花曇

-hanagumori-
 春千夜のことは、むかしからなんでも知っていたはずだった。つんとした表情で冷めているように見えるけれど、誰よりもやんちゃで。ぶっきらぼうなところはあるけれど必ずわたしを迎えに来てくれて。文句を言いつつもわたしが転ばないように毎日手を差し伸べてくれた、優しくてかっこいい男の子。家が少しだけ近かったわたしは、自由な時間をほとんど春千夜と過ごしていて、誰よりも近い存在だと思っていた。そうして春千夜も、わたしのことを一番だと思ってくれていると信じきっていた。小学生のころの話だ。

 中学生にあがってからもしばらくはその生活が続いた。クラスが別々になっても春千夜はむかしと変わらずわたしの家の前を通り、放課後になれば教室まで迎えに来る。なにかを忘れたときも、借りに来るのは決まってわたしのところだった。

「なまえ、三途くんと付き合ってるの?」
「え? 付き合ってないけど……どうして?」
「だってなまえと三途くん、ずっと一緒にいるじゃない」

 クラスメイトの女の子たちにそう言われたとき、わたしと春千夜の関係は、少しだけ大人になったわたしたちにとっては変だということをこのとき理解した。睫毛をビューラーでくるんと上向けにさせ、艶々としたピンク色のリップを塗って、男の子たちに笑顔を向けている周りの子たち。全員でなくとも、男の子と一緒にいることはすなわち恋を意識しているということと同じだった。特に春千夜は容姿が整っていてとても綺麗だったから、三十人ほどの小さな国をいくつも越えた違うクラスの子たちにも注目されていた。
 わたしはそのときに初めて恋愛というものを意識した。いや、小学生のころから友人と少女漫画の貸し借りをしていたので恋愛について全く考えたことがないと言えば嘘になるのだが、自分との関係について考えたことがなかったのだ。保健体育の授業で体の発育から心の発達、生殖機能の変化について学び始めたころでさえ、言葉として理解してはいたものの自分の身に置き換えてみて考えたことが一度もなかった。

「好きなの?」

 好奇心と嫉妬が滲んだ、いくつもの瞳がわたしを射抜いていた。わたしは急に言の葉が喉奥に詰まったように苦しくなって、酷い焦りのようなものに襲われた。好きに、きまっている。でもそれは彼女たちが想像するような好きではなくて。けれどまた好きじゃないと否定するのも違うとわかっていた。

「なまえ」
「あ……春千夜」
「帰んぞ」
「うん」

 結局その日わたしは、放課後教室に現れた春千夜のおかげで彼女たちからの質問──という名の圧力──に応えずに済んだ。春千夜は少しだけ異様な空気感に包まれた教室を見て訝しげな表情を浮かべていたから、もしかしたらわたしを助けるためにもああして声をかけたのかもしれない。けれどもしあのとき春千夜が来なかったら、わたしは一体なんと答えていたのだろう。春千夜が好きだと言っていただろうか。それとも好きじゃないと言っていただろうか。はたまたまた違う答えを告げていただろうか。その日の帰宅中は、ずっとそんなようなことを考えていた。


* * *


「最近お前、なんか変じゃね?」

 中学一年生の夏、わたしは初めて月経のため水泳の授業を休んだ。梅雨が明ける少し前に初経が訪れたのだ。じめじめとした気候の中、居心地の悪さが増してその日は上手く眠ることが出来なかった。そして同時に少しずつ自分の体が変化していっていることに気持ち悪さを感じた。わたしと春千夜が、このままずっと同じ関係のままでいられなくなることを突きつけられたような気がして。

「変って、酷い」
「本当のことだろ」
「別になんもないよ」
「あっそ」

 変なのは、春千夜だってそうだよ。最近夜になったらどこか行ってること、知ってるんだから。
 思っていてもそんなことは言えず、わたしはただ春千夜の横で木陰の下を縫うように歩くだけ。「暑すぎて死ぬ」と、不満を零しながらシャツの襟元をパタパタと煽る春千夜。首筋に流れる汗を見た瞬間、妙に変な気持ちになってわたしは思わず視線を逸らした。やっぱり変だ。前は気にならなかったところがいくつも目に入る。ごつごつと骨ばった手。以前よりも広くなった肩幅。捲られたシャツの袖から覗く筋肉がついた腕。綺麗で整った顔はそのままに、それ以外のところはどんどん男の子になっていっている。

「あ、れ」
「あ? んだよ」
「……ううん、なんでもない。春千夜、今日うち寄ってく?」
「あー……今日はやめ……いや行く」
「お母さんがこの間アイス買ってくれたから、一緒に食べよ」
「……ん」

 学校から少し離れた地元の住宅地。行き交う人々は一人もおらず、わたしたちだけが夏の日差しに照られていた。不意に、春千夜の手がわたしの手を掠め、やんわりと、ほんの少し触れる程度の弱さでわたしの手を握る。幼いころ、わたしが道端で転んでしまってから春千夜はこうしてわたしの手を引いていくようになった。最近は周りにからかわれることも増えて人がいる時には繋がなくなってしまったけれど、こうして二人きりの時は変わらず彼は手を差し伸べた。少しずつ変わっていくわたしたち。春千夜も、わたしと同じように変わらない関係でいたいとほんの少しは思ってくれているのだろうか。わたしは、そうであったらいいなと思った。周りがどう言おうとずっとこのままの二人でいたい。
 しかしどうしてだろう。手も、顔も、なにもかも、暑くてたまらなかった。わたしの手を取って前を歩く春千夜に、後ろを振り向かないでと心の中で念じるほど。
 夏のせい? いいや、多分。 春千夜のピアスが、以前より増えていたことに気づいてしまったせいだ。



prev list next


- ナノ -