チョコレートより甘く



 まずはチョコレートを細かく刻んでからボウルに入れ、準備をしておく。小鍋で生クリームをあたためてから、予め準備しておいたボウルのなかに入れてチョコレートを溶かす。また別のボウルには常温に戻しておいた卵とグラニュー糖を入れて泡立てる。七分立て程度になったらチョコレートを溶かしたボウルに二、三度に分けて入れ、やさしく混ぜる。最後はオーブンシートを貼り付けておいたケーキ型に生地を入れ、150度の湯煎焼きでだいたい一時間ほど焼く。焼き上げたあとは粗熱を取り、一晩かけてしっかり冷やす。シンプルで濃厚な、ガトーショコラの完成だ。

 二月十四日。バレンタインデー。友達同士でお菓子を交換し合ったり、配ったり。またそれを持って好きな人に想いを告げたり。学校中が甘い匂いと浮き立つ空気に包まれる、一年に一度の大きなイベントだ。
 そして今年のバレンタインデーはわたしにとっても特別な日だった。なぜなら、傑と付き合ってから最初のバレンタインデーだからだ。去年も彼にお菓子はあげたけれど悟や他の子たちと一緒の、いわゆる友チョコみたいなものだったし、普段からよく部活で作ったお菓子をあげていたからそれと同じ流れで渡したのだ。しかし今年はきちんと渡したくて、前々からこっそり準備をしていた。ガトーショコラにチョコレートサブレ、それと甘いのばかりだとあまり食べられないかとも思ってシンプルなスコーンも。ちょっと作りすぎた気もするけれど、去年は自分から告白する勇気もなくて本命を渡せなかったから、二年分だと自分に言い聞かせて箱に詰めた。食べきれなかったら悟が食べるだろうとも思って。
 しかし改めて渡すとなるとどのタイミングが一番いいのかわからなくなってしまった。 教室で渡すのは流石に恥ずかしすぎるし、放課後は委員会の集まりがあるからゆっくり渡す時間もない。こういう時は大抵傑が終わるまで待っていてくれたりするのだが、渡すためにわたしから待っていて欲しいと言うのも迷惑かと思って未だに言い出せていない。けれど一番の原因は、今目の前にあるこの光景のせいだ。

「うっわ、なにあれ」
「……ね、すごいよね」
「なまえと付き合ってるの知ってるやつだっているでしょ」
「認めたくないって思ってるのかも」

 お昼休みが終わって教室に戻ると、傑と悟の机の上には山のようにお菓子の箱が積み重なっていた。肝心の本人たちは不在で、もしかしたら二人でどこかに逃げ込んでいるのかもしれない。同じクラスの子たちが渡しているところは見かけなかったから、少し油断していたらしい。わたしは胸のあたりがほんの少しだけ痛くなった。

「まあ五条はともかく、夏油は受け取らないでしょ」
「でもあれどうするんだろう」
「捨てるんじゃない?」
「傑が女の子にそんなことするかなぁ?」
「夏油は別に女子全員に優しい男ではないだろ」

 むしろここに置いていった奴らは全員嫌いだと思いそうだけど。と、硝子は付け足すように呟いて自分の席に座った。本当にそうだろうか。わたしはどこか納得出来ないまま自分の席に座り、お菓子の山を見る。張り切って作っちゃったけど、バレンタインデー自体に飽き飽きしていたらどうしよう。頭の片隅で浮かんだ小さな不安に、わたしは未だもやもやが収まらない胸に手を添えて息を吐き出した。

 ***

 思えば少し油断していたのかもしれない。去年は下駄箱に手紙が入っていたり教室に入った途端にチョコレートを渡されたりしていたから、そんな気配もなくいつも通りに登校出来たことに安心していたのだ。ほとんどのクラスメイトは私たちが付き合っていることを知っているだろうし、わざわざチョコレートを贈るものもいない。ほのかに甘い香りはするけれど、どうやら朝一女子たちがお菓子を交換しあったためらしい。遠くで他の女子生徒と話すなまえと目が合っておはようと手を振れば、彼女は恥ずかしそうにしながらも微笑んでこちらに手を振り返した。

「はよ」
「おはよ」
「朝から学校中甘ったるい匂いで無理なんだけど」

 一限目の授業で使う教科書などを机の上に広げていると、悟が前の席に座って早速今日の一大イベントであるバレンタインデーの話題を投げかけた。「別に君は甘いの好きだから構わないだろう」と、鞄を横に掛けながらそう言えば、「朝からは食わねーつうの」と悟は私の机に頬杖をつく。

