まだ綴られていない夜の花



 浴衣を着て電車に乗るのは初めてのことだった。去年までも毎年友達とお祭りに行ってはいたけれど、地元で開催されるものだったので徒歩で間に合う距離だったからだ。周りにもちらほらと同じように浴衣を着た同年代の子たちがいるので幾らか安心は出来るが、それでも普段よりも視線が気になってしまう。母に着付けてもらったので変なところはないだろうが、慣れない姿で一人きりなのは少し孤独だと思った。
 カチカチとボタンを押して硝子にメールをする。どうやら硝子はわたしの五分後くらいに着くらしく、ちょうど夏油くんがたった今駅についたそうだ。となれば二番目に到着するのはわたしだろう。五条くんは聞かずとも待ち合わせの五分後か十分後くらいに来るだろうから。夏油くんは駅の改札前で待っているらしい。

「あ、いた。夏油くん」

 改札が見えてきた頃、すぐにわたしは夏油くんの姿を見つけた。ラフなTシャツ姿であったが、彼は十六歳とは思えないほど背が高く人目を引くので、人がたくさん混み合っている中でもその存在感を放っていたからだ。おそらくみんなここで待ち合わせをしているのだろう。駅には先ほどよりも浴衣姿の人たちで溢れている。改札を出たところでちょうど夏油くんと目が合った気がしたので軽く手を振れば、彼は驚いたような表情を浮かべたままぎこちなく手を上げた。

「ごめん、お待たせ。……夏油くん?」
「……え、ああ、ごめんなんでもない。むしろなまえも五分前くらいだよ」

 ぼんやりとした夏油くんはそのあとすぐに普段通りの様子に戻ると、「すごく似合ってるね」と浴衣姿を褒めてくれた。その時の声がいつもよりもうんと優しくて思わず変な声が出そうだったけれど、なんとか堪えて巾着の持ち手をぎゅっと握る。

「……ありがとう。お母さんが着付けてくれたの」
「髪も?」
「あ、髪は、自分で……」
「なまえは手先が器用なんだね。丁寧で綺麗だ」
「……褒めすぎだよ」

 なんだか気恥ずかしくて思わず地面を見つめる。普段は気にならない沈黙がやけに今日は長く感じられて、地面に敷き詰められた大きな正方形の石を数えるように視線を彷徨わせた。夏油くんも、今日はなんだか様子が違って黙り込んだまま。早く硝子来ないかな、なんて思いながら地面の石の数が十を超えた時、コロンという軽い音と共に落ち着いた色の鼻緒が見えた。

「あ、硝子」
「やっぱり五条は遅刻か」
「まあ、いつものことだから」

 硝子は夏油くんに一度視線を向けたあと、彼に聞こえぬように「なに? なんかあった?」と小さくわたしに尋ねた。その表情はどことなく楽しそうに目元を緩めていて、思わずカッと顔が熱くなる。なんでもないと告げても、硝子は全てを見透かしたようにからりと笑った。

「おー。浴衣、似合ってんじゃん」
「悟遅い」
「え、なに怒ってんの傑」

 案の定五条くんは待ち合わせ時間の五分後くらいに姿を現した。もういつものことなので今更怒ったりなどしないけれど、夏油くんだけは違ったようだ。いつもよりほんの少しだけ、声が冷たい気がする。五条くんもそれに気付いたようで素直に「わりーって」と手を揺らす。夏油くんは大きくため息をついた。

 お祭りの会場である神社に近付いていくごとに祭囃子の音が大きくなっていく。空気を揺らすように太鼓の音が響けば、自然に気持ちもどこか浮き立つようだった。辺りは薄らと暗くなり始め、紺色と橙色の空がグラデーションになっている。今日は猛暑日ではなかったものの、人の活気や屋台の熱気で気温が高くなっていくような気がした。

「混んでる……」
「硝子、大丈夫? 浴衣だとやっぱり暑いよね」
「私は平気。なまえは?」
「わたしも大丈夫。あ、鳥居見えてきた。思ったよりうちの高校の人いるね」
「まあ結構距離近いしな」

 硝子と離れぬように隣を歩けば、前を歩く五条くんと夏油くんは後ろを振り返ってわたしたちを前に歩かせた。思わず視線を向けると五条くんは「前見て歩けよ」と顎で神社の方をさす。すると彼の隣にいる夏油くんが「なまえ、危ないよ」と微笑んだ。言われた通りに前に向き直ると、後ろから五条くんと夏油くんが小さい声でなにか言い合っているのが聞こえた気がするが内容まではしっかり聞き取れない。「どうしたんだろう?」と硝子に聞いてみたけれど、彼女は「ほっとけ」と呆れたような表情を浮かべるだけだった。

