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エスメラルダに来て、神田は初めて眠れず朝を迎えた。正確には少しは寝たのだがそれも多分1,2時間ぐらいだろう。横になってもなかなか寝付けず、ただ寝返りを打っては溜息をついて寝返りを打っては溜息をついていた。


「忘れ物とか、無い?」

「ああ。」


そしてその後は必ずナマエの顔を思い出していた。エスメラルダの屋敷を前に神田とその馬、ナマエとパトリシアが神田を見送りに来ていた。もちろん(といえばよいのか)ナマエは街人全員で見送ると言っていたのだが、それは勘弁してほしいと神田が言って、神田が今帰ることを知っているのは姫を始め屋敷の人間だけだ。


「道中気を付けて。着いたら手紙をちょうだいね。」

「…む、」


朝露を含んだ草は朝日に照らされきらきらと輝いていた。本当に、自然が豊かで綺麗な国である。昼は真っ青な空が、夕方には夕陽が、夜は星空が、朝は朝露が。この景色が見れなくなるのは正直惜しい。


「パトリシア、世話になった。」

「とんでもございません、私はメイドですから。」

「あのチビは?」

「ティモシーならアリサの手伝いにもう出ましたよ。」

「今日は寝坊しなかったんだな。」

「寂しくて寝れなかったんじゃないですかね。」


姫の後ろに控えているパトリシアに短く礼を言い、昨夜変な泣き声を上げて神田にしがみ付いてきたティモシーの姿を探すが、もう出て行ってしまった後らしい。モノは盗むわ寝坊はするわ勉強は嫌いだわ、色々問題のある子供だが、この国にいれば問題ないだろう。そう思える。姫がいる、この国ならば。


「姫も、短い間だったが世話になった。」

「えぇ。…神田様、」

「…っ、」


左手に手綱を持ち右手を鞍に掛けると、その手の上に小さな手が乗せられた。ほっそりとした、白くて小さな手。まだ15歳という幼さを残しつつも凛とした表情を見せる少女の手を、神田は無意識に握り直していた。剣を扱う自分とは違う、小さくて柔らかくて温かい手だ。今、このまま馬に乗ってしまえばもう二度と掴むことのない手を、神田は心から放したくないと思った。


「神田、さま…?」


自分は、彼女という人物を知りたい。もっと知りたい。この国の姫として国と民を心から愛す少女の世界を、もっと見たいのだ。
驚きと戸惑いが含まれた瞳は丸く、まるで吸い込まれるような感覚に陥る。


「縁談の話が無くなっても、また、ここに来てもいいだろうか。」


片方だけの、ナマエのピアスが朝日に光った。エメラルドに美しく輝くそれは、神田の胸ポケットにもずっとあるものだ。エメラルドは緑を意味する宝石。それは大自然や癒しを連想させる。


「できるのなら、俺は…、俺は、」


エメラルドの輝きは緑豊かなエスメラルダ国の象徴。『ナマエ』とは、古代語で『美しき緑』。王子に言われるまで意味も由来も知らなかった言葉だ。それが今となっては、自分の胸をひどく苦しくさせる名前となっていた。


「もう一度貴女に会いたい。」


小さな手を取った手を引き寄せ、反対の手で彼女の頬に触れた。白い頬に指を滑らせ、柔らかい髪に流れる神田の手はとても頼り無いものであった。それに触れ続けていい資格など、彼には持ち合わせていないのだ。

彼女はいずれ、自分より名のある、きちんとした身分の男の元へと行くだろう。聡明な彼女だ。きっと誰よりも夫を支え、よき妻となる。その間でいい。その間だけ、どうか…。

するりと、彼女の髪から落ちた手は、小さな手に掬い上げられた。


「神田様。」


ゆっくりと、ナマエにより持ち上がる自分の手を、彼女は小さく微笑んでいた。


「縁談のお話、私、受けようと思っています。」

「…………は…、」


十分な間を置いて、神田は随分と間抜けな声を出した。


「先日、このお話をくださったマナの王子様にもお返事を書きました。」

「マ、マナ…、王子に…?」

「はい。ただ、縁談のお話を受けるだけで、正式に婚約するにはまだ私達はお互いを知っていません。」


握っていたはずの片方の手はナマエの言葉に力を失い、そこから抜け出した小さな手が今度は神田の手を握り直していた。神田の片手は、ナマエの両手の中にあった。


「だから、今度は私が貴方様に会いに行きます。」


見上げられた瞳は、心臓が跳ねるほど真っ直ぐで、涼しげだ。吸い込まれる、と神田は彼女の瞳に映る自分を何処か他人事のように思った。不敵とも言えるような微笑は、あの時を思い出される。初めて、彼女の気迫を感じた時。


「私、神田様を惚れさせたいの。」


挑戦的な言葉とは裏腹に悪戯っ子のように笑ったナマエに、肩透かしを食らったような神田は力なく笑った。


「今度は正式にマナに行くわ。貴方が守る国を、私に見せてくれるかしら。」

「…ああ…。」


そして包まれていた手をやんわりと戻し、片膝をついて姫の手を取る。


「待ってる。」


その甲にそっと唇を落とすと、エスメラルダの姫は頬を染めて嬉しそうに微笑んでくれた。





風が吹いた。

今まで感じたことのない爽やかな風だ。
真っ青な空に手をかざせばまるで手は透けるようで。

一人の軍人は、その空を見上げ、眩しそうに目を細めた。





豊饒と優しさの国に膨らんだ

の実


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