「んで? なまえからもらえる予定はあんの?」

 そして嫌な笑みを浮かべてからこう言った。私はそっと彼女の姿を確認してから「別に言われてないけど」とあくまで淡々と答えた。

「んじゃ俺もらいにいこー」
「待て」
「なんだよ」
「いや逆になんで君がもらいに行くんだ」
「別に今更だろ、チョコなんて」

 欲しいならお前も来ればいいじゃん。と言う悟に一度瞼を閉じる。こういうのはムカついたら負けだ。

「催促してるみたいだろ」
「あーなるほどね、待ってんのね」
「……」
「んな睨むなって」

 まああいつのことだから絶対くれるでしょ。と言う悟に、口にはしなかったが私もそうだろうと思っていた。普段から部活で作ったお菓子をくれるような子だし、クラスメイトの女子にあげているのもしっかり確認している。委員会があると言っていたからそれまで待って、帰りにでもくれるんじゃないかと、私は勝手に決めつけていた。それがいけなかった。

 四限目の授業が終わり、硝子と共になまえが教室を抜けた瞬間、彼女たちはやってきた。他クラスの同級生や見慣れぬ顔の後輩や先輩。数人の女子生徒が教室にやってきて、受け取るだけでいいからとお菓子を持ってきたのだ。ここになまえがいなくてよかったと心底思った。もしかしたらそれを見計らって来たのかもしれないが、それならそれで少しでも後ろめたい気持ちがあるならやめて欲しいと思う。もちろんなまえ以外からもらうつもりはさらさらなかったので丁重にお断りした。そのときの彼女たちは少々悲しげな表情を浮かべていたものの、すぐに教室から去っていった。
 しかしそのあと昼休みから戻ってくれば、机の上には山のようにお菓子の箱が積み上がっていた。朝一なにもなかったから油断していた。いやそれよりも問題なのは硝子が既に着席していて、なまえがこの場にいないということだった。二人は大抵一緒に休み時間を過ごしているはずだ。ならば彼女も一度ここに戻ってきているということで、あのお菓子の山を既に見ているかもしれない。私は硝子のところに足を運び「なまえは……」とおそるおそる尋ねた。

「さあ? さっきまでいたけど」
「そうか……」
「さっさとあれどうにかしなよ。なまえが帰ってくる前に」

 言われなくてもそうするつもりだ。山積みになったお菓子をゴミ箱用のポリ袋に全て詰め込んで片付ける。肩に担いだ姿がどうにも面白かったようで悟はゲラゲラ笑っていたが、こっちはそれどころじゃなかった。その後お菓子をどうしたかは、ここでは黙っておこう。

 ***

「そんですぐに委員会に行ったなまえと入れ違いになって結局もらえてないと」
「……」
「うは、ウケる。めっちゃしょげてんじゃん」

 放課後に訪れてきた女子たちを全て断って私は机の上に項垂れた。悟はそんな私を面白がるように一々嫌なことを言ってくる。結局放課後もすぐになまえは教室を出ていってしまって、きちんと話せなかったのだ。いくら本人がいないときに置いていったものとはいえ、あれを見たらなまえだって嫌な気持ちにはなるだろう。今日に限って色んなタイミングが悪すぎて嫌になりそうだった。

「残るんだろ?」
「ああ」
「じゃあ俺先帰るわ、ここにいたら無限にチョコ来そうだし」

 そう言って立ち上がった悟を見送ってから、私も一度どっかに逃げ込むかと教室を抜けた。あちこち歩き回ってもそれはそれで面倒になりかねないのでいつもの裏階段の方に行った。思えばこのときにメールのひとつでもすればよかったのに、朝からこんな調子で余裕のなかった私はすっかりそのことを忘れていたのだ。

 ***

  結局傑にチョコレートを手渡せぬまま放課後になってしまった。午後の授業前も気持ちを整えようと御手洗に行ってしまったので傑とは話せぬまま。委員会は早めに終わったけれど眩しい夕陽が差し込んだ教室には誰もおらず、机と椅子の影だけが床に映っている。傑はどうやら帰ってしまったらしい。
 やっぱりメールくらいしておけばよかったかな、と思った。いつも傑が待っていてくれるからって甘えていたのだ。自分の不甲斐なさに悲しくなってくる。みんなの分のチョコレートが入っていた紙袋の底には、傑にあげる用の一番大きな箱がひとつだけ。あのあと、傑は誰かからお菓子をもらっただろうか。

