暗暗裏の口付け



「お疲れ様でーす」


お疲れ様ー、と返ってくる言葉に私はぺこりと頭を下げて従業員入口のドアを開けた。バイト終わりのちょっとダルい体を引き摺るようにして昇降口の階段をタンタン鳴らして下りつつ、あー帰ってお風呂入るの面倒だなー、とか、お風呂入らないで済むスプレーとかないのドラえもーん、とか、小腹がすいたなーでもこの時間に食べたくないなー、とか考えてたら階段を下り終えていた。そしていつも自転車を置いてるところに立って気付く。


「…そうだ、自転車今朝お父さんが乗ってったんだっけ。」


行きはちゃんと歩いて来たのにどわすれしてた。…ってことは歩いて家かー、とダルい体が更にダルくなった感じがして溜め息が溢れ出た。仕様がない、と私はポッケからウォークマンを出して片耳ずつ装着。装着しながら家路につこうとした時だった。


「ナマエ」


まるで夜中の静けさにじんわりと染み渡るような、でもはっきりと、凛とした、低い声が私の耳を甘く刺激した。もう片方つけようとしたイヤホンが手から落ちる。


「え…ユウ…!?」


それほど広くない道の横に見慣れた車が置いてあって、その車に寄り掛かるようにしてその人がいた。暗くてもはっきりとわかる綺麗な黒髪に整いすぎた顔。高そうなコートをすらりと着こなすスマートな体。思ってもいなかった人の登場に私はちょっぴり声を上げてしまい、出した声を慌てて両手で塞いだ。あ、危っ…、だ、誰もいないよね!?とあたりを見回したけど従業員が出入りするような道にそう人は通ってなく。


「誰もいねぇよ」


この道には薄く笑っているユウしか居なかった。私はもう一度辺りを確認してユウの元へと小走りした。


「どっ、どうしたの?何してるの?」

「迎えに来た。」

「えっ?迎え?」

「昨日メールで言ってただろ。『自転車、お父さんが使うから帰りは歩きだ』って。」

「…………は…、」


確か、そんな事送ったような気がする。いやでもまさか、そんな取り上げるようでもない会話に……。(迎えに…来てくれたんだ…。)私はユウをぽかんと見上げているとユウがムッと眉を寄せつつも意地悪く笑った。そしてコートのポケットに入れていた手が私の頬を捻る。


「お前、自分が送ったメールの内容くらい覚えとけよ」

「い、いひゃい……っ、お、覚えてるよ…!覚えてるけど…、だって、ユウ迎えに来てくれるなんて言ってなかったじゃん…!」

「言ってないからな。」


ユウの手をぱしぱし叩けばユウの手はぱっと放れて捻った頬を手の甲で撫でられた(は、はぅ…)。その手があまりにも優しくて、温かくて、疲れた私の体がとろんとなりそうになる。いつまでも撫でられていたい気もするけどユウの手は二、三回撫でた後に離れいってしまった。その寂しさと、撫でられた甘い優しさに私の体と心はもうきゅうううって締め付けられたようになって身震いしそうになった。ユウに名前を呼ばれた途端、ユウに会えた途端、ユウに触ってもらった途端。私の体はフルスロットルでユウという存在を求め出した。
思わずユウのコートの端を掴んで、本日何度目かの辺り確認を行う。ユウに「どうした?」と言われて、私はこくり、と唾を飲み込んだ。


「あ、あの……。抱き締めても、いいですか…?」


疲れた私の体は今全力でユウを欲しているようです。直ちにユウを補充しなければなりません。恥ずかしいけど、自分から言ったのとても恥ずかしいけど、でも、今、ものすごくユウに抱き付きたい。のです。赤くなってきた頬を無視して、そうユウを見上げれば、ユウはきょとんと目を丸くした後、おもむろに両腕を軽く広げた。


「どうぞ。」


寄り掛かってる車から体を離したユウに、広げた腕の間に自分の腕を入れてユウの腰に抱き付く。ゆっくりとユウの胸に体を預ければユウの腕が私を包んでくれた。香った芳ばしい匂いに体が解れていく。


