葡萄色の抱擁

その日の職務をようやく終えたのは、夜も遅い頃合いだった。
みんな帰ってがらんとした軍吏部で、一人片付けをし……家路に着く。
またたく星を眺めつつ、つめたい大気に吐息を煙らせ……回廊を抜け、内宮から外宮へ。賜邸の群れを軒並み越えた、その外れ……いくらか傾く自邸の目前。
「………ん?」
立ち止まり、ふと見遣れば……一階部分に明かりが点いている。
そう言えば、今日はこちらの日だったと……内心、うち頷き。きしきし軋む扉を開けた。
……案の定、来客の気配がする。
「ただいま、待たせたか」
「………お帰り」
石床の上、ぱたぱたと歩いて行けば……ぶつっとした声。
怪訝に思い、居間へ突っ込む顔の先……途端、むわりと漂う酒精のにおい。
「………こら」
「…………」
「ひとさまの家でなにをやっているんだ……」
目前、円卓に据えた長椅子の上。……はいを持ってぶっつり黙る、肌の白い男の姿。
だんまりを通すそのおもて。……既に、白皙は朱を帯びていた。
……卓上へは、酒瓶がごろごろ転がっている。
それらをちょろっと眺めつつ、らしくないなとぼんやり思った。
「……どうしたんだ」
「…………べつに」
この男は、酒精に対して己よりも幾分強い。
……だと言うのに。ぷいと明後日を向いた、その首筋までが染まっていた。
「……ふうん」
それだけを返して、男へくるりと背中を見せる。狭い地所、棚までは二歩の距離だ。腕を伸ばして探った先、窪んだ楕円をもうひとつ取り出して……ぎしぎしよく鳴る木台へ向かう。……酒臭い図体の、となり。
布と綿とをぴっちり張った、長椅子の上……どさりと、腰掛ける。
「……ん、」
「…………」
器をずいと差し出せば。……やはり、沈黙のままに瓶を傾けた。
なんだかなあと思いつつ。……たぷりと満ちた液を含んで、思わず顔を歪める。
「……なんだ、こんな安酒を呑んでやがるのか……」
「………煩い」
呆れて見せれば、むっとした様相……拗ねた子供とほとんど同じ顔。そのなりのまま、些か粗雑に素焼きを煽る。
……これでは、いつもとまったく逆じゃないか。
いったい、どういう風の吹き回しだ。……やれやれと嘆息する。
……何か、あったのか。
どうせ聞いても言わんのだろうと、ひとり肩を竦めた。それじゃあこちらはどうしようもない。
……だから。
「あたまが腐るぞ、こんなの飲んでたら」
不味い水を一気に飲み干し。相手の近くの酒瓶を、ぱっと取り上げる。
そのまま、立ち上がり……えんへと寄って納戸を開ける。
そうして。……その飲みかけを、瓶ごとどくどく庭へ返した。
「………勿体無いことを」
じろりとこちらを睨んだ相手は……しかし、いつものようにがみがみ叱る気配もない。
……なかなかに、重症だ。
また渋面を作りつつ、ふたたび長椅子へ。幾つも転がる、硝子の色味……それら全てを寄せ集め、流しに放り込む。
「こんなの、泥水だ。土にでも飲ませておけ」
ひとこと、びしっと決めたその刹那。割れ物を放った先から……がらがらがしゃんと、嫌な音がした。
……まあ、どうせ明朝片付けるのは奴だと……気にしないことにする。
「こんなので飲んだくれるより……」
声を繋ぐそのかたわら、卓の下へと潜り込み……ごそごそと床板を外した。
……きょとんとまじろぐ男の目下、ぽっかり空いた暗闇のうちへ手を伸ばし……がさがさとまさぐる。
……ややあって、ざらりとしたつめたさ。指先は、無事お目当へと辿り着く。

