ナイトライト

※ネタバレ等は無いですが本誌読了後に書いています。

 夜明け、目が覚めて、わたしはまず目の前に見えた彼の寝顔をじっと見つめる。そしてなめらかな肌に指を滑らせ、瞼の上にそっとキスをする。音もなく、祈るように。するとぴたりと貝殻のように閉じられていた睫毛が小さく揺れて、くぐもった声を上げながら彼が目を覚ます。

「ミヒャエル」

 んん、と掠れた音が返ってきて、ゆっくりとした動作で抱き込まれる。わたしよりもうんと大きい彼だから、もちろん腕は重いしのしかかられたときには苦しい。それでもぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱きしめられるとわたしはひどく嬉しくなる。寝惚けて半分無意識な状態の彼が、当たり前のようにわたしを抱きしめ、顔をうずめる姿が可愛くて仕方ないからだ。
 覚醒する前の、この夢みたいな時間がずっと続けばいいのにと何度も思ったことがある。


 俺に着いてこい、なんて、ロマンチックなことを平気で言う。自信に満ち溢れた態度、表情はなにひとつ違和感なんてない。けれどそう言えるほどの、経験と過去があることをわたしは知っている。そしてそういう言葉を零すたびに、自分に言い聞かせていることもなんとなく気づいている。絶対なんてないことを、彼だってきちんとわかっているからだ。
 不安定な世界にいる。努力は裏切らないというけれど、成果が等しく、同じ速度をもって進んでいくとは限らない。だからこそ眩しいその先に、ただひたすらに進んでいるのだと思う。誰も追いつけないように。描いたゴールのその先に。そしてその景色を、彼はわたしにも見せてくれると言ったのだ。思わず泣いてしまいそうなほどの強いまなざしを持って。それでも最後には余裕そうな微笑みをたたえて顔を覗き込むものだから、本当に泣いてしまったのだけれど。


 鈍く、空気が震えるほど大きな音が聞こえてきたとき、心臓のあたりがきつく軋んだ。まるで土砂降りに見舞われたかのように体が冷たくなって、足が竦んで動けなくなる。ミヒャエルが壁を殴りつけたのだと、わかってしまったからだ。壁越しで姿かたちは見えないけれど、途切れ途切れに聞こえる彼の怒気を含んだ声と過去の記憶と重なって、すぐに想像することができた。壁に背をつけるように立ち止まって、瞼を閉じ、耳をすませ、息をひそめる。
 クラブハウス内にあるこの一角は、ミヒャエルが一人きりになりたいときによく来る場所だ。一部の人間だけが知っている。誰も近寄らないところ。わたしは彼の姿が見えなくなったときに、こっそり仕事を抜け出してこの場所に訪れている。
 光が強ければ強いほど、陰もまた色濃いものだ。それを知っているのに、わたしはその陰に触れることを許されていない。わたしだけではない、彼は誰にもそれを許していないのだ。
 強いからこそ、なのだと思う。ここで言う強いというのは、技術面に関しても精神的な意味でもだ。強いからこそそれを実行することができる。自分に厳しいからこそ誰にも許せない。そしてそれはきっと、ミヒャエル自身も。弱い自分は必要ない。そんな部分を許せない。だから彼の中には彼自身にさえも愛されない部分があって、ずっと彼の中で取り残されたまま、ひどく暗い闇の奥に潜んでいる。けれども、なにひとつ必要ないものなんてないのだ。だからこそわたしはその部分まで、ぜんぶ、愛したいと思う。ミヒャエルが愛せない部分まで。彼が愛せないのなら、わたしに愛させて欲しい。それでも彼はそれを望んでいないから、わたしはそこに手を伸ばすことができない。自分勝手なことを言っているのはわかっている。けれど、もどかしいと思う、悲しいと思う。彼のことが、だいすきだから。彼の全部がだいすきなのだ。これ以上ないくらい。なににも代え難い、唯一のひとだから。
 そっと息をして、壁の向こうに思いを馳せて、わたしはいつも彼に打ち明けることなくそこを立ち去るのだ。


