▽ 1-2
それから数日後。
朝、と呼ぶにも早いそんな時間。風見さんの車の助手席で警視庁に戻る道すがら、彼の携帯が鳴る。
車を路肩に停めた風見さんは携帯を手に取った。
「お疲れ様です!」
「でしたら今から取りに行きますよ。はい、近くにいるので」
「……もいるのですが大丈夫ですか?」
「分かりました。15分くらいで着くと思います」
短いそんな会話。
途中で自分の名前が出たこともあり、風見さんの方を見る。
そんな私の視線に気付いた風見さんは、ハンドルを握りながら口を開いた。
「降谷さんからだ。預かるものがあるから警視庁に戻る前にあの人の家に寄る」
「降谷さんの家、ですか?」
「あぁ。後で持ってくると言っていたんだが、ここから遠くないし俺が行った方が彼の負担が減るだろう」
たしかに忙しいあの人のことだ。
それもそうだろう。
降谷さんの家、この近くなんだ。
初めて知った。
思えば私が彼のことで知っていることなんてほとんどなくて。仕事柄仕方ないことなのかもしれないけど、それが少しだけ寂しくも感じた。
*
しばらく車を走らせると、風見さんはとあるマンションの近くで車を停めた。
彼が車を降りようとしたとき、再び携帯が鳴る。
「はい。どうした?」
その口調から相手が降谷さんではないだろう。
内容からして恐らく部下の誰かからであろうその電話。彼も彼とて忙しい人だ。
「少し待ってくれ」
携帯を耳から離した風見さんがこちらを見る。
「悪い。少し時間がかかりそうだから代わりに行ってきてくれないか?」
「っ、私がですか?」
「あぁ。……が一緒なのは降谷さんに伝えているし問題ないと思う。あそこのマンションの×××号室だ」
それだけ言うと再び携帯を耳にあて話し始める風見さん。
車から降りた私は言われたマンションのエントランスで教えてもらった部屋番を押す。
しばらくするとエントランスのドアが開く。そのままエレベーターに乗り部屋の前までやってくると、緊張で少しだけ震える手でチャイムを押した。
ガチャという音と共に開いたドア。
そこにはいつもの見慣れたスーツ姿じゃなくて、ラフな部屋着の降谷さんがいた。
初めて見るその姿に心臓が跳ねる。
「わざわざすまないな。風見は?」
「風見さんは急な電話があって車でその対応中でして。何かお伝えしておくことはありますか?」
「いや、大丈夫だ。書類を持ってくるからここで少し待っていてくれ」
言われるがまま玄関に入ると、足元にある一足の靴に目が止まる。
綺麗に揃えて端に置かれている女性物の靴に心臓がきゅっと締め付けられる。
もしかして・・・・・、
決して広くはない降谷さんの部屋は、玄関からでもその中がよく見えた。
綺麗に片付いたキッチン、その奥に広がる和室。机の上の書類をまとめている降谷さんの背中。
「・・・・・ん・・、零くん?」
顔こそ見えないけれどその背中に話しかける少しだけ掠れた女性の声に、すっと体温が下がるような気がした。
「悪い、起こしたか?」
「・・・誰かお客さん?私いても大丈夫?」
「風見の部下だよ。渡す書類があるだけだから平気だ」
玄関からは影になっていて見えないその場所はきっとベッドがあるのだろう。
「まだ寝てていいよ」
書類をまとめたファイルを片手に立ち上がった降谷さんは、その声の方に近付きそう声をかける。
その声が、
その目線が、
あまりにも優しくて。
気が付くと私はそこから目を背けていた。
「待たせてすまない。また夕方にそっちに寄るから詳しくはそのとき風見に説明するよ」
「・・・・・・っ、分かりました」
降谷さんの顔を見ることができなくて、俯いたまま書類を受け取る。
当たり前にこの部屋にいるその人。
それはきっとこの前話していた恋人だろう。自分のテリトリーにそう簡単に他人を入れないであろう彼が、彼女をこの空間に入れていること。
そしてその人は風見さんの存在を知っている。
“零くん”
降谷さんのことを、名前で呼ぶ人に出会ったのは初めてだった。
そこから分かる降谷さんと彼女の距離の近さ。
「……?どうかしたのか?」
黙り込んだ私を見て、心配そうに名前を呼ぶ降谷さん。
私はぎゅっと拳を握り顔を上げた。
「いえ、何もありません。では風見さんに渡しておきますね。お休み中に失礼しました」
「僕の方こそわざわざすまない。助かったよ。風見にもありがとうと伝えておいてくれ」
そのまま頭を下げ玄関のドアを閉める。
ドアが閉まったのを確認したその瞬間、一気に体の力が抜けるような気がした。
