恋人たちの幕開け

 つい最近、クラスでいちばん、いやこの世でいちばんかっこいい男の子が恋人になった。正直なところ、どうして付き合えたのか自分でも不思議に思ってしまうほど素敵な男の子だ。かっこいい、と言ったけれど、実際は美人と表現した方がしっくりくるような飛び抜けて端麗な容姿をしている。
 女の子はみんな彼のことが好きだ。いいやもちろん全員ではないけれど、ほとんどの子が彼のことを好いていると思う。廊下を通れば周りの子はみんな彼に見蕩れるし、きゃあきゃあと小さく彼のことを囁くからだ。文化祭で校内のミスコンに選ばれた女の子も、彼のことが好きだというくらい。それなのに、選ばれたのは高一の一年間同じクラスだったというだけの、なんの変哲もないわたしだった。

「聞いてんの?」
「え? あっ、ごめんなさい、少しぼうっとしちゃってた」

 一年間同じクラスだったと言えど、それほど関わりはなかった。一目惚れをして、それからずっと遠巻きで見ているだけだったから、二人で話をするどころか挨拶もほとんどしたことがなかった(本当はしたかったけれど緊張してできなかった)。だから彼とこんなふうになれるなんて本当に思ってもいなくて、未だに夢なんじゃないかと思うときが何回もある。
 春千夜くんはいわゆる不良、なんだと思う。一年生のときもたまにサボっているようだったし、喧嘩をしたという噂も聞いたことがある。顔に傷を作って登校してきたことも何度かあって、わたしはそのたびに驚き、内心心配をしていた。
 最初に言った通り、春千夜くんは色んな子に好かれている。彼に告白をした女の子は数知れず、一年生のころだって何人ものクラスメイトが彼に恋をしていた。そして告白をするたびに、振られていた。それも結構ひどい振られ方で。そういうの無理、なんて返事はまだいい方だ。お前誰? と、何度も話していたはずなのに、名前も把握されていなかった、なんてこともあったというのだから。しかしそのわりに普段は来る者拒まずといった様子で、話しかけられれば答えるし、拒絶するところもあまり見かけない(嫌そうな顔をしているのはよく見る)。だからこそ、彼に告白をする女の子が絶えないのだろうが。
 そしてそれは恋人関係になった今も健在で、彼を好きな女の子はたくさんいる。ついさっきも、彼が教室から出てくるときにクラスメイトの女の子たちが彼に挨拶をしていた。考えすぎでは、と思うかもしれないけれど、わたしだって彼のことが好きなのだ。彼女たちの声でなんとなくわかる。二年生になってクラスが離れてしまった分、彼が普段どんなふうに彼女たちと接しているかはわからないけれど、きっと一年生のころとそう変わらないのだろう。

「春千夜くんばいばい」

 ほらまた。わたしと彼が付き合ったところで、彼女たちにはあまり意味がないのだ。確かに初めはかなり驚かれたし、視線が怖かったときもあったけれど、今ではわたしが隣にいてもお構いなしだ。最悪嫌がらせとかもあるんじゃないかと心配もしたが、今のところそういうのはまだない。とはいえこういうのも、本当は嫌なのだけれど。
 週に二、三回、わたしと春千夜くんは一緒に帰ることになっている。わたしから持ちかけて、彼がいいよと言ってくれたのだ。そしてわたしのアルバイトがないときは、週末もときどき遊んでくれる。意外にも、春千夜くんはわたしに時間を割いてくれた。
 昇降口にたどり着き、それぞれ自分のクラスの場所で上履きを履き替える。シューズロッカー越しから再び彼に挨拶をする女の子の声が聞こえてきた。おう、と今度はそれに応える彼の声まで。ちくん、と胸の奥が痛くなって、じわじわと暗い感情が滲んでいく。

「お、みょうじまたな」
「あ……っうん、ばいばい」

 いけない、と頬に手を添えた。後ろからクラスメイトの男の子に声をかけられていなかったら、嫌な気持ちが全部顔に出ていたかもしれない。せっかく春千夜くんと一緒に帰れる日なのに。

