに唇を動かした。


「けど、途中からそれ“だけ”じゃなくなったんだ」

「……“だけ”じゃなくなったって?」

「……声が、聞こえるようになった」

『……こえ……?』

「……繰り返し繰り返し、何度も何度も同じ夢を見続けるなかで、……聞こえたんだ。“死なないで”っていう、名前の、声が」

『私の、声……?』


オウム返しの問い掛けに、及川は小さく頷き返してくれる。確かにあの時声は投げた。及川に血を飲ませる直前、“死なないで”、と。酷く震えた情けない声だったと思う。けれどあれが、あの言葉が、届いたというのか。妖気に蝕まれていて尚、及川は私の言葉を受け取ってくれたというのか。
「それから少しずつ夢を見なくなったんだ」と顔を綻ばせた及川。繋いだ手にぎゅっと力を込めると、重なった瞳がゆっくりと瞬いた。


「………夢を見る度、思ってた。苦しくて、兎に角苦して。いっそのこと早く、早く死なせて欲しいって。……でも、名前の声が聞こえたとき、“死なないで”って言葉が聞こえたとき、思った。まだ、死ねない。もう一度、もう一度名前に会うまでは死にたくないって。それから徐々に夢を見る回数が減って行って……気づいたら、目が覚めてた」


瞼の向こうから覗いた瞳に自分が映る。「ありがとう、名前、」と改めて伝えられた感謝の台詞に少し大袈裟に首を振って応えると、微笑ましそうに目尻を下げた花巻が、「首振り過ぎだ」と可笑しそうに笑った。


『だって……やっぱり私には勿体ない言葉に思えて……』

「んなことねえって」

『でも、実際及川を救ったのは牛島くんなわけだし、』



「…………うしじま?」



発した名前に及川の動きが止まる。はた、と目を瞬かせた及川に、「知り合いなんだよね?」と首を傾げると、みるみる顔を歪ませた及川が、まさか、と言わんばかりの顔で岩泉達を見遣った。



「……お前が助かったのは名前の力だけじゃねえ。大蛇の呪いと縛りを祓ったのは、陰陽師御三家が頭首の一人、








 牛島若利だ」









「はああああああああああ!?!?!?」


張り上げられた驚愕の声に、夜の空気を大きく震えた。

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