▽ 9-7
びしょ濡れの私とそれを支える赤井さん。
普通ではない私達の状態に、ミラー越しに好奇の目を向けるタクシーの運転手。そんな中でも赤井さんは何も私に聞くことはなかった。
タクシーが止まったのは米花町の隣町にあるマンションの前だった。
赤井さんに腕を引かれながらタクシーを降り、マンションのエントランスをくぐる。
慣れた様子でエレベーターに乗り、廊下を進んでいく彼。
一番奥の角部屋の前まで行くと、ポケットから鍵を出しガチャりと扉を開ける。
1LDKのそこまで広くはない部屋。テレビの代わりにパソコンが二台並べられたリビング。机の上には何やら紙の束が積み上がっていた。
奥の部屋にちらりと見えるシングルベッド。枕元に置かれたヘッドライトの下には分厚い本が何冊か置かれていた。
「とりあえず拭くものを持ってくるから、あっちで座ってろ」
リビングにあるソファを指差し、洗面台の方へと向かう赤井さん。
濡れた服でソファに座ることが申し訳なくて、ウロウロと立ち往生しているとばさりと真っ白な何かが視界を覆った。
ふわりと香ったムスクの香り。体にこびりついていた薔薇の香りが薄らぐ気がした。
真っ白なタオルを私にかけた彼はそのまま大きな手でくしゃくしゃの髪を拭いてくれる。
「暖かくなってきたとはいえ、風邪をひくぞ」
そのまま肩にそのタオルをかけてくれる。
「・・・・・・ありがとうございます。それにごめんなさい・・・」
今更ながら申し訳なさがふつふつと込み上げてきて、そのタオルを握りしめながら謝罪の言葉を口にすると彼は目を細めて笑った。
「気にしなくていい。ここなら誰も来ないし、ゆっくりしたらいいさ」
「ここって・・・」
「俺が別名義で借りている部屋だ。限られた人間しか知らないから、降谷君に見つかる心配もない。仕事絡みの物が多くて散らかってて悪いな」
ぽんっと私の頭を撫でた赤井さん。
何も聞かない彼。
何かあったことは一目瞭然なのに、それでも触れてこないのは彼の優しさだろう。
奥の部屋のクローゼットに向かった彼は、何やら引き出しを開け片手に服を持ってこちらに戻ってくる。
「とりあえず向こうで着替えてこい。必要なら風呂を使ってくれてもかまわない。俺の服で悪いがちゃんと洗濯はしてるから」
そう言って渡されたのはTシャツとスウェットパンツ。
いつまでもびしょ濡れのままいるわけにもいかないので、その言葉に甘え洗面所で渡された服に着替える。
お尻がすっぽりと隠れる丈のTシャツに、四回折り返してやっと足が見えたスウェットパンツ。
赤井さんって本当にスタイルいいんだな、なんて考えながら、鏡に映るちんちくりんな自分の姿に自嘲的な笑みが零れた。
先程までの着飾っていた私とは大違いだ。
リビングに戻るといつの間にか昴さんの変装を解いた赤井さんが、両手にマグカップを持ってキッチンから出てくるところだった。
マグカップからはゆらゆらと温かそうな湯気がたちのぼっていた。
「なまえが着るとやっぱり大きいな、それ」
くすりと笑った彼は、そのままソファに腰かけ隣をぽんぽんと叩いた。
少しだけ間をあけて隣に座る私。
渡されたマグカップ。口元にそれを運ぶと、優しいミルクティーの香りが口に広がる。
「話したくないなら何も言わなくていい。気が済むまでここにいてかまわない」
隣でブラックコーヒーを飲んでいた彼は、左手に持っていたマグカップを机に置きながらこちらに視線を向ける。
零くんとは違う深い緑色の彼の瞳。それはまるで胸の中をどす黒いドロドロとした何かを見透かしているようだった。
この人はいつもそうだ。
無理やり心の中をこじ開けようとはしない。ただ黙って隣にいてくれるのだ。
「・・・・・・・・私、自分が嫌いです・・・」
ぽつりとそう呟いた私。
そう、私はこんな自分が嫌いだ。
たしかにあのホテルで見た光景はショックだった。
けれどそれで取り乱した自分が何より許せなかった。
零くんが私のことを大切に思ってくれていることは痛いくらいに分かっていた。疑う余地なんてないくらいに彼は私を大切にしてくれていた。
彼が私を思ってくれる気持ちと同じくらい、彼が自分の仕事に対して真摯に向き合っていることも理解しているつもりだった。
例えどこで何をしていても、それが彼の中で正義に繋がるものなら受け入れていけると思っていた。
なのに私はいざそれを目の前にすると、自分勝手な感情で彼にぶつけてはいけない感情をぶつけそうになったのだ。
もしあのまま家に帰って、零くんに会ってしまったら私はこの気持ちを言葉にして彼にぶつけてしまっていただろう。
それは彼の正義を否定するもの。
私のエゴでしかなかった。
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