夏休みが明けて九月下旬。夏油たち二年生は修学旅行で北海道を訪れていた。一日目は旭川空港に降り立ってから動物園に移動し、夜は旭川市中心部にあるホテルに宿泊。夕食もホテル内の広いホールで地元北海道の食材を使用したビュッフェを楽しんだ。そして現在は消灯までの自由時間を使い、のんびりと過ごす、はずだった。

「やっほーってうわ、すごい嫌そうな顔するじゃん」

 ホテルの部屋分けはクラスの人数や部屋の仕様によって二人、三人と、それぞれバラバラだった。夏油の部屋は運よく二人部屋で、また相部屋となったクラスメイトもまあそこそこ休み時間に話すような相手。夏油の性格もなんとなくではあるが理解しており、夕食を済ませたあと普段連んでいるグループの人たちと違う部屋で集うからと早々に部屋を出て行ったので、ようやく一人きりになれると、夏油はほっと息をついたところだった。
 ピンポン、と部屋の呼び鈴が鳴ったので、夏油は担任が見回りに来たのかと思い、すぐさま扉を開けた。ペールグリーンの扉の隙間から人影が見える。しかしそこにいたのは想像していた背の低い四十代男性の姿ではなく、薄いグレーのスウェットに身を包んだ背の高い同級生だった。

「なにしに来た」
「修学旅行だってのに一人で寂しい思いをしてるんじゃないかと思って」
「むしろ快適だと思っていたところだ」
「まあまあお菓子買ってきたから食おうぜ」

 いまいち噛み合わない会話に夏油は眉を顰めたまま、ズカズカと上がり込んだ五条を見やる。その姿は普段とは違い、シルバーフレームの眼鏡をかけていた。今世の彼は目があまり良くないそうだ。と言っても生まれつきなどではなく、中学生のころ深夜にゲームをし過ぎたせいだと言っていたが。
 大体なんで部屋に一人だと知っているのかと思っていると、「これ買うときにお前の相部屋のやつに会ったんだよね」と、彼はソファに腰かけながらスナック菓子の袋を手に取って軽快に開封した。

「いやそうじゃない。なんで彼が私の相部屋だと知っているんだ」
「前に傑言ってなかったっけ?」
「言ってない」
「あれ、そうだったかな」

 つまり五条は自分で誰かに聞いて、夏油とそのクラスメイトが本日のホテルの同室者なのだと知ったのだろう。友人の変な気遣いに夏油はため息をつきたくなった。別に修学旅行くらい、どうってことはない。確かにどこかしらに必ず、クラスメイトや学校関係者の存在や気配を感じるのは夏油にとってストレスでしかなかったけれど、数日間の辛抱だと思えば割り切って生活することくらいはできた。

「まあいいじゃん。どうせやることないんだろ?」
「別にないけど……」
「あっちの彼は消灯ギリギリまで帰ってこないってさ。そしたらやるでしょ。お菓子パーティー」

 修学旅行って言ったらこういう消灯前の自由時間をどれだけ楽しむかにかかってんだよ。人差し指を立てて熱弁した五条は、夏油の目には少々新鮮に映った。まるで自分の経験をもとに諭すような言い方をしたからだ。前世でも彼はこんなふうに生徒たちに言っていたのであろうか。そんなことを考えてしまうくらいには。

「というわけで、あのあとどうなったの? なまえとは」

 ゲホッ、と思わずむせた夏油は、飲みかけのコーヒーが入ったカップを乱暴にサイドテーブルに置いた。

「いきなりなんなんだ」
「なにって、恋バナ」
「ふざけてるのか?」
「いや真面目にこんな話するのもおかしいでしょ」

 大抵こういうときは暴露話って相場が決まってるじゃん。五条の言葉に夏油は思わずこめかみを指先で強く押した。パリ、とスナック菓子を噛み砕く音が室内に響く。

「普通それを聞くか?」
「僕にお前の普通を強要しないでくださーい。別にいいじゃん、減るもんじゃないし。それに僕は聞く権利あると思うけど?」

 約束もしていなければもちろん頼んでもいない。けれど確かに夏油がいなくなってから、五条はありとあらゆるところでケアをしたはずだ。それには例外なくなまえのことについても。

「そもそも悟がこの話題について知りたがったことに驚いたよ」
「そりゃ僕も一般男子高校生ですから」
「君ね……」

 どうやら諦めるつもりはないらしい。夏油は今度こそ本当にため息をついた。

「別になにも。この間機会があって少し話をした程度だ」
「この間っていつ? 体育祭後?」

 夏油は頷いてテーブルに置かれたお菓子に視線をやった。クッキーにチョコレート、そしてグミ。五条が手にしているスナック菓子以外、ものの見事に甘いものばかりだった。
 あれから特になまえとの関わりはない。強いて言えば後日たまたま廊下で鉢合わせたときに再びお礼を言われて、そこから移動教室などですれ違ったときに挨拶をするようになった程度。なまえが前世の夢を見ることは伏せ、大まかに先日あったことを話せば五条は「あーそれかなあ」と宙を見上げ独りごちた。

「いやなんかさあ、この間お前のクラスの女子と話す機会があって、そんときにお前が珍しく後輩の女子と話してたっつーからなんかあったのかなって」
「初めからそれを言え」
体育祭あんときは聞けなかったけど一応僕も気になってたし。それに女子はまあ気になるんじゃないの? 全く女っけがない硬派な傑くんが他の女子、しかも後輩と話していたら」
「いや、別に気にならないだろう」

 前世ならともかく。そう言うと五条はウゲ、と不快そうに顔を歪め舌を出した。しかし本気でそう言えるほど実際あの世界の夏油はモテていたし、また今世では女子(というよりそもそも他人)との関わりはかなり少なかった。

「まあでも、なにもないのはそうか。記憶、ないんだろ?」
「……ああ」
「実際僕は直接話をしたことがないからわからないけど、傑が言うならそうなんだろうな」

 疑いもせず五条は夏油の言葉を信じた。いや昔から、彼は夏油の言葉を信じて疑わなかった。それはあんなことがあり、時空を超えた今でも。彼はいつだってまっすぐな気持ちを夏油に向けて、等身大のまま夏油の隣にいた。
 少しの間が流れたのち、五条は「そういえば硝子が」と違う話題を夏油に振った。そうして結局消灯時間ギリギリまで二人はお菓子パーティー(と言っても食べていたのはほとんど五条だけだったが)をした。ペールグリーンの扉の前で振り返った五条が、一応扉までは送り出そうかと後ろに着いていた夏油を見やる。

「お前は馬鹿らしいって思うかもしれないけどさ、僕はお前と青春らしいこと? してもいいんじゃないかなって思ってるよ」

 あの世界の五条では、到底言わないような台詞だった。それこそあの最期のときに感じたのと同じくらい夏油は驚いた。前世では二人は大人になって、誰かを守る立場にあって、大人になってから感じる今の貴重さを知っている。もちろん彼らと今の夏油たちは決して同じ人間ではないけれど、五条はそれを理解した上で今の夏油に向き合おうとしていた。

「……そうだな。悪くはないんだろうな」

 それは夏油の本音でもあった。今世の五条に出会ってから約一年半。口にはせずとも、やはり彼の隣は楽しくて居心地がよかった。
 五条は驚いたように青い目を見開かせた。そしてすぐさまぎこちなく笑って「明日はお前がこっちの部屋に来いよ」と言って扉を開けた。




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