よいしょ、と……婆臭い声を上げ、それを引き揚げた。
「浴びるように呑むなら……これだ」
どんと卓に置いたのは、ぴしゃんと中から水音のする……窄み口の土瓶。ひと抱えはあるような。
……その先端は、粘土と樹皮とで硬く締められている。
「……なんだ、それ……」
「……さて、なんだろうな……」
粘土を引っ掻いて剥がし、樹皮を引っ張れば……ぽんと、景気の良い音。
ふわりと舞った甘露のかおり。……こちらの思惑通り、相手はその目を丸くした。
「くれてやろう」
ごつごつに節くれて、けれど真白い指先。それの絡んだ盃のうち……空になったそのなかへ、重たい土瓶を傾ける。
とぽとぽと、心地よい水音ののち……とろりと満ちた葡萄色えびいろの液体。
その深い深い色合い、高尚な風合い。
……早々探せど手にはできない、上等酒である。
「………おまえ……」
……こんなものを、どこで。
ぽかんと間抜けな男の顔を、からからと笑ってやる。
「まえ、国王から賜ったんだ。……ビビ様の追っかけを見逃す、そのお駄賃に」
「……なんということを……」
一瞬、いつもの喧しさが戻ったようで……相手は嫌味に長息した。
「いったいどこに隠しているんだ……」
「いや、おまえにばれて飲まれないように」
「おまえと一緒にするな、盗みやしない……」
また、うざったい嘆息の音。それに耳を塞ぎつつ、こちらも自ら酒を注いだ。
ふたり、こつんと器を合わせ……ちびりと舐めてみる。
長く長く醸した葡萄は、仄かな渋みのうち……まろやかに口腔へ広がる。
鼻腔の先に抜けるのは、まるで芸術品のような薫り。
……機嫌を良くしてふふんと笑えば、相手もちろりと盃を煽った。
「………うまいな」
「だろう?」
あんな下手物なんかより、しこたま酔うにはこれが良い。
得意満面に返すまま、くいっと中身を飲み干した。
さらりとした液体は、まったりしつつもくど過ぎず……やわらかなままに喉へ降り、火照るような軌跡を残して胃の腑へ落ちた。
「……勿体無い呑み方を…」
だばだばお代わりを注ぐ己を見遣り、相手が再び嘆息した。
……その口は、ちびりちびりと酒盃を舐める。
「良い酒は惜しまず呑むべきだ。おまえもそんな、みみっちいことをしないで……」
やっと空いた相手の器へ、なみなみと酌してやった。
「……ものの価値の分からん奴め…」
「分かっているからこそ」
「……減らず口を」
つんと澄まして言ってみれば、あからさまに鼻笑される。むかつく奴めと顔を顰めつ、酒のお陰でこちらの機嫌も傾かない。
そんなこんなと言い合いながら、ふたりでつぎつぎ盃を空け。
……とうとう、赤子大の土瓶の中身を……すべて飲み干してしまった。
「うん、美味かったな」
流石は上等酒、酒精も濃い。
我肝の自負は何処へやら、そんなこちらもずいぶん酔って……心地は、天を舞う。
「………ああ」
応える男の呂律は、あまり回っていない。
己の帰着の相当前より呑んでいたのだろうから、それも当然だ。
先刻までは、仄かな程度に過ぎなかった……その色味。白さにほんのり浮かんだ赤みは……けれど、今やまさしく茹で蛸の様相。耳まで真っ赤になっていた。
円木のうえ、盃は投げやりに傾き……本人は、長椅子の上でだらりと蕩けている。
……これもまた、ずいぶん珍な光景だと……内心、苦く思いながら。
じっとおもてを眺めていれば、じろりと睨まれた。
「………なんだ」
「……なんでも」
猛く雄々しい猛禽の目。けれど、その炯眼は……酒精の所為か、それとも別の真因でか……
……どこか、力無い。
その隣、ひそりと息を吐き……積広に厚い双肩を、ぐいとこちら側へ引く。
しこたま酔って腑抜けた相手は、ぷしゅうと空気の抜け出たように……この膝上へと、崩れた。
