▽ それは癖になる
高校生の頃より格段に長くなった大学の講義時間。うつらうつらと襲いかかってくる睡魔と戦いながらなんとか講義を聞き終え教室を出ると、不意に後ろから声をかけられた。
「なまえちゃん、ちょっといいかな?」
振り返るとそこにいたのは、陣平ちゃんの彼女。そしてその隣には、彼女を挟むように友達らしい女の人が二人こちらをじっと見ていた。
私は一緒に教室を出た友達に一声かけると、そのまま彼女達について行く。
嫌な予感。
こういう予感は当たるもので、人気のない空き教室へと連れてこられた時点で察しはついた。
陣平ちゃんの彼女は申し訳なさそうに眉を下げていていたけれど、その隣の二人からは鋭い視線が向けられている。
「あのね、陣平君の事なんだけど・・・・・」
「陣平ちゃんがどうかしたんですか?」
言われることもおおよその察しはつくけれど、今までの経験上それを馬鹿正直に口にしたら火に油を注ぐようなものだ。
すっとぼけた私に痺れを切らしたのは、彼女の友達の方だった。
「幼馴染みだかなんだか知らないけどさ、彼女いる男にベタベタするのってあんまり良くないんじゃない?」
「みょうじさんのせいで傷付いてるこの子に悪いとかは思わないの?」
やっぱり。
はぁ、と心の中で小さくため息をつく。
陣平ちゃんに彼女ができたと知ってから、私から彼にベタベタなんてしたことがない。というか陣平ちゃんにベタベタなんかしたことがない。必要以上に関わることはなかったはずだ。彼女からすればそれでも幼馴染みという存在は嫌だったんだろう。
研ちゃんと三人でいる時に陣平ちゃんから声をかけられた時以外は特に話すらしていなかった。あからさまに避けると不審がられるし、問題のない程度にそつなく三人で会話をしていただけのこと。
けれど目の前の彼女達にそんなことを言ってもきっと伝わらないんだろう。
「気分を悪くさせたならごめんなさい。なるべく陣平ちゃんには関わらないようにします」
早くこの場を切り上げたくて、私は小さく頭を下げた。
「っ、関わらないでとかそんなこと思ってないんだよ!ホントに!三人が仲良しなのは知ってるし!」
「てか大学生にもなって男女の幼馴染みで仲良いだけとかある?」
「松田君にも萩原君にもいい顔して、ただの男好きじゃん」
「なまえちゃんはそんなんじゃないよ!ね?」
私が言い返さないと分かった瞬間、噛み付いてくる両端の二人。
慌てて友達の腕を引きながら止める彼女。けれどその声に覇気はなくて、むしろどこか煽るような響きすら伴っていた。
私が性格悪いからそんな風に聞こえるのかな、なんて思ったりもする。けれどきっとそれは私の勘違いなんかじゃない。
きっと陣平ちゃんの近くにいた私のことがずっと嫌いだったのだろう。自分で言って陣平ちゃんの耳に入るとまずい。だから友達を嗾けただけのこと。ずっとあの二人の傍にいたのだ。今までだってそんな女の子は何人も見てきた。
「陣平君もなまえちゃんのこと気にかけてたし、これからも仲良くしてあげてほしいとは思ってるんだ。萩原君と三人、いつも仲良しでちょっと羨ましくなったの」
眉を下げながら小さく笑う目の前の彼女の言葉に、思わず後ろ手でぐっと拳を握る。爪が手のひらに食い込むのもかまわずにぎゅっと握った拳。その痛みだけが私に冷静さを与えてくれる。
仲良くしてあげてほしい。
どうしてそれを貴女に言われなくちゃ駄目なの?
