ピリオドの右を思う

 それは、この先一生わたしから離れない、トラウマにもなり得るような夢であった。酷く悲しくて、愛おしくて。とても、リアルだった。わたしは目が覚めた時、夢の中の二人を想い涙を流した。胸が張り裂けそうであった。

 涙を流したけれど、わたしはその夢の内容を本当の意味では理解出来ていなかった。なぜなら、平凡な日々を送っていたわたしにはそれが未来の記憶だとすぐさま結びつけることなど出来なかったからだ。いや、たった今目の間に現れた夢の中の男を見たって、あの夢が未来の記憶だなんて結びつくはずもなかった。

「みょうじなまえチャン、で合ってる?」
「合ってます、けど、あの貴方は?」
「ん、僕? 僕はね、白蘭」
「びゃく、らん」
「うん。聞いたこと、ない?」
「……ない、です」

 学校の帰り道、突然、見知らぬ白い男に声をかけられた。本当はその姿を目にした時も、声と名前を聞いた時も、ハッキリとあの夢と同じ人だと理解していたけれど、夢の中で見た人が突然目の前に現れた驚きでわたしは咄嗟に嘘をついた。白蘭と名乗った男は少しだけ眉を下げたあと「そっか」と悲しそうに微笑んだ。

「ごめんね、急に。間違えだったみたい」
「いえ……」
「唯一好きになれた人と似てたから、」

 そう言って男は腰を屈めてわたしと視線を合わせたあと、申し訳なさそうに謝罪をしてくるりとわたしに背を向けた。ふわふわと浮かぶような白い髪に、透き通るような薄い菫色の瞳。まだ真夏には遠いはずなのに、知らない土地の、知らない夏の匂いが鼻を掠めたような気がした。

「あ、あの、」

 気がついたら、声に出して白蘭という男を呼び止めていた。男は「ん?」と少しだけ足を引いてわたしの方を振り向く。目の下の紫色の模様は、やはりあの夢と寸分違わず同じであった。

「夢を、見て……、それで、貴方によく似た人が出たことが、あるんです」
「……」
「その人も、白蘭って言ってて。あの……変なこと言っているのはわかってるんですけど、夢でなら、聞いたことあります」

 男は一度瞬きをしたあと、ゆっくりと空いた距離を取り戻すようにわたしに近付いた。再び同じところで向かい合い、瞳をじっと見つめる。あの夢を思い出してわたしは無性に泣きたくなった。

「それは多分、未来の僕だ」
「未来……?」
「うん。どれくらい夢を覚えているか、わかる?」
「夢の内容は、ほとんど覚えているつもりですけど……」
「あの夢に出てきた君は、未来の君で、僕はその夢の中にいた未来の君を、世界で唯一好きになったんだ」
「……」
「ごめんね。ちょっと重いし、ややこしいよね」
「いえ、わかります、わかり、ます……夢の中のわたしも、貴方のことが好きでしたから」

 そう言うと、男は目に見えてわかるほど驚いて、ぎゅっと強く眉を寄せた。それは夢の中でも見たことがないような、酷く苦しげで泣きそうな表情であった。夢の中の男はよく、顔を、心を隠すように、抱きしめたり額を押しつけていたから。
 わたしは男からの言葉によって、ようやくあの夢のリアルさに納得していた。そしてそれと同時、この奇跡のようなこの出来事に、やはり目の前にいる白蘭という男はマーレリングという“力に選ばれた”奇跡のような人物であるのだということも理解した。正直、マフィアだとか、リングだとか、そういうのは夢を見たあとも信じていなかったし、今でもまだどこか信じきれていないけれど、目の前にあの夢の中の男が現れてしまったのだから、もう受け入れるしかないのだろう。

「正直その夢を見ているかわからなかったんだけど、やっぱり今日、会いに行ってよかった」

 男は柔らかい眼差しでわたしを見つめている。その視線になにか特別な意味があることは、夢の中より経験の少ないわたしにも理解することが出来た。しかしそれへの正しい返答はわからず、わたしはただじっと透き通った瞳を見つめ返すことしか出来なかった。男は少しだけ迷ったようにわたしの手を取って「お願いがあるんだけど」と、指で甲をそっとなぞった。

「また今度、君に会いたい」
「それは、どういう……」
「こんなこと突然言われても困るだろうけど、僕は君のことをハッキリと覚えていて、記憶している。だからまた、この時代でも君と……なまえチャンと、知り合っていきたい。僕は変わらずなまえチャンのことが好きだから」

 あの夢を見た時のように胸が締め付けられるような思いがしたのは、果たしてどれに対してだろう。男は最後まで言い切ってから、しかし不安そうにわたしを見下ろしている。それを見て、わたしの心は棘が刺さったように鈍い痛みを感じた。この気持ちは、多分。

「夢の中のわたしは、あのあともずっと貴方のことが好きで、貴方を想い続けたまま生きていました。そうして最後に貴方と別れてからずっと、再び会いたいと願っている」
「……うん」
「未来のわたしは今のわたしなのかもしれないけど、今のわたしは未来のわたしではない……間違って、ないですよね?」
「そうだね」
「白蘭さんはわたしのことを好きだと言ってくれたけど、それはわたしではなくて、未来のわたしで。その未来のわたしの気持ちを知ってしまっているわたしは、貴方の気持ちを素直に受け取ることは、多分……出来ないです」
「……」
「ごめんなさい。わかりにくいですよね」

 男──白蘭さんは、無言のまま首を左右に振ったあと「ううん、大丈夫わかってる。君に無茶苦茶なことを言ってるのも、わかってるよ」と言った。

「ごめん、綺麗な言葉で終わらそうとした。僕が唯一好きになったのは未来のなまえチャンで、置いていってしまった後悔を君を愛することで薄れさせたい気持ちもある。でも、未来の君を作った今の君のことも、本当に好きなんだ。嘘じゃない。だから、僕が君を好きになって愛することを許して欲しい」

 指先がそっと、わたしの頬に触れる。懐かしむように、愛おしむように。けれど視線はわたし自身のこともしっかりと見つめているような気がした。目と目が合って、白蘭さんは夢の中のように優しく微笑む。じわりと視界が滲む中、あっという間に落ちてしまったわたし自身の恋に再び胸が苦しくなった。あの夢と同じように、一瞬のことであった。
 勝手に零れ落ちた涙を、白蘭さんは優しく拭いとる。なんて無意味で不毛な葛藤だろうか。あの夢のあと二人を想って涙を流した時、寂しい感情に襲われたのは決してわたしの感情ではなくて未来のわたしのものだろう。本当に今一番彼と会いたいのはわたしではなく、未来のわたしなのに。柔く痛み続ける心にもう一度涙して、わたしは頬に当てられた彼の手に自らの手を添えて静かに頷いた。

「未来のわたしを、忘れないでください」
「なまえチャン、」
「でも、わたしのことも忘れないで欲しいです。置いていかないでください」
「忘れないよ。どっちも好きだから、忘れない。置いてもいかないから」

 白蘭さんは静かにわたしを抱き寄せると、頭のてっぺんに優しくキスを落とした。まるであのラブロマンス映画のようだ、なんて、わたしは未来の夢と同じようなことを思い浮かべて、今度こそ離さぬように彼の手を握った。


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