心臓が焦げるにおいがする



 ゴオン。と低い音を鳴らしながら、天井に取り付けられたそれは冷たい空気を漏らしていく。薄く陽の光が透けるカーテンで外の世界と仕切られたこの部屋は、冷たい空気が流れていて心地のよい空間であった。ほんの暫く前までは。

「君、不審者に会ったんだって?」

「何で知っているんですか」

 部屋の真ん中に設置されたローテーブルを挟んで、向かいの黒いソファに座るみょうじは、訝しげな表情を浮かべながら視線を僕に向けた。

「並盛のことは何でも知っている」

 そう答えるとみょうじは暫く考え込んでから「なるほど」と小さく呟いた。何が成程なのかは全く分からない。
 僕がこの並盛に居座り始めてからもう随分と長い年月が経っているが、それでもこうして彼女に手を付けようとする者はいるらしい。プールの時も然り。
 正直に言えば面白くなかった。それだけ彼女の血が色濃く甘い香りを放っているからであろうが。
 それまで引き寄せられるようなことも無かった者たちも、彼女の血からは逃れられないのだろう。何せこの近辺で彼女ほど強く香る血を持つ者など、あの子が死んで以来一度も現れていないのだから。今を生きる若い者たちからすれば災難に近い。あれは本能を擽るような甘美な香りだ。
 夏休みに入ってから、みょうじは約束通り何度か学校に訪れている。場所は図書室であったり、今日のように応接室であったり。目の前のソファに座る彼女は、苦虫を噛み潰したような顔をしながら口を開いた。

「夕方、自宅に帰る途中でふらふらとよろめいている人が急にこっちに向かってきて……家の近くだったのでそのまま走って逃げ切れましたけど……」

「ふうん」

「気のせいかもしれませんけど、なんだか最近こういうのが多い気がして……」

 表情を変えぬまま地面を数秒見つめて、みょうじはそのまま固まった。何かを思い出しているらしい。
 確かにあのプールでの出来事があってから、彼女に降り掛かる悪い出来事というものは増えている。何故知っているのかと彼女の言葉を借りるならば、僕が雲雀恭弥であるからだ。良い話も悪い話も、並盛の大抵のことは耳に入る。
 固まったまま過去の出来事を振り返る彼女を差ほど気にもとめず、僕は少し前から用意していたものを教卓の引き出しから取り出す。そしてそのまま彼女が座るソファまで回り、隣へと腰掛けた。ある程度気持ちを作り、少しだけ彼女の方へと寄れば、ギシ、とソファが静かに軋む音が鳴る。すると彼女はハッとした様子で僕に視線を向けた。

「急に、なん、ですか」

「君が呆けていただけだろう。はい、これ」

「腕章……?」

「付けていれば、少しは効果あるんじゃない?」

 みょうじに差し出したのは風紀委員会の腕章だ。他の風紀委員が付けているものと何も変わらない、ただの腕章。少しだけ違うとすれば、ここ最近僕がずっと持っていたものだ。しかしそれだけでも彼女に降り掛かる悪い出来事には効果があるだろう。
 彼女は数瞬目を見開いて、呆けた表情をしてから「確かに効果はありそうですね」と柔らかい視線をそれに向けた。彼女が思う“効果”の理由と実際の理由は全く違っているのだが、わざわざ説明する気は初めから無い。そのあと彼女は「ありがとうございます」と言ってから、鞄にそれを付けた。何の、躊躇いも無く。
 自分の匂いというものは案外分からないものだ。それは人間でも僕でも変わらないことであり、僕は自分の匂いにそれほど敏感ではない。しかし、僕以外の他の者は別だ。みょうじから強く放たれる甘美なる香りにこれから少しずつ僕という存在を感じられるようになるだろう。それを自分で判断出来ないことは少し残念ではあるが、想像しただけでも何かが満たされるような気がした。
 想像して、思わず気持ちが昂って、気付けば彼女の腕を掴んでいた。彼女はびくりと体を小さく揺らすと、大きく目を見開いて真っ直ぐ僕を見遣る。目が合うと、時が止まったように静寂が二人を包んだ。右手で掴んだ手首からは、とくとくと小さく脈打っているのが伝わる。親指でゆっくりとそこをなぞるように動かしてから「そいつ等に、何処も触れられてはいないかい」と彼女に問うた。

「触られては、ないです」

「そう」

「雲雀、先輩?」

 眉を下げ、困惑した表情を浮かべながら、みょうじは様子を窺うように下から顔を覗き込んだ。純真無垢な、透き通る瞳がじっと僕を見つめる。僕のこの、薄汚れた支配欲に気付かぬまま、彼女はこれからを過ごすのだろう。
 甘美なる香りは僕をも惑わせる。親指の先から強く感じる手首の脈の音。ここに、歯を立てて、舌を這わせて、血を舐めとったら、どんなに心地がいいだろう。あの子は苦痛に顔を歪ませるだろうか、苦しげに吐息を漏らすだろうか。考えただけでもぞくぞくとした何が体中を這いまわる。そして、

「、雲雀さん」

 はっとして、もう一度みょうじの瞳を見た。透き通る瞳の奥には、僅かながら不安が見え隠れしている。思わず強く手首を握っていたことに気が付いて、無言のまま静かに手を離す。

「心配、してくれたんですよね」

 みょうじは僕の返事を待たぬまま「ありがとうございます」と呟いた。心配、なんてそんな清らかな感情ではない。一瞬でも血に惑わされ、彼女とあの子を再び重ねて合わせていた。気付けば途端に後ろめたさが僕を襲う。その瞳にずっと見つめられていると、心臓が焼けてしまいそうだった。

「油断しない方がいい」

「え?」

「案外、すぐ近くで狙われているかもしれないよ」

 みょうじは少しだけ目を丸めてから、柔らかく微笑んで「でも、雲雀先輩が倒してくれれば問題ないですよね」と先ほど渡した腕章を指でなぞった。ああ君は、本当にどこまでも変わらないんだな、とその後ろめたさに追い打ちを掛けるような気持ちが襲ってきて、急に雨に降られたような感覚に陥った。
 ねえ本当は、彼女の中そこにいるんじゃないの。そう尋ねたくても、返ってくる言葉は無いのだろう。本当に、どこまでも僕を振り回す人間だ。本当に、どうしようもない。
 ゴオン。と冷たい空気が二人の間に流れていく。先ほどまで心地よかった筈のそれは、いつの間にか指の先まで冷たくなるほど居心地の悪いものになっていた。


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