羨ましい。
私は何も知らずに陣平ちゃんの隣で笑っていられる貴女の方が羨ましい。
言葉にならない気持ちが、ドロドロと胸の中を覆い尽くす。何かに締め付けられたかのように、上手く呼吸ができない。
駄目だ。このままだと余計なことを言ってしまう。その時、俯きかけた私のポケットで携帯が鳴った。
「ごめんなさい、ちょっと電話かかってきたんで・・・っ」
何かを言いかけた彼女の友達の横をすっと通り抜ける。小さく頭を下げながら空き教室を出ていく私を呼び止める声はなかった。
廊下に出た私は、ポケットから携帯を取りだし通話ボタンを押した。
『もしもーし。講義終わった?』
電話の向こうから聞こえてくる、いつもと変わらない研ちゃんの声。その声を聞いてやっと息ができたような気がした。
「・・・・・・うん、終わったよ。研ちゃん今どこ?」
『中庭。同じ学部の奴らと話してたとこ。てかなまえ、何かあった?』
僅かに違う私の声のトーン。それに気付く彼は本当にすごいと思う。
「研ちゃんに会いたくなっただけ」
『今どこいんの?』
「図書館の近くの自販機いっぱいあるとこ」
『すぐ行く。五分もかかんないからそこで待ってて。電話繋いどいていいから』
甘やかされている。そんなことは分かっていた。
頼らない。甘えないと決めたはずなのに。
“あの日”から研ちゃんは、私の逃げ場所だった。
「なまえ!」
少し息を切らせた研ちゃんが私の名前を呼ぶ。
「大丈夫か?何があった・・・っ、」
自販機にもたれていた私の前やって来た研ちゃんが、心配そうに顔をのぞき込みながらそう言いかけた。私は彼が言い終わる前に、ぎゅっとその胸に飛び込んでいた。
「・・・・・・っ、陣平ちゃん女の趣味悪い」
「松田の彼女に何か言われた?」
急に抱きついた私を難なく受け止めて、優しく髪を撫でてくれる研ちゃん。震える声でそう言った私に、彼はいつもと変わらない穏やかな声のトーンで尋ねた。
「仲良くしてあげてって、陣平ちゃんと。友達引き連れて呼び出したくせに・・・っ、なんでそんな事言われなきゃいけないの・・・」
「あぁ、そういうことか。余計なお世話だよな、そんなの。仲良くしたらしたで怒るくせに」
「・・・・・三人で仲良い私達が羨ましいって・・・っ」
一定のリズムでぽんぽんと頭を撫でる彼の手が優しくて、心の奥にたまったドロドロとしたものを吐き出してしまう。
羨ましいはこっちの台詞だ。そう言ってしまえたらどれだけ楽だっただろうか。
「よく我慢したな。えらい。なまえはいい子だ」
「・・・っ、いい子なんかじゃないよ、こんなの」
「俺がいい子って言ってるんだからなまえはいい子なんだって。いくらなまえでも俺の好きな子の悪口を言うのは許さないからな」
にっと口角を上げながら笑う研ちゃんと視線が交わる。
どこまでも優しい人。
私を無条件に甘やかしてくれる人。
研ちゃんに守られているこの腕の中は、まるでぬるま湯のように居心地がいい。ずっとここでその優しさに甘えていたくなる。
駄目だと分かっていても彼に逃げてしまう自分が嫌いだ。
陣平ちゃんの彼女に嫉妬してしまう自分が嫌い。
頑張ると決めたのに、まだ何の未来も変えられていない力のない自分が嫌い。
トンっと、研ちゃんの人差し指が私の額を軽くついた。
「まーたここに皺寄ってた。可愛い顔なのにもったいないぞ」
「・・・・・・っ、」
「よーし。今日は特別になまえが食べたがってた駅前のカフェのパンケーキ奢ってやる。一緒に行く人はー?」
「・・・・・・っ・・・。行く・・・っ」
「素直ないい子には特別に持ち帰りのケーキもつけてあげましょう!」
冗談めかしてくしゃくしゃと私の頭を撫でると、もう一度強くぎゅっと抱きしめられる。
「欲しいものは欲しいって言っていいんだよ」
「・・・・・・」
「じゃないと後悔する。難しく考えすぎるな」
いつもより低い声でそう言った研ちゃんの肩がいつもより少しだけ小さく見えて、私はその腰に腕を回した。
けれど次の瞬間には、いつも通りの彼が目の前にいた。
「じゃあ行くか!俺も久しぶりに甘いもんでも食おうかな」
「研ちゃんはチョコでしょ?私キャラメルにするから半分こしよ」
「お姫様の仰せのままに」
背中に回していた腕をほどいた研ちゃんは、そのまま私の方に左手を差し出した。
ぎゅっと握ったその手は大きくて温かくて。昔は私と変わらなかったはずの手なのに、いつの間にかこんなに男の人の手になっていたんだろう、なんて考えてしまうのだった。
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