涙の温度は確かにあった

「昔からの友人って訳ね」

 静かで暗い部屋の中、γ は一人呟いた。手にはまとめあげられた資料。一番上にはみょうじなまえの文字が記されていた。だがこれでは足りない。資料に記されていたのは家族構成や大学までの履歴のみ。だが絶対そんな筈は無いのだ。あの瞳にはそんなちゃちな過去で生まれた闇なんかではなく、もっと深い、光も入り込めないような暗い海の底のような闇が潜んでいる。ユニを救う為に白蘭に関する情報は一つでも多く欲しい γ は無意識に指先に力が入る。手に持つ資料はくしゃりと音を立てた。



 イタリア生まれ日本育ち。日本人の両親を持つなまえは、幼い頃に日本に移った為、イタリアにいた頃の記憶は無い。一番古い記憶は、隣に住んでいた臆病な少年と公園で遊んでいた記憶。少年の名前は入江正一と言った。
 なまえは正一よりも二つほど歳が離れていたが、面倒見も良く兄弟の居なかった彼女は正一と共に過ごす時間が多かった。

 月日は流れ、高校生になったなまえは生まれた故郷であるイタリアに行ってみたいという気持ちが芽生え始める。丁度その頃、興味のある分野で一際有名だったのはイタリアにある大学であった。仕事の関係上、両親がイタリアに長期で滞在することも多い環境で育ったなまえは両親を説得し、イタリアに行くことを決意した。

 イタリアに行くことを告げた時の正一の表情は複雑そうであった。勿論その大学へ行く為には並の学力では行けないことを正一は十分分かっていたし、喜ぶべきところなのであろうが、幼い頃から共に過ごすことの多かった姉のようで親友でもあるなまえが旅立ってしまうことを素直に喜べない気持ちもあったのだろう。そしてそれはなまえも同じであった。
 だがその二年後、後を追うようにして正一もその大学へ入学し、そしてその事を彼が入学した後に知ったなまえは酷く驚いて手に持っていたファイルを全て床に撒き散らすことになる。

「驚いた?」

「当たり前じゃない!何で教えてくれなかったのよ」

「びっくりさせたくて」

 学部は違えど同じ大学に通えることはなまえにとってとても喜ばしいことであった。

 ある日、正一から紹介したい人がいると告げられ、なまえは大学内にある広場まで訪れていた。

「あ、なまえ!こっち」

 なまえに気付いた正一がベンチに座ったまま手を上げる。その隣には随分と白くて美しく、儚さを持った青年がいた。

「同じ学部の白蘭さんって言うんだ。こっちは幼馴染のみょうじなまえ」

「初めまして」

「初めましてみょうじチャン」

 その時のことをなまえは良く覚えている。彼の笑顔は優しいようで、何処か冷たさと諦めにも似た感情が潜んでいるように見えたからだ。
 性格は正一とは違うようだが、彼等はどうやら良い友人となったらしい。講義の後は三人で出掛けることも良くあった。第一印象とは違い、案外彼は楽観的で気まぐれな性格であり、快楽主義な部分もあった。お陰で彼に振り回されることも多々あったが、それなりに三人で過ごす大学生活は楽しかったと後になってから思う。
 だが周りの人間が彼に対して抱いている印象と、自分が感じている印象の違いに気付いたなまえは少しずつ白蘭の本音に近付いていく。

 それは偶然だった。講義が終わり、いつものように彼等の元へ向かおうと人通りの少ない裏道を通っていた時、曲がり角から珍しく人の声がした。この膨大な敷地内でこの通りを使っているのはなまえくらいだろうと思っていたが、そうでも無いらしい。だが聞こえてきた名前に、なまえは思わず立ち止まる。

「ごめんね。僕、君とは友達でいたいんだ」

「待って白蘭!貴方、やっぱりなまえのことが好きなの?」

 白蘭は何も答えなかった。痺れを切らしたのか、女性はなまえに背を向けたまま走り去る。そしてそれを見つめる彼の視線はとても冷たかった。ああ、まただ。一番初めに感じたのと同じ、冷たくて暗い温度。でもそれは彼女に対してだけではなく、まるで自分にも向けているような悲しい表情が見えた。

「盗み聞きしてたの?」

 彼の視界には入っていなかった筈なのに何故バレたのかと思わず体を強ばらせる。おずおずと曲がり角から一歩出ると、彼は困ったような表情を見せた。

「白蘭」

「なあに?」

「貴方……」

 そこから先は何も言えなかった。何から聞くべきだったのか分からなかった。だが彼はなまえの表情を見てから小さく呟いた。

「分からないんだ」

「何が分からないの?」

「恋愛感情が」

 そしてまたあの悲しい表情を見せる。彼はもしかしたらなまえや正一とは違った世界が見えていて、周りとのズレにずっと悩まされ続けているのかもしれない。分からない自分を責めていたのかもしれない。彼の心はなまえが想像しているよりずっと深い所できっと今もずっと誰かを待っている。思わずなまえは白蘭の手を取った。

「分からなかったとしても、それは間違いではないと思う。自分を否定しないで」

 彼は僅かに瞠目した。

「私も否定しない」

 なまえのその言葉は的外れなようで、でも確かに白蘭の心には届いていた。雨雲が覆いかぶさっていた心に僅かに差し込んだ光のように。





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