***

 あれから、みんなで焼きそばとたこ焼きとわたあめとチョコバナナを食べた。食べ過ぎでは? と思うくらい食べているような気もするけれど、浴衣の帯でそれほどお腹に入らないからほとんど五条くんと夏油くんが食べている。むしろ二人はまだまだ余裕そうで、今は射的で負けた方がかき氷を奢るという勝負をしているところだ。

「は?! まじ?! 真ん中当たったじゃん!」
「ああいうのは大抵すぐ落ちないようになってるんだよ」
「ちょっとズレただけとか、まじ有り得ねぇ……」
「じゃ、いただき」
「うわお前ずっっっる!」

 パコン、となにかが落ちたような気がして、それから夏油くんの手には袋詰めされたなにかが手渡された。どうやら今回は夏油くんが勝利を収めたらしい。

「なにが取れたの?」
「お菓子詰め合わせだって、悟抜きであとで分けよっか」
「わ、懐かしいやつとか入ってる……」
「お前が取れたのは半分俺のお陰だからな?」
「かき氷」
「……まじで覚えとけよ……」

 五条くんがかき氷を買いに向かう中、夏油くんと共に詰め合わせの中身を覗けばたくさんの駄菓子などが入っていた。駄菓子っていつになってもちょっとわくわくする気がする。そのあと隣から硝子が覗き込んで二人で物色している内にどうやらかき氷は購入したらしく、赤色のかき氷と青色のかき氷、二つを持って五条くんが戻ってきた。

「本当に二人いらねーの?」
「うん、わたしたち多分食べきれないだろうから」
「そ?」

 どうやら青色の方は五条くんが食べるらしい。瞳の色のせいか青色のかき氷がとてもよく似合っていた。爽やかな夏の空のような色。思わずじっと見ていれば、隣から赤色のなにかが差し出されているのが見えた。

「食べる?」
「え、でも夏油くんのかき氷だし……」
「私も全部は無理そうだから。悟が目一杯シロップかけたせいで甘いし」
「……いちご味?」
「うん」

 ストローを切って作られたスプーンの上に乗ったかき氷。わたしがお菓子の袋を持っているからか口元まで夏油くんは持ってきてくれたけど、ちょっと、というよりかなり恥ずかしい。他の人もいるし。いや、誰かがいなくても恥ずかしいんだけど。しかし意識しているのはどうやらわたしだけのようで、夏油くんは表情を変えることなくスプーンを差し出している。彼は善意でこうしてくれているのだから、お願いだから顔が赤くなりませんように。

「……ありがとう」
「ううん」
「……美味しい」
「よかった」

 駄目だ。絶対顔赤くなってる気がする。せめて明るい方は見ないようにしようと提灯に背を向けて手をぎゅっと握った。お祭りのせいだろうか、ずっと心臓がうるさい。隣にいた硝子はわたしを見てニヤニヤと笑っているので夏油くんに見られぬように小さく睨んだ。
 するとその時だ。ひゅ〜っと高い音が響いたあと、その音はどんどん遠ざかっていってわたしたちの上空で目一杯花を咲かせた。どおん、と空気が揺れて視界いっぱいに色が弾ける。突然のことにわたしは瞬きも忘れて空を見上げた。

「花火だ……」
「もうそんな時間だったのか」
「傑、知ってたの?」
「一応ね」

 濃紺の空に打ち上がる花火はずっとずっと綺麗だった。硝子は見上げたままのわたしにまた笑って、肘でわたしの体をぐいっと押す。慣れぬ下駄では思うようにバランスを保てなくて体がぐらつけば、逆隣にいた夏油くんが支えるようにわたしの背に手を添えた。幸いにも五条くんは少し前方にいてわたしたちの様子には気付いていない。浴衣越しに触れている背中部分が妙に熱くて、花火が打ち上がるごとに心臓も飛び出てしまいそうだった。

「大丈夫?」
「うん、ごめん。上ばっかり見てたから……」

 今の全部、夏油くんにはバレてしまっているのだろうか。なんとなく顔が見れなくて思わずまた下を向いてしまったけれど、彼は「支えててあげるから見てていいよ」と優しく告げる。ゆっくりと視線を合わせればそこにはいつも通りの彼がいた。
 すると先ほどよりも大きな花火が激しい音を立てて打ち上がる。前に立つ五条くんが「今の見た?」と振り返ったけれど、正直あんまり上手くその花火は見れてなくて、ぎこちなく「うん」と答えるので精一杯だった。


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