コットンパールみたいな泡沫

※数年後設定

「ん? どうかした?」

 ずしりと背中が重くなって、ぎゅうぎゅうとお腹が苦しくなる。つい数分前、早くも慣れたようにミヒャエルが帰ってきたかと思えば、突然後ろからホールドされて身動きが取れなくなってしまった。夕飯の準備をしていたというのに、このままでは動けそうにもない。
 もう一度名前を呼んでみる。けれど、彼はうんともすんとも言わなかった。またなにかあったのだろうか。彼はよく色んなことに怒っているけれど、その内容までは教えてくれないので詳しいことはよくわからないのだ。とはいえこうしてくっついてくるくらいだから、程度でいえばそれほどでもないのだろう。本当に怒った彼はこんな可愛らしくおさまってなどいられない。
 普段はドイツで活躍する彼だけれど、青い監獄ブルーロックが開催するメディア向けの定期イベントに招集された理由で、つい一週間ほど前から日本に来ているのだ。広い施設であるから何人泊まろうが問題ないだろうし、練習や調整のことを考えれば間違いなく青い監獄向こうで生活したほうが楽だろうに、どうしてか彼はわたしの家に転がり込んできた。それも、前日までなんの連絡もなしにだ。

「ご飯まだいらない?」

 普段からもそうだけれど、わたしの家に上がり込んだからと言って遠慮などをしない彼は、相変わらずの我儘っぷりを発揮した。家が小さいとか、夕飯はまだかとか、なんでもっと早く起こしてくれないんだとか。例を上げればそれはもうたくさんだ。そんなに言うならブルーロックに行けばいいじゃないかと、軽い口喧嘩もしたのだけれど、結局彼はそのままわたしの家にこうして帰ってきている。なんだかんだわたしもそれが少しだけ嬉しくて、応えられる限りは応えようとしているから、余計に我儘になってしまっているのかもしれないけれど。どうやら彼は日本食が(といっても家庭料理だが)好ましかったようで、最近は手のかかるようなものばかりリクエストしてくる。

「もう……本当にどうしたの?」

 未だ答える気のないミヒャエルに痺れを切らして、辛うじて動かすことのできた首を最大限にまで傾けて下から覗き込む。するとそこにはこれ以上ないほどむっとした、不機嫌そうな表情を浮かべた彼がいた。

「なんでそんなに怒ってるの」
「怒ってない」
「怒ってない人はそんな怖い顔しません」

 つん、となめらかな頬をつつくと、眉間にあった皺がさらに深くなる。これのどこをどう見たら怒ってないように見えるのだろう。動けないから一旦離れて、と視線で訴えてみても、彼は微動だにせずじとりと見つめてくるだけだ。随分とご機嫌ななめのようらしい。諦めてどうにか作業を続けるかと前に向き直ってみても、今度はさらにお腹が苦しくなるだけで。まるで構えと訴えているようだと思った。

「わかった。先にお風呂にしよう。そうしよう」

 ミヒャエルはお風呂が好きなようだった。以前ブルーロックにいたとき、施設内の大きな銭湯が気に入ったらしい。もちろんそれと比べてしまえば我が家のお風呂は狭いので、例に漏れず小さすぎないかと文句を言ってきたのだけれど、結局ほとんど毎日のように入っている。ドイツでは水質や習慣の違いから、ほとんどシャワーのみで済ませることのほうが多いらしい。そもそも浴槽自体が家に設置されていない場合も少なくないそうだ。

「だからミヒャ、離れて」
「まさか……このオレに掃除をさせる気か?」
「そうじゃないって。離れないと掃除も準備もできないでしょう? まあやってくれるならそっちの方が有難いけど」
「絶対やらん」
「そこはもう少し優しさを持ってよ」
「俺は客人だ」
「勝手に上がり込んできたね」

 けれどそう言いつつも、彼はわたしの後ろを着いてきて、お風呂の準備をするさまを真後ろから眺めていた。なんなのだろう。怒っていたり離れなくなったり。不意に、昔実家で飼っていた甘えん坊な猫のことを思い出した。あの子もこんなふうに、構って欲しいときはどこに行っても着いてきていたような気がする。そんなことを言えば絶対に不貞腐れてしまうので、ミヒャエル本人には言えないけれど。

「おい、なんでお前の着替えは持ってこないんだ」
「なんでって、ミヒャ先に入りたいでしょ? わたしはあとでいいから、音が鳴ったらすぐ入っておいでよ」

 そう言うと、彼は僅かに不服そうな顔をしてわたしを見つめた。今度はなにが気に入らないのだろう。むすっとした顔はいつもより少し子供っぽく見えた。

「一緒に入ればいいだろ」
「一緒に……?」
「何か問題でもあるか?」
「……なくな、いや、あるけど……。そもそも、ただでさえ狭いって文句言ってたじゃない」
「特別に今日は許してやる」