「…先生コーヒー飲んだの?」

「なんでいきなり先生に戻るんだよ。」

「痛っ、だ、だって…」


ごつっ、と頭にユウの顎が当たる。
だって仕様がない。わざとじゃないもん。つい先生って呼んじゃうんだもん…。


「コーヒー、飲んだ。」

「うん。コーヒーの匂いする…。」


いい匂いだ、と思わずユウの胸にすりすりしてしまった。してしまった後に今私なかなか大胆なことしなかったか?と問い掛け、慌ててユウの胸から体を離した。


「ご、ごめんっ」


バッと離れたつもりだったけど、すぐにユウに腕を取られて引き寄せられた。再びユウの胸の中へと体が収まって腰にユウの腕が回る。
…引き寄せられた瞬間のユウの顔があまりにもかっこよすぎて、息止まるかと思った。特にこれといった表情の変化はないんだけど、あの、言葉にするなら、『男の人』の顔だった。一瞬見えたその表情に呼吸を忘れた。
私を抱き締めたユウはゆっくりと私の頭を撫でてくれて。
ユウの呼吸が、近い。


「…疲れたか?」

「……は、はい…」

「何で敬語なんだよ。」

「いえ、特に意味は、ない、です。」


くすっと笑ったユウの唇が近い。
ユウの唇が私の耳にすごく近くて頭が爆発しそう。心臓がばくばく鳴ってる。頭があわあわしてて何も考えられなくなりそう。ううんなってる!
ふわふわと頭を撫でられて胸がきゅうううってなってる(二度目)。い、今、私は全力でユウを補充しているのだろうけど如何せんいつもよりキツメの抱擁に補充どころじゃない。自分から抱き付くのと、ユウに引き寄せられるのとじゃ、こんなにも違う。温かいユウの胸に芳ばしいコーヒーの香り、耳に感じるユウの吐息、腰に回ってるユウの腕。今、私はユウに抱き締められているという事実。


「…お前は煙草臭いな」

「ご、ごめん…」


すん、とユウの鼻が私の髪に埋まって(う、うわあああ)バイト上仕方のない煙草の匂いにユウが顔をしかめているのが声のトーンでわかる。ユウの言葉に今度こそ私は体を離そうとしたけど、離そうとするとすぐユウの腕が私の腰をぎゅううっと抱いてきて私の頬はユウの胸にぎゅうぎゅうと押し付けられる感じになった。でも不思議と苦しくない。苦しくないのは多分、抱き締めてくれてるのがユウだから。まるで、離れるな、と言われているようで幸せな気分になる。勘違いしてしまいそうだ。


『お疲れでーす』

『お疲れ様でーす』


でも幸せな勘違いと抱擁の時間は長くは続かない。すぐ上からバイトの人達の声が聞こえた。私の次に上がる人達が上がったようだ。タンタンと鳴る昇降口の階段の音とバイトの人達の会話に、ふと、体が冷たくなる。ユウが私の体を離したからだ。急に訪れた寒さに「あ…」なんて間抜けな声が出てしまった。ユウはくるりと私に背を向けて車のドアに手をかける。


「早く車乗れ」

「…うん」


ユウに言われるがまま車の反対に回って助手席に乗り込みシートベルトを締める。バイトの人達がまだ降りきっていないのを確認してユウが車のエンジンをかけた。エンジンと一緒に車のライトが強く光る。バックミラーに映るユウの切れ長の目を私は何処か寂しい気持ちで見ていた。何故かはわからないけど、何となく寂しい気がするのだ、とユウをじっと見ていたら、ミラー越しにユウと目が合った。ユウと目が合った事に恥ずかしさと一緒に気まずさが私を襲ってパッと目をそらしてしまった。
どうしよう、変に思われたかな。いや、ただ目が合っただけだし、いや、でも私変な顔してユウ見てたかも。


「ナマエ、コーヒー飲むか?まだ温かい、」

「…あっ、もらおうかな…!」


なんて飲めやしないユウのブラックコーヒーに自分が勝手に作り出した気まずさを脱出しようと手をかけた瞬間、ふ、と目の前にユウの顔があって一瞬。


息が止まる。


ちゅ…、と小さなリップノイズが車内に響いてからバイトの人達の声が外から聞こえた。私が小さく息を吸った後、またユウの顔が私と重なる。一段と強く香るコーヒーの匂いに目眩に似た何かが私の頭をくらっとさせた。
声が、する。だけど多分、ハイビームで私達は見えてないと思う。
だんだんと遠ざかっていく声とは反対に、ユウの衣擦れの音がやけに耳につく。そんな小さな音さえ、私はどきどきした。


「門限には、まだ時間があるよな。」

「せ、んせ…、」


ゆっくりと離された唇には、温かさが残る。いや、むしろ唇からじわじわと痺れるような熱が全身を襲う。目の前には、あの時垣間見た『男の人』の顔。ぞくぞくするような低い声が、私の唇に再びかかった。


「先生、じゃないだろ?」




暗暗裏の口付け




(好きな女はとことん甘やかすタイプ。)


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