▽ 1-1
思考が停止し、時が止まる。
まさか自分がそんな経験をするなんて思ってもみなかった。
ある日の午後、ポアロでの仕事を終え警察庁へと向かう。いつも通る道が工事中で遠回りをして警察庁までの道を車で走っていると赤信号に引っかかる。
いつの間にか茜色に染まった空。何気なく見た窓の外。
「・・・・・・・・・は?」
我ながら気の抜けた声が出たものだと思う。
有名ブランドのショップが軒を連ねるこの通り。俺の目に止まったのは、背の高い茶髪の男。すらりとした長身は人混みの中でも目立っていて、その男の左手にはブランドのロゴの入った紙袋がいくつか握られていて。
いや、そんなことは問題じゃない。
そいつに肩を抱かれている女性。
見間違えるはずがない。
・・・・・・それはなまえだった。
なまえは少し困った顔でその男を見上げながらも、肩に回された腕を振り解くことはない。
見たことのないその男。遠目でも分かるその長身と、日本人離れした整った容姿。
親しげになまえに話しかけるその男から視線が逸らせなかった。
*
「久しぶり」
バイトを終え、いつものスーパーに向かおうと夕暮れ時の道を1人で歩いていると後ろから誰かに声を掛けられる。
振り返るとそこには見たことのない男性の姿。
ハッキリとした目鼻立ちに、グレーがかった瞳。立ち止まった私は、すらりとした長身の彼を見上げる。
「えーっと・・・・・・、どこかでお会いしましたか?」
喫茶店のお客さんかなとも思ったけれど、この容姿なら1度会えば忘れることはないだろう。全く身に覚えがなくて、小さく首を傾げる。
そんな私を見て彼はくすりと小さく笑うと、コホンっと咳払いをする。
「Hi!子猫ちゃん♪ これなら思い出してくれるかしら?」
男性の口から発せられたのは、間違いなく女性の声。その口調と声には聞き覚えがありすぎて、思わず1歩後ろに体を引いた。
彼(いや、彼女?)は、すっと私に近付き腕をとる。
「逃げないでちょうだい。少し買い物に付き合ってほしいだけよ。取って食ったりしないわ」
「・・・・・・買い物?どうして・・・っ・・・、」
「バーボンに頼んでも貴女に会わせてくれそうにないし、こうして直接会いに来たのよ」
ふっと口元に笑みを浮かべるその表情は、間違いなくベルモットのそれだった。
するりと私の肩を抱くと、ぽんっと私の髪に細い指が触れた。
「心配しなくてもこの前みたいな意地悪はしないから安心しなさい。ただ気晴らしに付き合って欲しいだけよ」
彼女の瞳から敵意は感じられなくて。どこか少しだけ寂しげに揺れるその瞳から目が逸らせない。
結局私は彼女を突き放すことができなくて、そのまま近くを通ったタクシーに乗ることになった。
「どうして今日は男性の姿なんですか?」
「ふふっ、1つは素顔のままだと目立つから」
タクシーの中で、彼女は楽しげに笑いながら私の質問に答えてくれる。
たしかに彼女が素顔のままショッピングなんてしてたら、目立つことは間違いない。
「もう1つの理由は内緒よ♪ 何となく面白いことが起きそうな気がするの」
彼女の言う面白いことは、私には予想できるものじゃない。これ以上聞いてもはぐらかされるような気がして、私は聞き出すことを諦めた。
あ、そうだ。
怒られるかもしれないけど、零くんに連絡しておかなきゃ。事後報告なんてことになったら、それこそ本気で怒られるだろう。
携帯を取り出し、彼にメッセージを打とうとすると私の手からぱっと携帯がなくなる。
「っ、!」
「ダメだよ。今は俺とデート中なんだから、他の男に連絡なんてしないで」
携帯を自分のポケットに入れながら、色香を含んだ声で耳元で囁かれる。女性だと分かっていても、その見た目と声は男性にしか見えなくて。
恥ずかしさから思わず赤くなった私を見て、ベルモットは楽しげに笑った。
*
そのまま2人を追いかけたかったが、仕事を放り出すわけにはいかない。
なまえに電話をかけてみたけれど、聞こえてくるのは無機質なコール音だけでそれが不安を煽る。
仕事を終え警察庁を出る頃には、すっかり空は暗くなっていた。
なまえの家に帰るも、部屋の中は真っ暗で彼女の気配はない。
1人きりの部屋でソファに座り大きくため息をついた。
なまえが俺を裏切るなんてあるはずがない。
そう思っているのに、腹の底から込み上げてくる感情に制御が効かない。
なまえの周りにいる異性は多くはない。
彼女が2人で会うことがあるとすれば、赤井かあの怪盗くらいだろう。
ナンパにしては近すぎる距離。そもそも知らない奴に声を掛けられてもあいつはついて行かないだろう。
もしかして、なんて有り得ない一抹の不安。
・・・・・・俺といることに疲れたのか?
普通≠ゥらかけ離れたこの生活。なまえが俺との付き合いに不安や不満を抱えていても無理はない。
いや、そんなことはない。あるはずがない。
頭の中でそんな不毛な問答を繰り返す。
チクタクと時を刻む時計の音だけが静かな部屋に響いた。
どれくらいの時間が流れただろう。
ガチャリと玄関の開く音がした。近付いてくる足音。リビングのドアが開き、そちらを見ると両手に紙袋を持ったなまえがいた。
「ただいま。零くんもう帰ってたんだね」
机の上にその紙袋達を置くと、上着をぬいだなまえは俺の隣に腰を下ろした。
その瞬間、ふわりと彼女の髪から香ったのはいつもと違う香り。
その香りに、必死に抑えていた何かがぷつりと切れた。
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