花を奪う

※マフィアパロ

 屋敷の中はひどく静まり返っていた。あれだけ騒がしく、聞き取れぬほど飛び交っていた怒号や絶叫がまるで幻であったのかと思えるほど。しかし少し視線を上げてみれば、そこにはもはや見る影もなくなってしまった無惨な状態の部屋の姿。それは幻なんかではなく現実であるのだと、まざまざと思い知らされるような光景であった。

 それほど力のない小さなファミリー。そのファミリーのボスである父と、その妻である母の元に生まれて育ち、もうすぐ十七年の時が経つ。けれどもわたしはこの世界のことをなにも知らなかった。いや、なにも知らされていなかったの方が近いだろうか。
 地面に広がる赤黒い血溜まり。なにからそれが溢れ出ているかだなんて、見なくてもわかる。何者かによって、その力のない小さなファミリーは壊滅状態に陥ったのだ。
 怖い。ただそれだけしか思い浮かばなかった。この世界で甘やかされて育ったわたしは、戦う術も今この瞬間どう動くべきかもわからなかった。父と母がどうなったのか、敵は誰なのか。それすらも。

「クソ、先越されたか」

 突然遠くから聞こえた声に、心臓がびくりと跳ね上がった。敵は全て撤退したと思っていたけれど、まだ残っていたなんて。チッ、と聞こえてきた舌打ちと、近付いてくる足音に比例して緊張が走る。手足も、僅かに震えていた。

「ん?」
「ひっ……」

 ひょこ、と。この惨憺たる現場に似つかわしくないほど身軽にその男は現れた。全身黒いスーツに、ひとつにまとめられた黒髪、そして左手には黒いピストル。その出で立ちは、この世界をほとんど知らないわたしにも理解出来るほど、ただならぬ存在感を放っていた。男は物陰に隠れるようにしてうずくまっていたわたしを見つけると、僅かに目を見開いてわたしを見下ろす。咥えていた煙草の先から、はらりと灰が地面に落ちた。

「へえ、驚いた」

 じゃり、とガラスを踏みつける音がした。男はわたしの顔を覗くようにしゃがみ込むと、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて白い息を吐き出す。ひどく苦い空気がわたしの周りを漂った。

「君のお父さん、もしかしてここのボス?」

 答えたくても答えられなかった。恐ろしくて喉がカラカラになってしまい、声が思うように出なかったからだ。じわりと視界が滲んで鼻の奥がつんとしたあと、こくん、と頷いて肯定をする。すると男は、「なるほど」となにかを理解したように小さく言葉を漏らすと、咥えていた煙草をつまみ、地面に押し付けるように火を消した。

「私もそのボスに用があったんだけどね」
「…………」
「どうやら先を越されてしまったみたいだ」

 先を越された、ということはこの人もファミリーを潰しに来たということなのだろうか。この男が敵なのか、味方なのか、それすらもわからない。いや、味方ではないのはわかる。だとしたらわたしは今度こそ殺されてしまうのだろう。男の手によって。

「ねえ、名前は?」

 なんで、そんなこと。しかしわたしは恐怖のあまり上手く声を出すことが出来なかった。震えたままはくはくと必死に息を吸って、男を見上げる。すると男は痺れを切らしたように左手で持つピストルをこつん、とわたしの顎の下に添えたかと思うと、ぐっと顎を持ち上げて視線を合わせた。
 ひゅっ、と。思わず息をのんだ。顎の下に感じる冷たい温度に、どくりと心臓が嫌な音を立てる。恐ろしくて、必死になって、じわじわと再び視界が滲んでいくなか、掠れた声でわたしはたどたどしく「なまえ、です」と自分の名前を零した。

「いい名前だね」
「っ……」

 もう、こんな怖い思いをするのならいっそ死んだ方がマシかもしれない。そう思い始めたとき、「助けてあげようか」と、思わぬ言葉がわたしの耳に届いた。
 思わず瞼を瞬かせる。そんなの、信じられるだろうか。しかし断ればいつこの首元にある銃口から弾が飛び出すかわからない。けれど、このまま一思いに殺されるのなら。

「へえ」

 無言で首を左右に振った。すると男は驚いたように目を見開いたあと、「こんなのでも一応ここで生きているだけはあるね」と言って、するりと銃口をわたしの頬に滑らせる。緊張と恐怖で、涙が溢れる。そんなわたしを見て、男は少しだけ笑みを浮かべた。

「まあでも残念だけど、私は君が思うようには殺してあげないよ」
「っ、」
「どうする? 一人で生きてく?」
「…………」
「そもそも、一人で生きていける?」

 なにも、言えなかった。男の言う通りであったからだ。わたしはこの世界のことを知らないだけでなく、他の世界のことも知らないのだ。一人で生きていく術なんて、持ち合わせていない。本当に生きていけるのだろうか。

「それに、暫くしたら違うファミリーもここに来るだろうね。まあ……殺される、で済むかはわからないけど」

 ぐっと、男との距離が縮まった。吐息が重なりそうなほど顔を寄せられ、思わずびくりと体が跳ねる。目の前の男からは、ひどく陶酔的な香水の匂いと、ほろ苦い煙草の匂いがする。感情の読みにくい瞳で見下ろされ、わたしは再び涙が滲んだ。もう、なにがなんだかわからない。ただもうこれ以上、怖い思いはしたくなかった。

「うんって言ったら、助けてあげる」

 それはひどく甘美な声であった。耳元で囁くように告られ、頭がくらくらとする。
 こくり、と。そうして無意識の内にわたしは頷いていた。瞬間、男はゆるりと口角を上げると、そっとわたしの背に腕を回し耳元に唇を寄せる。

「いい子」

 すると突然、視界が高くなった。男は軽々とわたしを抱きかえると足早に屋敷の中を抜けていく。その足取りは少しだけ軽く、機嫌がよさそうにも見えた。



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