世界が終わる日が来ても、わたしたちは

 どうでもいいことはよく喋るくせに、肝心なことはなにも言わない。
 薄っぺらい言葉を吐かせるくせに、本当に知りたいことは聞かせる隙すら与えない。
 白蘭という男はそういう人間だと思う。


 家に無断で侵入することは日常茶飯事だった。我が物顔で居座り、あれが欲しいこれが欲しいと我儘を言っては繰り返し、自分にとっての快適な空間を作り上げ、暇さえあれば入り浸っていた。
 大学生活の途中からそんなような日々が続いていて、何日も入り浸ることもしばしばあって、正一から付き合っているのかとこっそり聞かれたこともあった。実際白蘭はスキンシップも多いほうではあったし、手を繋いだこともあれば、後ろから抱きつかれたりもしていた。さらには「好きだよ」などと冗談めいた愛の言葉を囁かれたこともあったし、反対に「僕のこと大好きだもんね」と愛の言葉を求められたことだってあった。第三者からすれば、勘違いしてもおかしくない距離感だったと思う。
 けれど実際わたしたちは恋人などではなく、手を繋ぐことこそあれど、それ以上のことはなにもなかった。
 それでも一回。たった一回だったけれど、キスをしてしまいそうなときがあった。
 あの日は確か彼が、いつものようにわたしの家に入り浸って、いつものようにベッドでごろごろと寛ぎながらマシュマロを食べていたときだった。わたしはベッドが汚れるからやめてと、もう何度目かわからない文句を彼に言ってマシュマロの袋を取り上げたのだった。別に本気で怒っていたわけでもないし、彼もそれをわかって「えー」だとか「やだー」だとか子供のように頬を膨らまし、袋の取り合いをしていた。
 しかし次の瞬間には体制を崩し、ベッドに寝そべっていた白蘭の胸の上に落っこちてマシュマロもベッドに落としてしまったのだ。

「ああもう……」

 ──最悪、と口から零れそうになったときだった。互いの距離が想像よりも近く、わたしは思わず息をのんだ。つやりとしたラベンダー色の瞳と目が合う。普段ふざけてばかりいるから忘れてしまうけれど、その怜悧な美貌さにははっとするものがあった。
 白蘭もまた少し驚いたように体を硬直させた。しかしすぐに目を細めて、そっとわたしの頬に手を添える。そうして静かに顔を寄せて……。このままだと、くちびるがくっついてしまう。そう頭のなかではわかっていたのに、わたしは石のように固まってしまい動くことができなかったのだ。
 あの瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。いつもつけている彼の香水の匂いが鼻腔を擽って、目眩がして、少しずつ縮まる距離にわたしは無意識に呼吸を止めていた。今すぐ退かなくちゃ、なんて考えはこのときにはもうすっかり抜け落ち、その透き通るラベンダー色をただただ見つめていた。見慣れていたはずだったのに、知らない熱を見た気がして目が離せなくなっていたのだ。
 けれど。

「なーんてね」

 体温を鼻の先で感じられるほどに近づいたところで、白蘭はわたしの体を支えて上体を起こした。

「結局自分でベッド汚しちゃってるし」

 あーあ、などと言いながら彼はマシュマロを拾って袋へと戻した。わたしはその様子を眺めながら、激しく音を鳴らす脈を落ち着かせるように小さく息を吐き出して、くちびるを噛み締めていた。そのとき彼は、ちらりとこちらを見やったくせに、冗談ひとつ言わなかった。


 そんなことがあったから、わたしは少し気まずくなったりもしたのだけれど、白蘭の態度は依然として変わらず、不思議な距離感のまま関係性は続いた。まるであの瞬間がなかったかのようだった。それは大学を卒業してからもそうだった。


 卒業後、白蘭がなにをしているのかは知らない。正一と一緒にいつか起業するなんてことも言っていたような気もするが、それとなく聞いてみてもやんわりとはぐらかされるので途中から探るのを諦めた。踏み込んではいけないラインというものが彼のなかでしっかりと存在するのだと、あの日に知ってしまったから。