「誰?」
「え? あ、今の子?」
「そう」
「クラスメイトだよ」

 いつの間にか隣にいた春千夜くんに内心驚きつつも答える。いつからいたのだろう。もしかして変な顔になってしまっていただろうか。しかし求めている答えはそれじゃなかったらしい。彼は、ふーんとだけ言って前を歩いていく。
 春千夜くんがなにを考えているのか、わたしにはわからない。そもそもどうして恋人になってくれたのかも、よくわかっていないのだ。


* * *


 二年生になって一日目のことだ。昇降口前に貼り出されたクラス替えの一覧を見て、わたしはその場に崩れ落ちそうになった。春千夜くんと別のクラスになってしまったからだ。もちろんクラス数もまあまあある大きな学校なので、二年連続同じになる確率は低い。それでもわずかな望みにかけて、春休み中はずっと、同じクラスになれますようにと願いながら眠りについた。神社に行って、お参りしたくらいだ。クラスメイトでもある親友はそんなわたしに呆れていたけれど、ただでさえ接点もないのにここで別のクラスになってしまったら、本当になんにもなくなってしまうためわたしは必死だった。結局、その願いも無惨に散ってしまったのだけれど。
 衝撃が大きすぎて、このときのわたしはおかしくなってしまったようだった。このまま終わってしまうなら告白しなくては、と思ったのだ。今思い返してみても思考回路が狂っていると思う。実際親友はすごく驚いて、わたしを止めた。それもわたしを気遣って何度も。

「なまえ、本気で言ってるの?」
「うん……だめだと思うけどさ」
「いや、そうじゃなくて、明司くんはなんというか……その」
「ううん、大丈夫だよ。今言わなかったら、わたし告白すらできないと思うから」

 半ば押し切るようにそう言うと、親友は表情を曇らせながら、わかった、とだけ答えた。一年も片思いしていた分、そのあとを心配してくれているのだろう。なにかあったら絶対言ってね、と彼女は続けた。
 そうしてわたしはその勢いのまま、春千夜くんに告白をした。初日のホームルームを終えて急いで彼の教室まで行き、引っ捕まえた。わたしはこのとき初めて彼の名前を呼んだ。名前、と言っても名字だけれど。
 呼び出したとき、春千夜くんはひどく驚いたように目を見開いていた。それもそうだろう。同じクラスだったとはいえ、今まで話したことなどなかったのだから。もしかしたら他の子のように存在すら認知されていないかも、とも思った。
 ありきたりに校舎の裏だった。北側の、ほとんど使われない教室が並んだ校舎の裏。学校自体は午前中で終わり、部活動もお昼を食べてから行うところが多かったからか、人影は全く見えなかった。

「突然呼び出してごめんなさい。えっと、わたし、一年のとき実は同じクラスで……みょうじなまえって言います……それで、えっと……」
「知ってる」
「……え?」
「同じクラスだったとか名前とか、流石にそれくらいは知ってる」

 あまりにも驚きすぎて、わたしは石のように固まった。もしかしたら変な声も上げていたかもしれない。指先から、顔から、じわじわと熱が広がっていって、逆上せそうになる。彼が、わたしのことを知っている。

「あ、ありがとう……! その、嬉しい……えっと、それで、あの」

 勢いでここまで来てしまったけれど、いざ目の前にしてわたしのことを知っていたと理解してしまえば、この状況が急に恥ずかしくなってきた。遠くで見ていただけの春千夜くんが、目の前にいる。わたしと会話をしている。次はなにを言えばいいんだっけ。色んなことが頭のなかをくるくると回る。

「すき、です」

 ぽろりと零れて、ハッとした。間違えたと思った。いや、間違えてはいないのだけれど、もっとこうちゃんと言うはずだったのだ。しかしわたしの頭のなかにはもう、彼のことが好きだということしか残っていなかった。春千夜くんが驚いたような顔をする。正面からきちんと見たことがなかったけれど、彼は瞳もすっごく綺麗だった。