 家で夕飯の支度を終えたところだった。ミヒャエルの気配がしなかったので、わたしは彼の姿を探して家の中を歩いた。
 なんら難しいことはなく、すぐに彼を見つけた。彼は書斎にあるソファで転寝をしていた。すでに日は落ちて、窓の外も部屋の中も薄暗いのに、灯りひとつ点いていなかった。
 名前を呼んでみても、返事がない。耳をすましてみれば、息がつっかえるような小さな音が聞こえた。うなされているように見えた。

「ミヒャエル」

 はっとしたように彼が目を開いて、わたしの腕を掴みあげた。わたしよりも遥かに大きな手が、手首をきつく締めつける。それでもわたしは痛みなんかよりも、彼のことが心配で仕方がなかった。彼が苦しそうなことがなによりも痛いからだ。憤りが滲んだ瞳と交わる。ゆっくりと焦点が合うように、わたしを見つめた。

「なまえ……?」
「魘されてたの」
「……そうか」

 しばらくして、彼はまた「そうか」と独りごちた。わたしは彼の指先がひどく冷たいことに気がついた。

「お水、持ってこようか」
「いや、いい、平気だ」

 ちくたくと時計の秒針の音が部屋の中を満たしていく。ミヒャエルはわたしの腕を掴んだまま、しばらく呆然としたように黙りこくっていた。額にほんの少しだけ汗が滲んでいる。そっと触れれば、彼は僅かに眉間に皺を寄せた。わたしはそこへキスを落とした。音のない、静かなキスだ。彼は一瞬目を閉じて、それから強引に、あっという間にわたしを引き寄せた。
 膝をついたソファの革地がやわらかく沈む。くしゃりと皺がついてしまいそうなほど、彼はわたしの服を掴んだ。それでもキスの仕草だけはひどく優しくて、そっと触れてから、角度を変えて淡く食んだ。
 彼から送られるキスはいつも優しい。途中でわたしの耳に髪をかける仕草も、頬をなぞる指先の感触も、優しさに溢れていた。わたしは彼に愛されていると、実感できるようなそれだった。それはどうしようもないくらい嬉しいことなのに、どこか寂しいと思ってしまうわたしは本当に我儘だと思う。もっと、息継ぎもままならないくらいめちゃくちゃなキスをしてくれたらなんて。怒りに身を任せて、悲しみに身を沈めて、わたしに触れてくれたらなんて。それが彼なりの優しさで、愛し方なのだとわかっていても、全部が欲しくて全部を愛したいわたしには寂しく思えてしまう。
 この時間だけでもいいから、彼を脅かすすべてのことがなくなればいい。彼の頬に両の手を添えて、祈るようにたくさんキスを落とした。くちびるはもちろん、額、瞼、頬、鼻先。ミヒャエルは全てを受け入れるように目を閉じていた。

「擽ったい」
「ん、ごめんね」

 なめらかでやわらかい彼の髪を撫でながら、抱きつくように首に腕を回した。すると彼もまたわたしを抱き寄せ、膝の上に導かれる。

「お前の心配性なところはどうにも直らないな」
「心配性なんてことないと思うけど……」
「自覚のないところが一番たちが悪い」

 くっついた部分から伝わる心音は、異常なく穏やかだった。それが一番わたしを安心させる。──しんと静まった夜の、暗く小さな部屋でふたりきり。これ以上ない幸せかもしれないと思った。

「もう少ししたら夕飯できるからね」
「ああ、わかった」
「電気つけようか」
「いや、お前がいるからいい」

 どういうこと? と口を開きかけたところで、ミヒャエルがわたしを強く抱きしめたのでその言葉は尋ねずに終わった。触れた部分からじんわりとあたたかくなっていく。このまま二人が重なって、奥に触れられたらいいのに。けれどそれが叶ったとしても彼は幸せにはなれないだろう。彼が幸せになる術に、わたしという存在はあまりにもちっぽけだから。それでも彼のすべてを愛することは、たとえどんなことがあっても変わらない。それだけは間違いなく、誓って言えることだ。


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