▽ キミとの距離
「なんてね、冗談よ」
ナマエの手がすっと俺から離れる。
「貴方は誰?・・・・・・今の貴方は、バーボンには見えないわよ」
彼女の言うとおりだろう。
バーボンなら、こんなに取り乱して声を荒らげることは無い。たとえナマエのあんな姿を見ても、優しい言葉で慰め上手く丸め込んでいただろう。
それが出来なかったのは、俺個人の感情が表に出てしまったからだ・・・・・・。
「貴方は私にかまうより、何かもっと大切なことがあるんじゃないの?」
彼女の言葉に思わず目を見開く。
何か知っているのか・・・?
頭の中に自分の正体がバレている可能性がよぎる。
いや、そんなはずはない。ナマエの前でそんな素振りを見せたことは1度もない。
「どういう意味ですか?」
動揺を内に隠しナマエを見る。
「貴方は優しすぎるわ・・・・・・」
話は終わりとばかりにそう言い残し寝室へと向かう彼女の後ろ姿は、少し淋しげに見えた。
*
「自分から迎えにくるって言い出すなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
あれから2日後、俺は日本に帰ってきたベルモットを空港まで迎えに行っていた。
「教えて欲しいことがあるんです」
「内容によるわ。何かしら?」
俺の愛車の助手席に乗り込むと、目深に被った帽子を脱ぎサングラスを外す彼女。
「ジンとナマエさんのことです」
「はぁ・・・、それは前に知る必要がないって言わなかったかしら?」
「彼女は自分のことをジンのペットだと言っていました」
俺の言葉にベルモットが僅かに眉を顰める。
「ペット・・・ね。確かにジンのあの子への扱いはその程度でしょうね。・・・またあの子、傷だらけにでもなってたの?」
「ええ」
「その姿を見て貴方はナマエに絆されちゃったってわけ?」
貴方にもそんな感情があったのね。とベルモットは笑う。
「やめておいた方がいいわ。私も流石に見てられなくて、何度かジンに話したけれど彼凄く機嫌悪くなってたから」
やはりベルモットの目から見ても、あの2人の関係は異常に見えるらしい。
「尚更あの子に強く当たるの。だから何も言わない方があの子のためよ」
何もしてやれないってことか・・・。
ベルモットが言ってそうなったなら、俺が下手に口を出すのは得策ではない。
「でも珍しいわね、貴方がそんな風に誰かの為に動くなんて」
「女性があんなに傷付いているのを見れば、流石に僕でも胸が痛みますよ」
そうだ、別に何か特別な感情があるわけじゃない。自分の気持ちを誤魔化すように、ベルモットに笑顔を向けた。
*
ベルモットを自宅まで送り届けると、ナマエの待つセーフハウスへと戻る。
誰もいない廊下を歩いていると、彼女の部屋が近付くにつれて何か焦げたような臭いが漂ってくる。
扉の前に立つとやはり臭いのもとはこの部屋らしい。慌てて扉を開けると、キッチンに立っていたナマエがすっと後ろ手に何かを隠したのが見えた。
「あ!おかえりなさい!」
笑顔で俺を迎えてくれるナマエからは、あの日のような淋しげな雰囲気を感じることはない。
「ただいま戻りました・・・・・・、ところでナマエさんこの臭いはなんですか?」
どうやら臭いのもとは、彼女がたった今後ろ手に隠した何かが原因らしい。
背後に回って確認しようとすると、ナマエは気まずそうに目をそらす。
「・・・・・本当はもうちょっと綺麗にできる予定だったのよ」
そう言いながら彼女がテーブルの上に置いたのは、焦げたクッキーだった。
「ナマエさんが1人で作ったんですか?」
「そうよ・・・。途中まではよかったんだけど、最後の最後で焼きすぎたみたい」
「言ってくれてたら、お菓子くらいいつでも買って来ますよ」
そういえばあのとき買ったケーキは、渡せずじまいだった。また何か買ってこようか、そんなことを考えているとナマエの小さな声が聞こえた。
「・・・それじゃ意味ないのよ」
「え?」
「貴方に何かお礼をしたかったのよ!この前は心配かけたみたいだし・・・。それにいつもご飯作ってくれてるじゃない」
でもこれじゃ渡せないわね。と目をそらす彼女の顔は、心做しかいつもより赤みを帯びている。
「僕のため・・・ですか?」
「そのつもりだったわよ。でも失敗したから、お礼はまた別のことを考えるわ」
ナマエは焦げたクッキーをゴミ箱へ捨てようとする。
「待ってください、それ貰います」
「いいわよ、無理しなくて」
「無理なんてしてません。せっかく作ってくれたんです、頂いてはいけませんか?」
「お腹壊しても知らないからね・・・」
焦げたクッキーは、もちろん美味しいとは言い難かった。でも何故だろう、ナマエが俺のために作ってくれた・・・その事実を嬉しく思っている自分がいた。
(最初で最後の、君からの贈り物)
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