「え、あ、ごめんなさい、あの、えっと」
「いいけど」
「へ……?」
「オレのことが好きなんだろ?」
「は、はい……だいすきです……」

 先ほどまで仏頂面だった彼の顔が、ほんの少しだけゆるむ。不敵な笑み。こんなふうに笑うんだ。思えば彼が笑うところを見るのは、これが初めてだった。
 すると彼の腕が伸びてきて、わたしの髪を一束掬った。そうしてするりと撫でたのち、ぽん、と頭の上に大きな手のひらが乗る。ひえ。無意識にまた変な声が漏れると、春千夜くんは「じゃあよろしく」とだけ言って帰って行った。あまりにも突然だったので、わたしは思わずぱちんと自分の頬を叩いた。

「え……ゆ、ゆめ、?」


 気がついたら、学校中にわたしたちがお付き合いを始めたという噂が流れていた。どうして流れたのかは不明だ。わたしはその噂を聞くまで、あの日のことは全部夢なんじゃないかと思っていた。よろしく、と言っていたのも、付き合うとかそういう意味じゃないのかも……なんてことも考えた。
 親友には、早く言ってよと怒られた。しかし決して連絡するのを怠ったというわけではなく、それよりも早くに噂が回ってしまっただけなのだ。聞けばわたしが告白をした次の日には回り始めていたというので、本当に不思議である。
 そして次に不思議だったことは、春千夜くんがわたしの連絡先を知っていたということだ。これはもしかしたら誰かに聞いたのかもしれない。お付き合いを始めてから二日後、突然彼から連絡来たのだ(ここで二日間空いたため不安になって親友には報告できなかった)。そのときになってようやく、わたしは諸々をしっかりと受け止めるようになった。
 休み時間や放課後に呼び出されるようになった。初めは緊張しすぎて、まともな会話すらできなかったけれど、いい意味で空気を読まない春千夜くんのお陰でいつの間にか平気になった。いや、今も少しだけ緊張するけれど、最初よりかはよくなったと思う。
 そして意外にも彼は、わたしになにかしたいことはないのかと聞いてきた。たとえばどこかに出かけたいだとか、こんなことをしたいだとか。今まで告白してきた女の子をこっぴどく振ってきた人の発言とは、到底思えなかった。わたしはこのときから、噂で聞いていた彼のひどい話は全部嘘なんじゃないかと思い始めた。
 わたしは週に二、三回一緒に帰りたいと言った。そしてときどきでいいから週末も遊びたいとも。春千夜くんはわかったと頷いて、わたしの要望を受け入れた。むしろたまに教室に迎えに来るときもあって、想像以上に大切にしてくれた。やっぱりあの噂は嘘だったんじゃないかと思った。だって、わたしにそんなにも優しくしてくれる理由が見つからなかったから。

 いつからだったか、一緒にいられるだけで幸せだと思っていたのに、春千夜くんといると胸が痛むようになった。それはとくに、学校で会っているときに多い。他の女の子たちに嫉妬するようになってしまったのだ。
 わたしとお付き合いを始めても、彼は女の子にモテた。初めは周りの子も遠慮していたのか、それとも疑っていたのか、どこか一線を引いていたけれど、気がつけば元通り。告白した女の子もいると聞いた。わたしと春千夜くんはまだ別れてなどいないというのに。わたしの胸はちくちくと痛むばかりだった。


* * *


 とある日。初めて春千夜くんのお家にお邪魔していたときのことだった。綺麗好きと聞いていたのでそれなりに注意して彼のお家に上がり、借りてきたDVDを見たり、お互いの中学生のころの話をしたりした。
 そうしてその途中、彼が席を立ったとき、テーブルの上に置いてけぼりにされた携帯が鳴った。彼が連絡を取る相手はとても限られていたので、そのときのわたしは少し珍しいと思った。
 最初は電話だった。それもしばらく鳴り続けた。さらに二回。そして次はメール。おそらく着信相手からだろうとすぐにわかった。
 ほんの出来心だった。普段は持ち歩いているし、あんまりにもそれが鳴るから、気になって、わたしは二つ折りのそれに手を伸ばした。画面には名前のみ、千壽、と表示されていた。正直なんて読むかも、男の子か女の子かすらもわからなかった。
 最低だ。自己嫌悪に陥ってすぐさまテーブルにそれを戻す。内容までは開いてないとはいえ、人の携帯を勝手に見るなんて。

