追い掛けた約束(1/6)


「ナマエ」


誰か、私の名前を呼んだ声に振り返った。私はちょうど自宅の門扉を開けようとそこに立っていて、門扉の前に何段かの階段があるにも関わらずその人は私の目線を上へと持ち上げさせた。

黒々とした長い髪を一本に結い上げ、一目で凛とした空気が伝わる髪と同色の目は悪い意味でどきっとする程鋭い。背中まで伸びている髪につい女性なのかと勘違いしてしまうが、広い肩幅としっかりとした腰付に目の前にいるのが今世紀最大と言っていい程の美形の男性なんだと理解する。
はて、私は先程この綺麗な男性に名前を呼ばれたのだろうか。そうだとするとこの男性は見目だけでなく御声も美しいようだ。低いテノールのその声は苦味を残す甘い響きだった。


「…あ、あの……?」


だがしかし、目の前にどんな美形が現れようとも美形に呼び止められる記憶がない私はその人を前に首を傾げる。抑揚なく発せられたのは間違いなく私の名前で、私はいつこの男性と知り合ったのだろうかと頭の中の手帳をものすごいスピードでめくるのだが、最近の出来事に目の前の美形は存在していなかった。益々深くなる私の首の傾きに目の前の男性は特に気にする素振りもなく私の頭に大きな手をぽんと置いた。


「元気だったか。」


一瞬何をされるのかわからなくて大きくビクつかせた肩だが、乗せられた大きな手にバックナンバー化として擦り切れた手帳がぱらりとひとりでに開かれた。長く黒い髪、涼しい目、強く結ばれた口。私の脳内手帳が彼を思い出させるように切れ切れの思い出を走馬灯のように叩き流し込んでいく。ぱらぱらぱらとめくれて明らかになっていく記憶に、私は彼の名前をおそるおそる口にした。


「……、…おにい、ちゃん…?」

「…何だ。わからなかったのか?」


目の前の男性は私の声に少し眉をひそめ、その反応で私はこの美形があのお兄ちゃんだと理解した。お兄ちゃん。あの、お母さんの遠い親戚のお兄ちゃん。私が幼い頃、よく背中を追い掛け、いつの間にか海外へと行ってしまった、あの。


「制服、似合ってる。」

「あ、ありがとう…ございます…。」


もしかして今日の今帰ってきたのか、よく見ればキャリーケースを片手に持っているお兄ちゃんから言われた言葉にそれとなく返すが、歳の離れた久し振りに会う相手にまさかタメ語で話せるわけもなく、慌てて最後を敬語にした。絶対180以上はある背に驚いたがその綺麗すぎる顔にも驚いた。そしてその人が幼い頃の記憶の人だという事実にも驚きを隠せない。


「2年生…だったか?」

「あ、はい…。高校、2年生…です。」

「そうか。…部活帰りか?」

「いえ…彼氏の家に…。」

「彼氏?」


夕陽を背中に持つ久々に再会した美形の人に何正直に言ってるんだと思うだろうが、私だって口を開く前は友達の家にと言おうと思っていたのだが何故か口から出た言葉は愚直な答えだった。自分でも内心がっかりした答えにお兄ちゃんはあからさまに眉を顰めた。


「いるのか。」

「あ、えと……はい。」

「いつから。」

「…1年の、冬…」

「同じ高校のやつか。」

「いいえ…、大学生…。」


再会した早々なんでこんな会話しているのだろうか。お兄ちゃんは学生生活上で彼氏を作るなんてふしだらな、なんて思っているのだろうかあまりいい顔はせず、歯切れ悪く答える私に反し被せる勢いで言ってきた。そしてその勢いに圧されているのかまた馬鹿正直に答える私はお兄ちゃんからの言葉から自然と体がのけ反り、背中に門扉が当たった。かしゃん、と鳴った音にお兄ちゃんは長い睫毛がついた目を上下させ、再度私を見下した。その見下しに、一瞬呼吸というものを忘れた。


「おばさん、今日は帰ってくるのか。」

「お、母さん…?今日は…、帰ってきません…。明日の夜には…。」

「そうか。ならまた来る。」


先程の彼氏ネタにはすごい喰い付いて来たのに案外あっさりと引かれたことに何だか拍子抜けする。また来ると言われた言葉と一緒に再度頭をぽんとやられて、あ、懐かしいとか思った。私はこの手を知っている。ちゃんと覚えている。振り返りもせずキャリーケースをコンクリの上でごろごろ鳴らしてお兄ちゃんは隣の家に入っていった。隣は、お兄ちゃんの家だ。結局一度もこちらを見ることもなく自宅へと入っていったお兄ちゃんを最後まで見送った私の脳内に、何かが浮かんだ。しかし浮かんできたそれは全部モザイクで何が何だかわからない。それは私の忘れてしまっている記憶だ。きっとお兄ちゃんとの大切な記憶なのだろうが、モザイクは晴れる様子など見せなかった。


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