「………なにをする」
「……さて、なんだろう」
ぶつりと言った、男のかんばせ。
しかし、そのつむりは重いまま……太腿の上へ頬を乗せ、じっと動かない。
くたりと垂れた頭の布を、そっと取り払って……日に焼けた鳶の髪を、さらさら梳きつつ耳へと掛けた。
さながら……仲間うちの羽繕いに、うとうと微睡む小鳥の面持ち。
ひたりと閉じた、真白いまなぶた。ゆるりゆるりと波打つ表皮は、内包される眼球のゆえ。……おだやかな、反射の動き。
「……自棄酒呑みのご機嫌直しは大儀だな」
ふんと、鼻息をひとつ。つれづれのまま、くるりと男の耳介を撫ぜる。
常ならば、雪花石せっかせきと同じ白……しかし今は、熟れたように紅いそれ。
指先の滑るまま、同じ色味の頬の上へとたどり着く。……筋の多く、肉に欠けてかたい手触り。
火照った頬をぐりんとつつき……熱いそこへ、手のひらをぴたりと当てて。
そのまま、ごつごつ硬い喉笛まで……指腹を、這わせて。
……反応が無いのを、確かめた。
「……………」
ひそやかに、屈み込む。
ぺたり、と。……青紫せいしに刷られたくちびるへ、口唇を重ねた。
触れたそれに満足して、顔を上げれば……相手の閉じた二枚の皮は、ぱちりとひらく。
……よくよく磨いた黒檀とおなじ、ふかい虹彩。それらがふたつ、じっとこちらを見つめていた。
「………なんだ……起きてたのか」
「……………」
些か気まずい内情に、この視線はうろうろ彷徨う。
……が、特に何も言われぬまま……ふたたび、二枚の白さは下された。ちゃっかりしていることだ。
「このまま、寝ても良いぞ」
「………そうもいくか」
苦笑のまま、ささめけば。また可愛げのない返言。やっぱりいつもと立場が逆だ。
……そのくせ、どうにも頭は離れない。それどころか、ごろりと寝返って……下腹のうちへ、顔をうずめてきた。
「……甘えため」
「………うるさい」
深息を吸った音と共……その背中もまた、ゆるく上下する。
………さびしそうな、背中だ。
さて、己が仕事場へ篭ったあいだ……いったい、何が起こったのやら。
ああだかこうだか思案しつつ、男の頭を何度も撫ぜる。うちへと向いた後頭の裏……腹のなかへ、抱き込むふうに。
身動ぎもしない相手の肢体。やたらと重いその筋は、疲弊のままに弛緩していた。
「……おやすみ、ペル…」
猫背とも似てまるまる背中へ、ひたりと手のひらを当てる。
寝付けない夜……よく、この男がそうしてくれるのを真似て。
とん、とん……と。やさしく音を出す。
背面の筋は大きく、分厚く……それが幾重に覆った骨は、堅牢にふとい。けれど、いまはすべてがゆるんで眠る。
……そのうえを、ゆるやかにさすり続けた。
「………馬鹿だな……」
こんなになるまで、隠しておくんだから……
布で区切った臍のした。……あたたかく、相手の寝息が湿った気配。
その口から、決して吐かれぬ言霊は……吐息にかわって大気へ溶ける。
「………おまえは」
せめて、この膝の上……ほぞのお・・・・すらないこのうちへ、胞衣えなのうでもあれば。そう、卵殻のように……このわびしさごと包んで、ぜんぶを吸ってやれたら良いのに。
「……ほんとうに、ばかだ………」
玻璃の透かした紺青の空。
つめたく凍てつくその色は……じわりじわりと、更けていった。



(強がりの翼を畳んで、眠って)





あとがき(スクロール)





葡萄色と書いて"えびいろ"と読みます。

『嫌なことがあって自棄酒』というか我慢に我慢を重ねて疲れた感じかなと。

胎盤って胎児の出すすべてのものを浸透させて母体に吸わせるんだってね………^^




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