 まるでわたしが強請ったような言いぐさだ。するとタイミングよくお湯張りの予告音が鳴ると、ミヒャエルはわたしの着替えも掴んで浴室へと向かっていく。わたしは慌ててキッチンに出しっぱなしだった食材を仕舞い、彼のあとを追った。そうして脱衣場を覗けば、もうすでに上裸になっていた彼と目が合う。

「ほ、ほんとに入るの?」
「一緒に入った方が早いだろ。それともなんだ? 脱がせて欲しいのか?」

 あからさまに反応してしまうから、面白がられるのだろう。案の定彼はにやにやと笑みを浮かべながら浴槽へ足を伸ばしている。バスボムを入れたから、中はもこもこの白い泡で溢れていた。

「ほら、さっさと来い」

 う、と一瞬たじろいでから、腹を括って服を脱いでいく。裸を見られるのも、一緒にお風呂に入るのも、別にこれが初めてではない。突然言われたから、驚いてしまっただけだ。タオル一枚掴んで、そろりと浴槽に足を伸ばして浸かると、後ろから引き寄せられて彼の足のあいだにすっぽりとおさまる。

「……横暴」
「なんとでも言え」
「ご飯作るの途中だったのに」

 すっかりご機嫌になった様子の彼が、ふう、と息をつきながら浴槽に背を預ける。するとわたしの体もまた後ろに傾いて、とん、と彼の胸に背中がぶつかった。

「それにしても、」
「うん?」
「二人で入ると余計に狭いな」
「……今すぐ出てってもらっていいですか?」
「引越ししたらどうだ? 俺が部屋を選んでやる」
「貴方の感覚で選んだ部屋の家賃がわたしに払えるとでも?」
「何言ってんだ、借りるんじゃなくて買って……いや、なんでもない。そうだな、お前には無理だな」
「はい。なので、狭いお風呂で我慢してください」

 そう言うと、ミヒャエルは少し黙ったのち、「なあ」とわたしの名前を呼んだ。そしてわたしの肩に顎を乗せ、すり、と顔を寄せる。

「いつになったらこっちに来るつもりだ」
「え?」
「俺はあんまり気が長い方じゃない。よくわかってるだろ?」

 今までも、何度かドイツに来いと言われていたけれど、そのたびにわたしはなんとなくはぐらかして、答えることを避けていた。なんて言おうか。小さな部屋にふたりきり。誤魔化すのは難しいだろう。
 しかしわたしが口を開くより先に、ミヒャエルはわたしの髪をくしゃくしゃと撫でながら立ち上がって、シャワー前のバスチェアに座った。

「いや、いい。どうせお前が折れるのが先だ」
「それじゃ結局決まってるようなものじゃない」

 そう言いつつも、わたし自身、きっとそうなるだろうなと心のどこかで思っていた。ただ気持ちの整理がついていないだけで。すると彼もまた「当たり前だ」と、なにひとつ間違ってなどいないかのように自信を持って言い切った。

「待ってやってるだけ有難いと思え」
「そうなのかな……」
「無理やり連れていくことだって可能だぞ」
「待っててくれてありがとうございまーす」

 気の抜けた返事をすれば、ミヒャエルはふん、と鼻を鳴らしながらハンドルをひねって、頭からシャワーを浴びた。そうして濡れてくっついた髪を鬱陶しそうにかきあげる。こうして横顔を眺めていると、どうして彼はわたしと付き合っているのだろうと思えてしまう。それこそドイツにまで連れていこうとするくらいには、彼はわたしのことが好きなようだった。……自分でもまだ少し、信じられないけれど。
 すると不意に目が合うと、彼は「ん」と短くわたしを呼びつけて、目の前にとんとシャンプーのボトルを置いた。どうやら髪を洗って欲しいらしい。以前やってあげたのがお気に召したようだ。

「そこに置いたタオル取って」
「めんどくさい」
「じゃあやらない」
「……」

 薄い目で睨みつけたのち、彼はようやくタオルを取ってわたしに手渡した。仕方ない、やってあげようか。昔、ミヒャエルに髪を褒められてから調子に乗って奮発した高いシャンプーを手のひらに乗せて、ふわふわの泡を作り、彼の髪を包み込むように馴染ませる。
 甘えているのだろうと思う。わたしの前ではかっこつけしいで、弱い部分を見せたくない彼なりに。それがわかるから、どんなに我儘でも突っぱねることができなかった。きっと彼が甘えられる相手なんて、ほんの僅かだから。


「見て見て、ミヒャ」
「なんだ?」
「泡でツノできた」
「俺の髪で遊ぶな」


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