「あ……春千夜くん。電話、来てたよ」
「電話?」
「あとメールも」

 ぱかりとそれを開いた春千夜くんが、あー、と少しだけ声を漏らした。そしてすぐさま引き返す。電話、かけ直すんだ。今まで彼が真面目に返事をするのは、幼馴染であるマイキーくんという男の子のみだったのでとても驚いた。
 こっそりと彼を目で追う。嫌そうに顔を歪めつつも、こうしてすぐに折り返すくらいなのだからなにか急ぎの用があるのか、それともそれほど優先すべき相手なのか。
 すると彼が口を開いた瞬間、それを遮るかのように電話口から聞こえてきた声。女の子の声だった。内容までは聞き取れなかったけれど、あまり遠くないところにいたので音は聞こえた。春千夜くんに文句を言うような口調、彼の反応的にも親しい人のように感じられた。さっきの相手は女の子だったのか。ああまただ。胸がちくんとする。それはじわじわと広がって、視界を歪ませた。

「わーったって。後でかけ直す」

 わたしと春千夜くんは、通話なんてほとんどしたことないのに。やだな。嫌なことばかり浮かんでくる。けれども来る者拒まずとはいえ、一定以上は踏み込ませない彼がこんなにも気取らず率直に話す女の子がいるというだけで、嫉妬で気がおかしくなりそうだった。すると通話を終えた彼が戻ってきて、わたしを見るなりぎょっとした。

「なにがどうしたらそうなるんだよ」
「っ、う……ごめん、なさい……」
「いやいいけど……」

 春千夜くんは少し難しい表情をして、それからわたしの濡れた瞼に触れた。

「そんで? お前はなんで泣いてんの?」

 呆れられるかと思ったけれど、春千夜くんの声は存外優しく、わたしを気遣うようなものだった。それが余計に罪悪感を増幅させる。

「っ、ごめんなさい……」
「いやそうじゃなくて。なんでって聞いてんの」
「その、わたし……さっき、春千夜くんの携帯をね、勝手に見ちゃったの……」
「……」
「それで……あの、本当にごめんなさい」

 しん、と室内が沈黙に包まれる。幻滅しただろうか。もしかしたら怒っているかもしれない。わたしは俯いたまま、ぎゅうっと膝の上で拳を握った。
 へえ、と、たった一言だけ彼は言った。聞いたことのないトーンだった。音程としては低くないのに、地面を這うような妖しさのある声。思わずびくりと体が震える。

「メールの内容も?」
「それは、見てない……誰から来たのかな、って」
「気になった?」
「う、うん……」
「そんで?」
「……え?」
「お前が泣いてる理由は、オレの携帯見たからなの?」

 顔を上げると、彼はまっすぐをわたしを見ていた。まるで誤魔化すことは許さない、といった目だった。はく、くちびるが勝手に動いて、空気が漏れる。

「……はるちよくんが、」
「うん」
「ほかの女の子と、なかよくはなしてるのがきこえて……わたし、わたし……こんなこと、思っちゃいけないのに、はるちよくんが、ほかの子にすかれてるのも、なかよくしてるのも、いやで……」

 言葉にすると、もっと傷が増えていくような気がした。この世でいちばんかっこいい彼だから、仕方のないことなのかもしれないけれど、もう誰も彼のことを好きにならないでほしい。春千夜くんも、もう他の女の子に優しくしないでほしい。
 すると彼は「ふーん」と言ってわたしの頬に触れた。ほんの少し、愉快そうに笑いながら。

「嫉妬してんだ?」
「……っ、は、はい……」

 ふは、と今度こそ堪えきれないといった様子で彼が笑う。呆れてしまっただろうか。付き合っているだけ奇跡みたいなものなのに、こんなふうにわがままを言った欲深いわたしに。そもそも、付き合ってはいるけれど、春千夜くんはわたしのことなんて好きじゃない。だってそんな言葉、一度も言われたことがない。
 嫌われたくない。その一心で謝り続けた。見ているだけで十分、気持ちを伝えるだけで満足、一緒にいられるだけで幸せ。そんな過去のわたしにはもう、戻れそうになかった。

