優しい魔法

※数年後設定

 忙しい日々や時間のあいだは自覚がなくとも、あとになってからどっと疲労感に襲われることがある。それは多忙な期間が終わったときや、はたまたほっと息をついた瞬間など、タイミングはさまざまだ。けれども一貫して言えることは、自覚がなかったぶん、その差に異様な倦怠感が残る。
 そしてわたしの場合、その 気持ちがほどける・・・・・・・・瞬間は彼の顔を見たときらしい。

「おかえり」

 当たり前のように家にいて、当たり前のようにわたしを迎える。それもそうだ。ここはわたしの家であるけれど、豹馬くんの家でもあるのだから。彼が遠征帰りなこともあってこうして家で顔を合わせるのは実際のところおよそ一週間ぶりなのだが、なんだかとても久しぶりに会ったような心地さえする。ちょうどそのころから忙しい日々が続いていたから、余計にそう感じるのかもしれない。
 突然のハプニングはわたしの意志とは関係なく重なるものらしい。まるでほつれた糸がみるみるうちに形を崩していくように、よくないことが立て続けに起きたのだ。ひとつが欠けたら今度はそれを補おうとした部分が綻びて……。そういう悪循環にどんどんと巻き込まれているうちに、あっという間に一週間が経っていた。
 リビングに入室したまま立ち尽くすわたしに、豹馬くんは不思議そうに首を傾けてから立ち上がり、わたしの顔を覗き込んだ。

「どしたん?」
「あ、ごめん。なんだか久しぶりな感じがして……豹馬くんもおかえり。遠征お疲れ様」

 もっともらしいことを言って、誤魔化すように笑う。疲れているのはきっと豹馬くんもそうだから、あまりだらしない姿は見せたくない。なんというか、彼には格好悪いところを見られたくないのだ。それは年の差から生じる、幻滅されたくない気持ちだとか、しっかりしなくちゃという謎の使命感からくるものなのだと自覚はしているけれど、なかなか取り払うこともできずに……というより今後もそう簡単になくすことはできないと思う。

「ご飯まだだよね? 荷物置いてきたら作るから、ちょっと待ってて」

 忙しくて下準備などはできていないけれど、今日帰ってくることは把握していたので材料だけは揃っていた。メニューのラインナップは以前作って好評だったものたちだ。

「はいストーップ」
「わっ……と、豹馬くん?」

 すると彼の手がわたしの腕を掴み、そっと引き込んだ。ぐらりと体が傾いて、とん、と背中がぶつかる。

「なんかいつもより元気なくね?」

 指摘されたことと、突然近づいた距離にびっくりして思わず肩が震える。そんなわたしに彼は後ろからハグをして、わたしの顔をまじまじと見つめた。なにも悪いことはしていないはずなのに、なんだか悪事がばれたような居心地の悪さがあった。

「隈もあるし」
「えっと」
「眠れなかった? 俺がいない間になにかあったとか?」
「ううん全然大したことじゃないよ。いつもよりちょっとだけ仕事が忙しかっただけで……」

 本当は、それが原因で怒られたりもしたのだけれど。巻き込まれた形とはいえ、しっかりと怒られればしっかりと傷つきもする。度重なるハプニングと相まって、少し自信もなくしつつあった。あまり人には見せたくないし見せるつもりもないのだけれど、わたしはある一定のキャパシティを越えると勝手に涙が溢れてくるタイプだったので、昨日までは家でひっそり泣いたりもした。ほんの少しのことだったし、泣いてすっきりする性格でもあるから大事ではないけれど。それでも彼はわたしの返答が不満だったらしい。訝しげな視線を寄越し、お腹に回した腕に力をこめた。

「豹馬くん苦しいよ」
「それ絶対ちょっとじゃねーだろ」

 むすっとした顔はいつもよりほんのちょっとだけ幼さが目立った。けれども行動はあまりにもスマートで、くるりとわたしの体を反転させると迎えるように両腕を差し出す。

「ん」
「豹馬くん?」
「俺は遠征ですげー疲れたから、癒して」
「……」

 きっと、わたしの顔は情けなく歪んだと思う。彼はこういうことができる人だった。わたしが素直に甘えられないことも全部知っていて、そのために理由をつけてくれる。わたしよりもうんと大人で、弱さも強さも知っている人だ。
 そろりと腕を伸ばす。すると彼の手がわたしの背に回って、ぎゅうっと力強く抱きしめた。触れる体温のあたたかさにほっと力が抜けて、視界が緩やかに滲む。やわらかい場所を求めるように、引き寄せられるように擦り寄れば、彼の大きな手がわたしの背を優しく叩いた。わたしの身に起きた、さまざまな記憶が脳内で浮かんでは流れていく。

「……今週ちょっと、色々あってね」
「うん」
「仕事が忙しくて、少し怒られたりもして……バタバタしてたからいつもよりちょっと疲れちゃって……豹馬くんの顔を見たら知らずのうちに張っていた気が緩んじゃったみたいで」

 ──そんなことかよって感じなんだけど……。

 曖昧にそういえば、豹馬くんはわたしの頭を撫でたのち「そんなの他人が決めることじゃねーじゃん」と、なんてことないように言った。比べる必要だってないし、どっちが大変だとか疲れただとか順番なんてものもない。潔く、言い切った。その言葉に救われた気がして、段々と力が抜けていく。癒されているのは確実にわたしのほうだった。

「よしよーし」
「ここぞとばかりに子供扱いしてくる……」
「だってなまえ、こうしないと甘えないから」
「う……」

 意地を張っていることも、余裕があるように振る舞おうとしていることも、本当はバレているのだ。それでも素直になりきれないわたしに、豹馬くんはいつも手を差し伸べてくれる。すると図星を突かれてなにも言えないわたしに、彼はどこか意気込んだように「よし」と呟いた。不思議に思って顔を上げれば、明るげな優しい瞳と目が合って、思わず見蕩れる。

「今日は俺が飯作るよ」
「えっ? 大丈夫?」
「大丈夫ってなに? 別に飯くらい作れんだけど」
「え、いや豹馬くんも帰ってきたばかりで疲れてるんじゃないかと思って……」
「むしろいつも任せっきりだろ? こういう時くらいやるよ」

 豹馬くんが料理をする場面はこれが初めてではない。初めてではないけれど、彼の料理は少々豪快なので、見ていて少しハラハラするときがあるのだ。元よりじゃあよろしくねなんて投げ出すつもりもないけれど、彼の作業はとても気になってしまう。しかしそうこうしているうちに彼はやる気に満ち溢れた様子で、「さっきちらっと食材は見たんだよな〜」とキッチンに向かうものだから、わたしは慌てて荷物を置いて追いかけたのだった。仄暗い気持ちが少しずつ晴れていることに口角を緩ませながら。


- ナノ -