▽ お友達から始めよう
どれくらいの時間が過ぎだんだろう。ひとしきり泣いた私はそっと彼のスーツのジャケットを握っていた手を解く。
グレーのスーツには涙の跡がしっかりと残っていて、途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
諸伏さんは、「少しだけ待っててね」と言ってベンチから立ち上がりどこかへ向かった。
ホント・・・何してるんだろ、私。
親しい友達ならまだしも、出会ってまだ数回の相手にあんな風に泣きつくなんて。迷惑をかけてしまった。きっと彼は優しいから、迷惑なんて言わないって分かっていたけどそれでもふつふつと申し訳なさと恥ずかしさが込み上げてくる。
はぁ、というため息と共に両手で顔を隠し俯く。散々泣きじゃくったせいで瞼がなんだか重い。明日休みでよかった・・・、なんて思っていると人の気配を感じて顔を上げる。
私のすぐ前に膝を折り腰を屈めた諸伏さん。その手には濡れたハンカチが握られていた。
「とりあえず目冷やそっか。いっぱい泣いたからこのままじゃ明日腫れちゃうし」
「・・・・・・ありがとう、」
「オレのハンカチでごめんね。あ、ちゃんと洗ってるから!」
慌てたようにそう付け足す姿は、何だか可愛くて。思わずふっと笑みがこぼれる。
諸伏さんはそのハンカチを私の手に握らせると、再び隣に腰かけた。
言われた通り濡れたハンカチを瞼にあてると、ひんやりとして気持ちがいい。瞼の熱がハンカチに吸い取られていくような感覚。
真っ暗な視界。隣に座る彼の気配をさっきよりも近くに感じた。
*
感情のままに泣きじゃくる彼女の姿は、オレの中の庇護欲を掻き立てる。
前みたいに無邪気に笑っていて欲しい。でも人間はそんなに強くないことはオレも知っているから。
泣きたい時に泣くのを我慢していたら、自分の心の痛みに鈍感になる。鈍感になった心は、いつしか傷付いたことにすら気付かなってしまう。そして自分の痛みに気付けない人間は、周りの人の痛みにも気付けなくなるから。彼女にはそうなって欲しくなかった。
「諸伏さん」
「ん?」
濡れたハンカチを瞼にあてていた彼女が、顔の上からハンカチをずらしオレの方を見る。
やっぱりみょうじさんがオレの名前を呼ぶその響きは心地よくて、優しく鼓膜を揺らす。
「やっぱり誰がなんと言おうと、諸伏さんは優しくていい人です。私が保証します」
少しだけ腫れた瞼。まだ涙が少しだけ残る潤んだ瞳で、そんなことを言いながら笑う彼女から視線が逸らせなかった。
そんなことないよ≠ニかありがとう≠ニか、適当な言葉を返すことが出来なくて言葉に詰まる。
やっぱりこの子といると、ペースを乱される。
あまりに真っ直ぐにオレ≠見るから。
「諸伏さんが辛い時やしんどい時は、私がいつでも話聞きます。今日の諸伏さんが私にしてくれたみたいに」
にっと、口の端に笑みを浮かべる彼女にさっきまでの影はもうなくて。
ストレートなその優しさ。オレがキミに優しくするのとは違う。ただ誰かを素直に心から気遣う気持ち。
オレはそんな笑顔を向けてもらえる人間じゃないのに。
「・・・・・前も話したけど、オレはそんなにいい人≠カゃないから」
こんなことを言っても彼女を困らせるだけだと。頭では分っているのに、1度開いた口は止まってくれない。
「みょうじさんに優しくしたのは、そうすれば自分も少しだけいい人≠フフリが出来るから。キミがオレを気遣ってくれる純粋な優しさとは違うよ」
だからもうこれ以上、踏み込むべきじゃない。
きっと感情の機微に聡い彼女のことだ。この線引きに気付かないはずがないと思った。
なのにキミは・・・・・・、
手に持っていたハンカチをぐっと握ると、みょうじさんの顔から笑顔が消え真剣なものになる。
その瞳は真っ直ぐにオレを見ていて、逸らすことを許さない何かを孕んでいた。
「優しさに理由なんて必要ですか?」
「・・・・・・っ、」
「私は今日、諸伏さんに話を聞いてもらえてすごく助けられました。その気持ちを優しさだと思って受け取った。例えその裏にどんな感情があったとしても、私がそれを嬉しいって感じてありがとうって思った以上は優しい≠チてことだと思います」
揺らぐことのない強い言葉。さっきまでの泣きじゃくっていた彼女はもういない。
「諸伏さんがどういう気持ちで今ここにいてくれてるのかは分からないけど、私はたしかに救われたし嬉しいって思ってるから」
ふにゃり、とさっきまでの真剣な顔が崩れ笑顔を見せるみょうじさん。本当にくるくると表情が変わる子だと思った。だからこそ目を離すことができなくて。
膝の上に置いていた手が僅かに震える。
何もかも見透かすみたいな彼女の視線から逃げたい。その瞳は、オレの中の弱くて汚い部分にいとも簡単に触れそうだったから。
そう思うのに何故か同じくらいそれに焦がれる自分もいて。
「いい人≠ゥどうかを知りたいので、お友達になってくださいって言うのはダメですか?」
断るべきだ。深く関わるべきじゃない。
零ならきっとその提案を受け入れない。そう分かっているのに。
上目遣いで小さく首を傾げながらオレを見る彼女が眩しくて。ぱちぱちと瞬きを繰り返す大きな瞳がオレだけを映していることが嬉しい。そう思ってしまった。
「・・・・・・オレで良ければ、」
「やったぁ♪ 私ここら辺に引っ越してきてから仕事ばっかりで新しい友達なんてできるの久しぶりだから嬉しいです」
あまりに彼女が弾んだ声で嬉しそうに笑うから。それが本音だってオレにも分かってしまう。
彼女の笑顔に釣られるみたいにふっと笑みがこぼれた。
*
どうしてここまで自分のことを否定するのか。頑なに私の言葉を否定する彼は、やっぱりあの時と同じでどこか危うさを感じさせる。
お節介だって分かっていても、それに気付かないふりなんてできなくて。
彼が私にしてくれたみたいに、少しだけでもその心に巣食う何かを吐き出す先になれたらなんて思わずにはいられなかった。
「いい人≠ゥどうかを知りたいので、お友達になってくださいって言うのはダメですか?」
それに、今日で終わりにしたくなかったから。
この広い街で、たまたまこうして会えるなんて何度もあることじゃない。だからこそ次≠ェまた欲しいと思った。
「・・・・・・オレで良ければ、」
「やったぁ♪ 私ここら辺に引っ越してきてから仕事ばっかりで新しい友達なんてできるの久しぶりだから嬉しいです」
少しの沈黙の後、にっこり笑顔で・・・とはいかなくても受け入れたことが嬉しくて自然と声が弾む。
思わずハンカチを握ったまま小さくガッツポーズをした私を見て、諸伏さんはふっと笑みをこぼす。その笑顔に不覚にも心臓の奥がきゅっと締め付けられる。
次第に加速する心臓の音。その理由に気付かないほど鈍感じゃない。でもその気持ちを認めるには、私はまだ彼を知らないから。
・・・・・・だからこそ、知りたいって思ったんだ。
prev /
next