流星ときみだけ

 ミヒャエル・カイザーは比較的眠りが浅いほうだ。寝つくのにも時間がかかるし、睡眠時間も短い。元々ショートスリーパーなことから日常生活にそれほど支障はないけれど、しかしときどき眠りの浅さに困ることもある。
 星が綺麗な夜だった。
 その日、カイザーはどうにも寝つける気がしなかった。シーズン真っ只中、絶対に失敗の許されない試合が近づいてきているためか(もちろんカイザーにとって全ての試合において負けることは許されないのだが)、そのほかでの心理的要因か、とにかく眠気がやってくる気配が微塵もなく目が冴えていた。こういうときは無理して眠ろうとすると余計に上手くいかないのでたちが悪い。
 真っ暗な寝室で、静かに上体を起こしたカイザーはそっと目元に親指と人差し指を宛がった。実のところ昨日もよく眠れなかったのだ。さすがに何日も続かれるといくらカイザーでも支障が出てくるし、少々苛立ちもする。感情のコントロールは比較的得意なほうであるが、それも睡眠時間が削られれば難しくもなってくる。
 無性に、彼女の声が聞きたいと思った。
 この家にはカイザー以外にもう一人住人がいる。気がついたらカイザーの心に居座っていた、唯一無二のパートナーだ。彼女と暮らし始めてから早数年。お互いのことはそれなりに理解し合っていて、正直もう彼女以外考えられないと思えるくらいにはこの生活に馴染んでいた。
 自室とは別に共用の寝室がある。普段はそこで眠ることが多いのだが、試合前や調整日など、カイザーのコンディション次第でこうして別室で眠ったりもする。カイザーが自室で眠るときは、どうやら彼女も自室で眠っているようだった。曰く、広いベッドで一人で眠るのは寂しいからだそうだ。そういう可愛らしいことをさらりと告げるような人だった。
 時刻はすでに深夜一時を過ぎていて、当然彼女は間違いなく眠っているころだった。さすがに自分が眠れないからと言って、彼女の自室に向かい、わざわざ起こすようなことはしたくないし、するつもりもない。しかし無理だとわかるとなおさら、彼女の顔を見て、触れて、声が聞きたいと思った。それは間違いなく、彼女でなければ駄目だった。
 それに気づいたとき、カイザーははたと我に返って静かに驚いた。自分はずっと、一人で生きていけると思っていたからだ。確かに今の、彼女と過ごす日々にある程度満足はしていたし、それ以外を考えたことはほとんどなかったけれど、こんなふうに自分が一人であると実感したときに、まさか彼女に会いたくてたまらなくなるだなんて思ってもいなかったのだ。ふっと息を零すように笑って、くしゃりと垂れ下がった前髪を握りしめる。認めた瞬間、その欲は大きく膨れ上がったからだ。
 真っ暗な廊下を進み、カイザーはリビングへと向かった。結局気づいたところで押しかけるつもりもない。ミネラルウォーターでも飲んで、ひとまず落ち着こうと思ったのだ。
 そしていくらか進んだところで、カイザーはそのリビングから薄らと明かりが漏れていることに気がついた。もしかして電気を消し忘れていたのだろうか。しかし今晩はカイザーのほうが先に寝室に向かったので、消し忘れたとしたら彼女のほうだろうとすぐに思い直した。

「……どうしたのミヒャ」

 扉の隙間からなかを覗き込んだ瞬間、奥から聞こえてきたのは驚いたような彼女の声だった。どうしたの、なんて、それはお前もそうだろうとカイザーは思い、「こっちの台詞だ」と少し遅れてそう返事をした。
 なぜこんな時間まで起きているのか、もちろんそれも気にはなったけれど、眠っていると思っていた彼女が起きていて、今目の前にいることにカイザーは密かに安堵していた。驚いたように目を見開いたままの彼女が、手に持っていたマグカップをローテーブルに置く。誘われるように、カイザーは彼女のもとへと向かいソファの隣に座った。そしてそのまま腰に腕を回し、自分のほうへ抱き寄せた。

「っ、わ……」
「……」

 すり、と彼女の髪に鼻をうずめるように擦り寄れば、彼女が普段使っているヘアオイルの香りがした。彼女は驚いた様子でこちらに首を傾けたが、深く尋ねることはなく、カイザーに応えるように身を預けた。
「こっち向いて?」
 見下ろせば、彼女のまっすぐな瞳と目が合って、それから細い指先が目元をなぞった。そしてそれはするすると頬から顎へと下り、掬うように両手で包まれる。

「また眠れなかったのね」
「……今日だけだ」
「嘘ばっかり」

 彼女の手はシルクのように肌触りがよくて、柔らかかった。じんわりと伝わる温もりが、余計に先ほどまで彼女を求めていたカイザーに染み渡る。思わずその温もりに浸るように目を閉じれば、彼女の手がすりすりと眦を撫でる。

「わたしもね、眠れなくて。さっきハーブティーを入れたところなの」
「こんな夜中にか?」
「こんな夜中によ。ミヒャだって人のこと言えないでしょう?」
「俺は水を飲みに来ただけだ」

 そう言うと彼女は子供のようにくすくすと笑いながら、「じゃあわたしのハーブティーはあげない」と言って、引き寄せるように首に腕を回した。そしてそのまま、髪を優しく梳く。カイザーは誘われるように再び目を瞑り、力を抜いて、彼女にもたれかかった。

「今日は一緒に寝ようよ」
「……ああ」
「眠れなかったら、朝まで付き合ってあげる」
「そう言ってお前はいつも寝るだろう」
「ミヒャの隣だとよく眠れるんだもん」

 しかしそれはカイザーもまた同じで、彼女が話すたびに、少しずつ穏やかな気持ちになるのを実感していた。さわさわとしきりに吹いていた風がそっと止むような、寄せては返す波が静まるような。すると途端に手元のぬくもりを離したくなくなって、彼女の腰に回した腕に力を込める。
 ちゅ、と彼女のくちびるが自分の頬に触れた。そして擦り寄るように身を預けると、安心しきったように深く呼吸をする。そのリズムはカイザーのなかにある強ばりのようなものもほどいていって、やがてようやく冴えていた意識が自分の中心に戻ってきたような気がした。

「戻る?」
「ん……」

 欲しがるように見つめると、彼女は微笑んでから触れるだけのくちづけをした。そして愛でるように何度もカイザーの頭を撫でてから、そっと手を引いていく。普段と正反対のやりとりは、しかし妙にしっくりきてカイザーもまた抵抗することなく彼女の後ろに連れ立つ。彼女の存在に安堵して、身を預けたまま、導かれるのも悪くないと思えたからだ。


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