「あー、やっと帰ってきた。おそーい」
「遅いもなにも、仕事だったんだからしょうがないでしょう」
「あはは、もう勝手に家にいることに突っ込まなくなってきたね」
「突っ込んだらやめてくれる?」
「まさか。今日の晩御飯はなあに?」
「……適当に茹でた野菜と、ハムと……パスタならすぐ作れる」
「別にわざわざ作らなくてもいいよ。同じやつがいい」

 晩御飯を集りにくるのも、昔からの日常的なことだった。とはいえ普段は軽めに済ましてしまうため、大したものは出していないのだけれど。いつも突然やってくるので準備などなにもできないのだ。
 帰宅後早々にキッチンに立てば、白蘭はぱたりと読み進めていた本を閉じてこちらにやってきた。そうしてわたしの手元を覗き込むように後ろから抱きすくめる。いつもはリビングでぐうたらしながら待っているというのに。こういうことは初めてではないが、頻度で言えばかなり少ないほうだった。

「ちょっと、作れないんだけど」
「えーいいじゃん」
「よくない。ナイフ刺さったらどうするの」
「そしたら僕がちょちょいって治してあげる」
「正一が言ってた、痛いの飛んでけの話してる?」

 首を傾けて後ろを覗けば、白蘭はやわらかな笑みを浮かべて「ううん、違うよ」と囁くように言った。それが妙にしっとりとした口調だったので、わたしは思わず口を噤む。違和感という小さな棘が刺さったような気がした。
 彼の腕がわたしのお腹と肩に回り、きゅうっと締めつけられる。そうして顔を寄せ、額を肩口に擦りつけた。

「白蘭?」
「生きてるんだね」
「なに言ってるの?」
「ん〜? 生存確認」

 元から不思議な人ではあったけれど、今日はさらに不可解だ。しかし白蘭はそれ以上答える気はないらしく、無言のままわたしの体のあちこちに触れる。

「なにもかもが小さいや」
「そりゃ白蘭と比べたらね」
「それもそっか」

 指を絡ませるように握られた手はそっと持ち上げられ、するすると爪の先までなぞられた。まるで大切なものに触れているかのような手つきに、どうしていいかわからなくなる。
 きっと、この先も彼の思考を理解することはできないのだろう。それでも彼がわたしに、ほかとは違う感情を抱いていることは明白で、そしてわたしの勘違いでなければ、それはおそらく愛情に近いもののような気がする。

「長生きしてね」
「えー、急になにさ」
「そっちが先に生存確認とか言い始めたんでしょう」
「僕に生きてて欲しいの?」
「そりゃあね」

 嘘偽りなく。わたしが抱いているこの感情も、ほかにはないものだ。

「んー、でも僕自身に長生き願望ないからなー、案外ぽっくり死んでるかも」
「縁起でもない」
「だって無駄に生きてるだけじゃつまんないし」

 それでも、いなくなられたら寂しいと思う人間がいるのだ。どれだけ価値観が違っていようとも、互いを理解し合えなくても。

「あーでも、それも変われば別かもね」

 ぽつりと独りごちた白蘭は、僅かに表情を明るげにさせてわたしを抱きしめたまま体を左右に揺らした。納得のいく答えが見つかったらしい。言葉の意味は少しもわからなかったけれど。

「約束できるような未来にするよ」
「うん、ありがとう」
「君も、」
「うん?」
「いや、なんでもない。これからも僕のためにご飯提供とサボり場の確保よろしくね」
「待ってここサボり場なの? 人様の家なのに?」
「だってここが一番居心地がいいんだもん」

 さらりと告げられたそれはきっと深い意味はないのだろう。それでも彼からそんなことを言われるとは思わず、わたしはほんの少しのあいだ噛み締めて、わざとらしく溜息をついた。それだけわかれば十分なのかもしれない。大事な部分が言えないわたしたちだから。
 たとえば明日世界が終わってしまうなら、相手にどうなって欲しい、どうして欲しい。きっとその答えは全く違うのだろうし、知ることもないのだろうけれど、もしそんなときが来たらわたしはどれだけその答えが理解できなくとも受け止めるだろう。
 だってそれがきっと、わたしにできる精一杯の形だから。


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