「ふは、ははは。へぇ……そう、お前も……。いいぜ、お前が望む通りになってやる」
「え?」
「でもタダでは無理。オレの言うことも聞いて」
「……春千夜くんの言うこと?」
「そう。オレに嫌われたくないんだろ?」

 必死に頷くと、彼は口角を上げてわたしにキスをした。噛みつくようなキスだった。もう何度も彼とキスをしたことはあったけれど、こんなにも乱暴なのはこれが初めてだった。

「っ、は……はるちよ、く」
「オレが他の女に関わらねぇ分、お前もそうしろ」
「わたしも……?」
「わかったか?」
「う、うん」

 当たり前のように抱きしめられ、彼の思うがままキスをされて息を乱す。たまらなく幸福だと思った。加えて吐息が交わりそうなほど近い距離でそう言うものだから、わたしはほぼ反射的に頷いていた。春千夜くんが笑う。そしてキスをする。やっぱり嬉しすぎて泣いてしまいそうだった。


* * *


 それ以降、春千夜くんの態度はころりと変わった。女の子に声をかけられても無視。しつこく付きまとわれたりでもしたら怒り出す。以前の彼からは想像もつかないような有様だった。

「ねえ、明司くんやばくない?」

 あるとき、同じクラスの親友がそう言った。

「やばいって……?」
「本気で言ってる?」
「うんと……でもわたしが最初にやだって言っちゃったから。それに、一緒にいるときはいつも通りだよ」

 もうひとつ変わったこと。それは春千夜くんといる時間が格段に増えたことだ。他の男の子と関わってはいけないという二人の決まりから、アルバイトも辞めさせられた。なので今は女の子しかいない場所を探しているところである。

「あ、そろそろ春千夜くん来ると思うから行くね。また明日」
「ねえなまえ、駄目だと思ったらちゃんと言うんだよ?」
「うん、わかってるよ。ありがとう」

 あの日から、彼は放課後になると必ずわたしのクラスに来るようになった。わざわざ大丈夫だよ、と言っても、いいから黙って待ってろと丸め込まれてしまっている。

「みょうじ、あのさ」

 そして不思議なことに、あの日から少しずつ男の子に話しかけられるようになった。本当は喋っちゃいけないのだけれど、無視することもできずに教室ではこっそりと話している。

「あ、ごめんね……今ちょっと急いでて……今度でもいい?」
「あ、うん、ごめん」
「ううん。また明日聞くね」

 もう少しで春千夜くんが来る時間だった。振り払うように廊下へと急ぐ。するとちょうどよく彼が扉から姿を表して、わたしの名前を呼んだ。

「春千夜くん、今日もありがとう」
「今……」
「……うん?」
「なんでもない。行くぞ」

 わずかにトーンが下がったような気がした。彼は一度教室内を見渡すと、くるりと踵を返して昇降口へと向かう。わたしはいつも通りそれに続いて、ぱたぱたと彼のあとを追った。

 本当は、今日は帰るだけのはずだった。けれどもわたしは今春千夜くんの家にいて、玄関の壁に押しつけられたままキスをされている。

「っ、ふ……は……はる、っん」

 わたしを見下ろす彼の視線はとても冷たい。けれども瞳の奥には激しく燃える炎のようなものが見えた。怒っている。それもひどく。あの会話を聞かれてしまったのだと、わたしは悟った。

「オレが言ったこと忘れたか?」
「っは……ごめ、なさ」
「お前がその気なら別にいいけど? 明日からオレもやめて、違う女抱こうか?」
「やっ! それは、やだ、やだっ、」
「あは、嘘だよ、誰があんな奴ら抱くかっつーの。一番かわいいお前がいんのに。でも、オレが言いたいことわかんだろ?」
「っん、もう喋らない……っごめんなさい」
「いい子だな、なまえは。……そうだな、次あの男と喋ったら、うっかり殺しちまうかも」