とぼとぼとした足取りで風見さんの車に戻ると、電話はもう終わったらしく風見さんが迎えてくれる。
「助かった、ありがとう。降谷さんは何か言っていたか?」
「また夕方こちらに寄るのでそのときに風見さんに説明するとのことでした。お預かりした書類です」
預かっていたファイルを風見さんに渡す。
ペラペラとそれを確認した風見さんは、再び私にお礼を言った。
エンジン音と共に走り出す車。
さっきまでと同じ景色のはずなのに、窓から見える景色はどこか虚ろに見えた。
「何かあったのか?」
そんな私に気付いた風見さん。赤信号で車がとまったタイミングで私の方を振り返る。
「・・・・・・・・降谷さんの家に彼女さんがいました」
「あぁ、みょうじさんか?たまに出入りしているみたいだな。オレも何度かあそこで会ったよ」
何かを思い出しているのか、くすりと笑う風見さん。
そんな彼と反対に、私の気分は下がる一方で。
「家や仕事のこと知ってるんですね。その彼女さんは」
「あぁ。それだけ覚悟を持って交際しているということだろう」
悪気のないそんな言葉が私の胸を抉る。
ここに降谷さんがいたなら、私はもっと強くいられたのに。
隣にいるのは気心の知れた上司。一緒に過ごしてきたこの三年間で、彼がその見た目とは裏腹に優しい人だと知っているから。
「・・・・・・・・すごく優しい声でした」
「え?」
「その人を見る降谷さんの目が今まで見たことないくらい優しくて・・・っ・・・」
「っ、……もしかして・・・」
ぐにゃりと滲む視界。ツンと込み上げてくる何か。
色恋沙汰に聡くない風見さんですら、そんな私の心の内に気付かないわけがなかった。彼は慌てて車を路肩に停めた。
仕事に私情を挟むべきじゃないとか、そんなことは分かっていた。
それでも感情のコントロールが効かなくて。
「……。降谷さんのことが・・・?」
「っ、憧れだったんです・・・っ・・・。好きとかそんな気持ちよりもっと・・・」
「・・・・・・そうか。知らなかったとはいえ、悪いことをしたな」
しゃくり上げるようにそう話す私に、風見さんはティシュを渡しながら謝る。
風見さんは何も悪くないのに。
自己嫌悪も相まって涙は止まってくれない。
「なんで降谷さんほどの人が普通の人を選ぶんですか・・・っ・・・?」
「普通の人?」
「恋人ってどんな人ですかって聞いた時に、降谷さんが言ってました。普通の人だって。あの人の隣に立つのが、秀でるもののないそんな人なんて・・・っ・・・!相応しいわけがないのに・・・」
自分でも性格が悪いことを言っている自覚はあった。
それでも一度開いた口は止まってくれなくて。
何の才能もなしに彼の隣に立つ、その顔も知らない女性に対する嫉妬で胸が締め付けられる。
「彼女のことを悪くいうのは、降谷さんの人を見る目を疑うのと同じだぞ」
「っ、」
「辛い気持ちは分かる。でもオレは降谷さんの傍にはあの人が必要だと思う」
風見さんは声を荒らげるでもなく、諭すように言葉を続ける。
「オレはあの二人の全てを知っているわけじゃないし、降谷さんの心の内を理解しているわけでもない。それでも彼がみょうじさんを“普通の人”だと言った気持ちは少しだけ分かるんだ」
「・・・・・・どういうことですか?」
「たしかに彼女は何か特別な才能があるわけじゃないかもしれない。でもあの人は、降谷さんに対して“ただの一人の人間”として接することのできる人だから」
“ただの一人の人間”
その言葉の意味が分からなかった私は、そのまま黙って次の言葉を待った。
「オレ達が見てるのは、どこまでいっても“公安警察の降谷零”なんだ」
「・・・・・・」
「そんな彼を唯一、ただの人として見て接することのできる人がみょうじさんなんだと思う」
降谷さんは完璧な人だから。
それは私達の中でいつの間にかできていた共通認識。
でもそんな彼も一人の人間に違いなくて。
「諦めろ、とは言わない。でも彼女を悪くいうのはやめた方がいい」
それは優しくて、芯のある言葉だった。
その言葉に私はテッシュで涙を拭い顔を上げる。
「っ、取り乱してすいませんでした。もう大丈夫です」
「そうか。じゃあ戻るか」
風見さんの言うことの全てを理解したわけじゃない。
それでも彼の言う通り、私が見ていたのは“公安の上司”としての降谷さんなのは間違いなくて。
強くて真っ直ぐなあの人が、“素”でいられるその場所は私にとっては眩しかった。
Fin
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