▽ 9-5
ベルモットが少しだけ悲しげな表情をしたように見えたのは、私の気の所為なんだろうか。
立ち上がった彼女を視線で追う。
彼女はレストランフロアが見下ろせるガラス窓にそっと手をつくと、こちらをゆっくりと振り返った。
「あそこ、誰がいるか見える?」
彼女が指をさした場所に視線を向ける。
「・・・・・・っ・・・」
ガラス窓からよく見える場所。
そこにいたのは見慣れた男性と、綺麗で上品そうな女性が楽しげに食事をしていた。
「組織の任務の一つ。あの女の子は今日のターゲットね」
ベルモットの声がどこか遠くで聞こえた。
くらりと歪む視界。
目の前にいるのがベルモットでなければ、取り乱していたかもしれない。
私の心を乱すには、充分過ぎるほど彼らは楽しげに近い距離で笑い合っていた。
ねぇ、零くん。
頭では理解していたつもりだったの。
貴方から知らない匂いがすることも、仕事だって割り切っていたつもり。
でもやっぱり目の前でそれを見ると、心の中に真っ黒でドロドロとしたものが渦巻く。
そんな私に追い打ちをかけるかのように、零くんが彼女に見せたのはルームキーのようなカード。
それを見た彼女は、嬉しそうに笑った。
「現実なんてこんな物よ。貴女と彼は生きる世界が違う」
ベルモットのひんやりとした手が私の肩を撫でた。
「・・・・・・これを見せる為にここに誘ったんですか?」
震えそうになる声を押し殺して彼女を見上げた。
「えぇ、そうよ。身分の違う恋愛なんて傷付くだけ。もっと現実が知りたいなら、彼らの隣の部屋でもとる?」
身分の違う恋愛。
彼女の言葉が胸に刺さった。
そんな会話をしているうちに、食事を終えた零くんと彼女は立ち上がり席を後にする。
レストランを出るまでの間も、しっかりと彼の腕に絡みつく彼女。
その姿に先程まで食べていたものが胃から上がってくるのを感じた。
このままこの場所にいたくない。
ベルモットの前で弱みを見せたくない。
そんな思いから、私はゆっくりと立ち上がった。
「・・・・・・今日は帰らせていただいてもかまいませんか?洋服代や食事代はちゃんとまた払います」
「いらないわよ、そんなもの。これは私から貴女への餞別よ」
この場にいることが限界だった私は、そのまま部屋を飛び出しエレベーターに乗った。
一刻も早くこのホテルの外に出たかった。
綺麗に磨かれたエレベーターの窓ガラスに映る自分の姿。
美容院で見た時とは打って変わって、今にも崩れ落ちそうだった。
*
行く宛てもなくフラフラと街を歩いていると、ぽつりぽつりと雨粒が地面を濡らし始めた。
徐々に強くなる雨に、道行く人は傘を広げたり雨宿りに走ったりと忙しなく動いていた。
いよいよ本降りになった雨が容赦なく私の体を濡らしていく。
あっという間にびしょ濡れになった私。頭の中では、濡れない場所に行かなきゃとか傘でも買わなきゃとか、考える事が出来ているのにうまく足が動かない。
ドン!っとすれ違った男性の肩が私に当たる。その衝撃でバランスを崩した私は、そのまま地面へと倒れた。
こういうときに高いヒールって困るよな、なんて考えているけれどうまく立ち上がることができない。
土砂降りの中、道の真ん中で座り込む女。
客観的に見たら怪しさしかない。
道行く人達の怪訝そうな目が私に刺さる。
自分の頬を伝うのは、涙なのか雨粒なのか。
そんなことを考えていると、不意に体を濡らしていた雨粒が止まった。
「なまえ?!こんな所で何してるんだ?!」
名前を呼ばれて頭に浮かんだのは、やっぱり先程まで見ていた彼の姿。
けれどここに彼がいるはずがない。
どこまでも馬鹿で自分勝手な自分が嫌になる。
「・・・・・・っ・・・・・・、赤井さん・・・っ・・・」
見慣れたハイネックに眼鏡姿。
この姿の彼のことをそう呼ぶのは何回目だろうか。
私に傘を差し出しながら、上着が濡れることにも構わず座り込み目線を合わせてくれる彼。
私は何度この人に助けられるのだろうか。
赤井さんの顔を見た瞬間、自分の中で張り詰めていた何かがプツリと切れた。
prev /
next