 とぼとぼと学校の最寄り駅まで向かった。途中にある簡単な遊具が置かれた公園には同じ学校の生徒であろう男女二人がベンチに座っていて、リボンがかけられた箱を手にしていた。カップルなのか、それともたった今そうなったのか。わからないけれど、その勇気にわたしはどこか羨ましさを感じた。付き合ったときもそのあとも、いつも傑がリードしてくれてわたしからなにか出来たことなんてほとんどないから。
 改札が見えてきたところでわたしは足を止めた。このまま本当に帰って、傑に渡せないまま終わっていいのだろうか。別に明日も会うしと言われてしまえばまあそうかもしれないけれど、去年の分も含めてやっぱり今日きちんと渡さなくちゃいけないような気がした。それになにより、今日はまともに傑と話せていなかったから会いたかった。

 着信履歴の一番上に並ぶ傑の名前を選択する。そしてゆっくりと深呼吸をしてから発信ボタンを押した。コール音が二度鳴る。すると三度目が鳴る直前に、「もしもし」と傑の落ち着いた声が聞こえてきた。

「あ、傑……ごめん急に……あの、えっと」
「今どこにいる?」
「今……は、○○駅のコンビニ裏」
「わかった、そこで待ってて」

 きちんと説明をする前に通話はぷつりと途切れて、わたしは画面をしばらく見つめたまま固まった。帰ったと思っていたのだが、違ったのだろうか。いやそれよりも待っててということは、これから傑がここに来ると言うことで。わたしは急に緊張してきて、息を整えながら紙袋の中を確認した。あまり動かさないようにしていたし、中身もきっと大丈夫だろう。あとは言いたかったことをしっかり言えるようにして、ちゃんとこれを渡さなくては。

「なまえ」

 それからしばらくして日が沈みかけたころ。名前を呼ばれて俯いていた顔を上げると、そこにはわずかに呼吸を乱した傑がいた。もしかして急いで来てくれたのだろうか。思わず「ごめん」と傑の元へ駆け寄る。すると彼はわたしをそっと抱きしめた。

「す、傑?」
「ごめん……その、色々」
「ううん。わざわざ来てくれてありがとう」

 明らかに落ち込んだ様子の傑にわたしは彼の背中を片手でぽんぽんとやさしく叩いた。そうしてもう片方の手に持った紙袋を持ち上げて、彼の名前を呼ぶ。

「あのね、遅くなっちゃったけど、これ、作ったの」
「……うん、ありがとう」
「それでね、えっと……あの……」

 傑は静かにわたしの言葉を待った。二月だと言うのにわたしの顔はどんどんあつくなって、逆上せてしまいそうになる。日が沈みかけてオレンジとネイビーのグラデーションになった空の下、わたしは意気込むようにきゅっと紙袋の持ち手を握る。ガタンガタン、と線路の上を電車が走り抜ける音がした。

「いつもありがとう。だいすきってちゃんと伝えたくて……本当は去年も渡したかったんだけど、わたしには勇気がなかったから……」

 そろりと紙袋を持ち上げて「だから受け取ってもらえると嬉しいです……」と呟けば、傑はこれでもかと言うほど目を見開いてわたしを見下ろしたのち、もう一度ぎゅうっと力強く抱きしめた。そして耳元でありがとうってもう一度囁くから、わたしはまた顔があつくなって彼の制服に顔を埋める。

「生きてて一番幸せかもしれない」
「そ、そんなに……?」
「あと他の子からは誰からももらってないから。悲しくさせたらごめん」
「ううん、大丈夫。去年だって近くで見てたし」
「うん、まあそうなんだけど……」

 それよりも今この状態の方が恥ずかしくて死んでしまいそうだった。嬉しいけど、誰かが通ったらどうしよう。

「す、傑……誰か来たら……」
「ごめんもう少しだけ……ね、なまえ、もっかい好きって言ってくれる?」
「え、」
「聞きたい、だめ?」

 耳元で囁いてくるのはきっとわざとだ。でもそんな風に聞かれたら断れるわけがない。わたしは埋めた顔を持ち上げて、傑の顔を見た。

「……だいすき」
「…………それは反則……」
「え?」
「なんでもない……私も大好きだよ」

 そう言って傑はわたしのおでこにキスをしてようやく腕のなかから解放してくれた。そうして手渡した紙袋をにこにこと嬉しそうに笑みを浮かべながら眺める。それを見たら、やっぱり今日渡せてよかったと思えたのだ。

「甘いのばっかりだけど、大丈夫かな?」
「もちろん。大事に食べるね」
「余ったら悟にあげても「それは絶対にない」そ、そう……?」

 次の日悟に強請られたのは言うまでもない。


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