水たまりに揺蕩う闇

 音がしなくなったので終わったのかと思い、白蘭から離れようとすると「まだ駄目だよ」と彼に止められてしまった。言われた通り目を瞑ったまま離れずにいた筈が、白蘭の方から距離を取られると、ふわりと下から抱きかかえられる。なまえは驚いて彼の首元に腕を回した。

「え、なに」

「まだ開けないでね」

 未だ雨は降り続いている。傘を差していない二人の服は絞れるほど水を含んでおり、シャワーを浴びたかのように髪もびしょ濡れであった。
 敵であろう相手の声はもう聞こえない。雨音と白蘭の靴音だけが響くと、車のキーを開ける音がした。
 座席に降ろされ「いいよ」と言った彼の言葉に従い目を開ける。後部座席になまえを降ろし、自分も前の座席に座ると、白蘭は誰かに電話を掛けてから車を走らせた。後ろを振り向くことは許されなかった。

 来た道と違っていることには気付いていた。一体何処へ向かっているのだろうと思ったが、先程の恐怖を体はまだ忘れられないようで震えは止まらない上に、雨を吸い込んだ服は冷たく気持ちが悪くてどんどん心は沈んでいき、話す気にもなれなかった。
 車が停止したことに気付き、顔を上げる。運転席から降りた白蘭が後部座席のドアを開けると、再びなまえを抱き上げた。

「自分で歩ける」

「いいから」

 抗議を聞くつもりも無い白蘭はなまえを抱き上げたまま、早足で歩いていく。そういえば、ここは何処だろうと辺りを見渡したなまえの耳に入ったのは聞き慣れた声であった。

「白蘭さん!なまえ!」

 ロビーのような入口から走って此方へと向かってくるのは正一であった。先程電話を掛けた相手は彼だったのかと納得する。本来であれば、彼に連絡をするのはなまえの役目であると本人も分かっていた。己の未熟さになまえの表情はどんどん曇っていく。

「どう?」

「幻騎士を向かわせました。先程連絡がありましたが、突然の雨で通行人は誰も居らず見られていないようです。あとこれがルームキーです」

「そう。じゃあ車をお願いね」

 手短に話を済ませ、白蘭はそのまま建物内へと向かう。

「なまえは……!」

「大丈夫。掠りもしていないよ」

 それでも心配そうな表情で見つめる正一に向かってなまえは小さく「へいき」と呟いた。だがその顔は真っ青で今にも倒れそうである。正一の眉間の皺はより一層深くなるだけであった。
 中へ入ると煌びやかな装飾が目立ち、お香を炊いているのだろうか優雅な香りに包まれた。ここはミルフィオーレ基地からさほど離れていないホテルであった。正一がチェックインを済ませてある為、ルームキーに表記されている階までエレベーターで昇る。その間、二人に会話は無かった。
 白蘭の部屋ほど高くは無いが、それでも中々上の階数まで上がったと思う。ルームキーを使い扉を開け、そのままベッドルームへと向かうとゆっくりとなまえをベッドへと降ろした。

「濡れちゃう」

「大丈夫だよ。お風呂は入れそう?」

「うん。あの!もう平気……だから……」

 自分でやる。と言ったなまえを止め、白蘭は湯を張るためにバスルームへと向かった。一方ベッドルームに置いていかれたなまえは彼が出ていった扉の方を向いたまま、先程の断末魔を思い出していた。あの者達は皆死んだのだろう。当たり前だ、白蘭を相手に生きていられる者など誰もいないのだから。
 マフィアとして白蘭や正一と数年間共に過ごして来たが、彼等のお陰でなまえは戦場に立つことはおろか、人の死を目の当たりにしたことが無い。殺気に当てられることも、勿論無かった。今までどれだけ彼等に守られてきたか、なまえは知っているつもりでいたが、今日初めて敵に囲まれることを経験して、自分の想像よりもずっと彼等に守られて生きてきたんだと理解した。そしてそれはなまえの心に重くのしかかった。

「もうすぐで終わるから、行っておいで」

 白蘭に声を掛けられてからやっと彼が部屋に戻ってきていたことに気付く。彼と何年も一緒にいた筈なのにこれじゃマフィアなんて呼べないな、と自嘲をした。

「先に行っていいよ」

「僕は後でいい」

「でも……」

「それなら一緒に入る?」

 茶化すように笑いながら見つめる視線になまえの顔は真っ赤に染まる。

「入らない!」

「ははっ、じゃあ行っておいで」

 背中を押されてなまえは渋々バスルームへと向かった。脱衣所に入ってから、水を含んで重く冷たくなったジャケットやブラウスを脱いでいく。バスタブの中には乳白色のお湯が張られていて、ゆっくりと中へ入ると、とろりとしたお湯に優しい香りが広がった。こういう所でも彼の優しさを感じてしまい、なまえは鼻の奥がツンとした。
 湯船に浸かり、幾らか気持ちも落ち着いてから鏡を見ると、映った姿になまえはがっくりと項垂れた。雨のせいでメイクも崩れており、人に見せられたものでは無かったからだ。先程まではそこまで気が回らなかったが、この顔を白蘭に見られたのかと思うと正直かなり恥ずかしい。勿論メイク道具など持ってきてはいないが、この顔を見られるのであれば落とした方がましだと、なまえは頭からつま先まで全てを洗い流した。

「ごめん、長くなっ……」

 バスローブに着替えて部屋へと戻ると、白蘭は誰かに連絡をしている最中であった。ジャケットとベストは脱ぎ捨てられ、無造作にテーブルの上に放られている。通話を切った白蘭はなまえの顔を覗き込んだ。

「落とすと幼く見えるね」

「うるさい」

 そういえば白蘭にメイクを落とした姿を見られるのは初めてだったな、と後からなまえは気付いた。

「こっちも可愛いね」

「へ……」

 顔に熱が集まっていることは気付いていた。だがそれを止める方法なんてものは持ち合わせていない。白蘭の顔に掌を被せ、この真っ赤に染まった顔を見せないように抵抗する事しかなまえには出来なかった。誰だってそんなことを言われたら体温が上がるに決まっている。それに、今のは不意打ちだったからだ。心臓が大きく鳴り響いている理由なんて、それ以外に無いのだとなまえは自分に言い聞かせた。

「えーもっと良く見せてよ」

「やだ、見ないで」

「なまえチャン酷い」

 なまえの掌を退けてから「でも落ち着いたみたいで良かった」と白蘭は言った。その柔らかい眼差しになまえは困惑した。一体どれが本当の彼なのだろう。酷いことをしている癖に、どうしてそんなに優しくするの。そう叫びたくて堪らなかった。でも酷いことをしているのは自分も変わりないのだと気付くと、なまえは何度目か分からない自嘲をした。





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