 春千夜くんが真剣に言うものだから、思わず体が震えた。冗談だと思いたい。けれども彼ならやりかねないと思った。彼が中学時代、どんなふうに過ごしてきたのかは、このころにはもうすっかり知ってしまっていたからだ。


* * *


 翌日、わたしは春千夜くんと約束した通り、話しかけてきた男の子全員を無視した。あからさまな態度に不機嫌になる子もいたけれど、どうやらその子には親友が説明をしてくれたらしい。放課後になったときには怒っている様子はなく、ひっそりと遠巻きに見られているだけだった。

「本当に大丈夫なの?」
「うん、ごめんね。色々とありがとう」
「このままずっと男子と喋らないつもり?」
「できる限り、そうするつもり」

 くしゃ、と親友の顔が歪む。彼女の言いたいこともわかる。けれどもきっかけは、わたしが嫌だと言ったところから始まったのだ。それに春千夜くんの嫌がることだってしたくない。
 春千夜くんと帰る時間が近づいている。今日はわたしから彼の方に行ってみようかな。もしかしたら喜んでくれるかもしれない。

「みょうじ」

 教室を抜ける瞬間、昨日の男の子に声をかけられる。今日一日を経て、彼だってなんとなくの状況は知っているはずだった。応えられるわけがない。でも昨日、また明日と先に言ったのはわたしの方で。
 そろりと、振り返った。返事はしていない。けれどもクラスメイトの男の子は、どこか決意じみた表情でわたしを見つめ、こちらに近づいた。思わず後ずさる。うっかり殺しちゃうかも。春千夜くんの言葉が頭をよぎった。

「明司んとこ行くの?」
「……」
「やめなよ。どう考えてもおかしいだろ。普通じゃない。大体一年のころだって別にお前らそんなんじゃ、」
「なまえ」
「っ……」

 ひゅっ、と息をのんだ。同時に心臓が跳ねる。会話はしていない。けれどもこうして向かい合っていたら、背後にいる彼にはどう見えるだろうか。
 どくどくと脈が早くなっていく。するとわたしが振り返るよりも先に、背中にとん、となにかがぶつかった。あたたかかった。そして、嗅ぎなれた香水の匂いがする。

「はるちよ、くん」

 掠れた声で呟いた瞬間、彼が動いた。わたしの背後から離れ、目の前の男の子に向かって行ったのだ。咄嗟に彼の手を取る。鋭い視線がわたしに向いた。

「あ?」
「ごめ、なさ……わたし……」

 怖くて足が竦みそうだ。指先もかたかたと震えてくる。周りも固唾を飲むように静まり返って、わたしの荒い呼吸だけが小さく響いた。
 じわ、と視界が滲む。春千夜くんのことがこんなにも好きなのに。どうしてうまくできないのだろう。がっかりして欲しくない。嫌われたくない。わたしは縋るように彼を見つめた。

「しょうがねぇな」

 ころり。そう表現するのがいちばんしっくりくるほど、春千夜くんは態度を変えた。掴んでいた手を絡め取られたかと思えば、そっと腰を抱かれ、上からキスを落とされる。ちゅ、と小さくリップ音が鳴った。

「喋って、ないもんな」
「今度は、ちゃんとするから……」
「お前のちゃんとするはあんま信用ならねぇけど、まあいいか」

 今日は気分いいし。そう言いながらひらりとわたしを解放すると、彼は突然近くにあった椅子を強く蹴り飛ばした。それは目の前に対峙していた男の子の方へと飛んで、勢いよく壁にぶつかる。

「余計なことすんじゃねぇよ。今更しゃしゃり出てきやがって」
「は、はるちよくん……!」
「わかってるよ、今行くって」

  転がった荷物を拾ってから、わたしの手を引いていく。その手は存外優しくて、まるでエスコートされているような心地だった。廊下を歩く同級生たちがこぞって端に寄る。春千夜くんが「結婚式って多分こんな感じだろ」と笑った。


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