真実はカーテンの奥に
なんだか懐かしい夢を見ていたような気がする。濃紺の空に瞬く鮮やかな花。大きく空気が震える度に浴衣越しに伝わる温度も微かに揺れて、あんまり隣を見ることが出来なくって余所見もせず首が痛くなるまで空を見上げていた夏。そういえばあの日は結局帰り道までずっと緊張していたんだっけ。すると突然、誰かに頭を撫でられたような気がして意識が揺らめいた。あの夏の夜。花火を見たあと、こんなことあったっけ。
ぼんやりと視界に映ったのは真っ白なカーテン。それから少しだけ首を傾けて前を向けば、あの日わたしの隣で花火を共に見ていた彼の姿が見えた。黒い髪。白いシャツ。広い背中。大きな手。だいすきな人。わたしは半ば無意識に彼の名前を口にする。しかし彼は驚いたように瞬きをするだけだった。
「懐かしい呼び方だね」
「……あれ、わたし今なんて」
「夏油くん」
「あ……。傑」
今度こそ傑は「おはよ。いや、昼寝だからちょっと違うかな」と机に頬杖をついてわたしの髪を撫でた。机の上に散らばった毛先を整えるように、何度も上から撫で付ける。授業が終わって、硝子も悟も用事があるからって直ぐに帰ってしまったから、不貞腐れたようにここでうつ伏せになっていたところそのまま眠ってしまっていたらしい。じっとりとぬるい空気。教室の天井からは僅かに冷たい空気が流れてはいるけれど、真夏日とも言える今日、そして窓際の席ではそれほど効果を示していなかった。
「いつ来たの? 委員会は……」
「ん? さっき終わったところ」
「……絶対嘘」
「本当は三十分くらい前」
それってもうほとんど眠り始めた頃だ。「起こしてくれればよかったのに」と小言のように呟けば、傑は笑いながら散らばった前髪を整える。僅かに汗が滲んでいるからかそれは少しだけ張り付いていてちょっと気持ちが悪い。そうしてわたしの身の回りを整えるように動き回る傑の指先を目で追っていくと、彼は目と目の間、一番窪んだそこに指先を押し付けた。
「なんの夢見てたの?」
「夢? さっき?」
「うん」
思い返したのはあの夏の日、四人でお祭りに行った日のことだ。賑わう神社でたこ焼きを食べたり、射的をしたり。そして傑の体温を感じながら最後に花火を見たこと。あの時はすごく緊張して傑の顔が見れなくて、何度も下を向いていたような気がする。目の前にいる傑をじっと見つめれば「教えてくれないの?」と彼は首を傾けた。傑はいつだってずっと優しかったけれど、今の眼差しはあの頃よりもうんと甘くて蕩けそうだ。あの夏の日から一年。わたしたちの関係が友達から恋人になって、今は最初の夏。四人でいる時間と同じくらい二人でいる時間も多くなって、傑はよりわたしに優しくなった。
「去年の、みんなでお祭り行った時の夢だよ」
「……へえ」
「なにその、ニヤニヤした顔」
「いいや。ただ寝てる時のなまえ、可愛かったから」
「かっ……」
「幸せそうな顔してた」
夏じゃなくて、春みたいな顔をして傑は言った。そしてわたしはさらに体が熱くなったような気がして、誤魔化すように汗をかいた紙パックのレモンティーに手を伸ばす。しかしあと一歩というところで傑がそれを奪い、わたしの手のひらは空気を掴むように奇妙な動きをして宙を舞った。咎めるような視線を傑に向けてもその効果はほとんどない。
「照れてるの?」
「意地悪しないで」
「ふふ。でも、楽しかったよね」
傑は懐かしむようにそっと背もたれに寄りかかり斜め上を向いた。わたしと彼以外誰もいない教室。いつもならクラスメイトの声で溢れ返っているはずなのに、今は鳴り止まない蝉の声がやけに大きく聞こえて、空調の音もゴオンと低く響いている。それがなんだか、秘密の時間を過ごしているみたいだった。傑と二人きりでいると、その時間が全て特別で秘密を共有しているように感じるから不思議だ。誰にでも優しいのに、もっと優しくなるからだろうか。それとも二人きりになった時にたまに見せる無邪気な姿だとか、愁いを帯びた表情だとか、そういう一面を見る機会があるからだろうか。
傑の姿を隠すように僅かにカーテンが揺れる。その白に包まれてしまいそうな瞬間、わたしは思わず手を伸ばして傑の腕を掴んだ。彼の手に未だ握られたままの紙パックの底面から雫がぽたりと落ちる。夢から覚めた時と同じように、傑は目を見開いて驚いたような表情を見せた。
「今年もみんなで行こう」
「二人きりでは?」
「二人きりでも行きたいけど、硝子や悟も」
「うん、そうだね」
傑はレモンティーを机の上に置くと、わたしのおでこにちゅっと軽いキスを落とした。突然のことに驚いてパッと上を向けば、ニコニコと笑みを浮かべるだけの傑。
「な、んでそこにキス……」
「なんとなく」
「汗かいてる」
「確かにちょっとしょっぱかったかも」
「え、やだちょっと、恥ずかしい……ん」
勢いよく上体を起こしたところで、狙ったように今度は唇が塞がれる。また秘密を作ってしまったように思えて、指先まで夏に染まったように熱くなった。傑の舌がペロリと唇を這う。すると知らない誰かの声が廊下の奥から聞こえてきて、どうやらこちらに向かってきているようだった。薄目を開ければ、伏し目がちにわたしを見つめる傑。伺うようなその視線が余計に恥ずかしくなって、でもまだ離れたくなくて、ぎゅっと固く目を瞑ったあと思い切って唇を押し当てた。