苦くて甘い

 バレンタインデー。
 日本の菓子店が売上向上の企画として『女性から男性に愛情を込めてチョコレートを送る』というキャッチコピーの元、広告を出したのが始まりだというのは、もう有名な話である。
 しかしチョコレートを送る相手は、もはや好きな人というだけでは無くなってきている。学生の時であれば、友人たちに送る友チョコ。そして大人になれば、お世話になっている人や上司、会社の同僚に送る義理チョコ。本当に厄介な日なのである。

「どうしよう、一応持ってきたけど七海さんにいつ渡そう」
「昼休み、いつもどこかにいなくなっちゃうしね」
「帰りにそっと渡す?」
「そういえば別の課の新卒の子も渡したらしいよ」

 会社の御手洗で聞こえてきた誰かもわからない人たちの声。違う課の人だろうか。何にしても、出るに出れない状況になってしまった。いや、そもそも何故私が気を使わねばいけないのだろうか。
 そう。一番厄介なのは本命を送る者たちだ。いや、本命を送る全ての者たちに言っているわけではない。

「渡すだけなら、いいよね」
「名前を書いて昼休み中に置いとこうかな」

 次第に遠ざかる人の声。やっと鍵を開けて個室から出る。渡すだけならいい? そこに少しでも後ろめたい気持ちがあるのならそれは良くないことだと私は思いますけど。そう言いたくても声の主たちはもうどこにもいない。早くこんな日終わってしまえ。

* * *

 今日だけで何度会社の女性陣からチラチラと視線を送られたかわからない。逆にその視線が苛ついてしまって、今日一日仕事に集中することが出来なかった。いつも親身に話を聞いてくれる同じ課の先輩からは、「大丈夫?」などと声をかけてくれたが、正直全然大丈夫じゃない。
 最後に七海のいる課まで書類を持っていかなければならないことになった。行くのが億劫だ。誰かに変わって欲しいところだけど、生憎うちはそんなに暇じゃない。歩幅がどんどん小さくなっていく。おそらく彼の机の上には沢山のチョコレートが山積みになっていることだろう。実際去年はそうだったからだ。

 私と七海は付き合っている。隠しもしていないので、知っている人は多いだろう。何せ彼は会社の女性陣から人気であるからだ。
 彼は優しい。それが彼の人気である理由のひとつだのだが。だから彼が悪いわけじゃない。わかっているからこそ去年も何も言わずに、いつものように笑みを浮かべて綺麗に包装されたチョコレートを渡した。その時彼はなぜだか少しだけムッとしたように眉を寄せたけれど、それ以上何かを言うことはなかった。

 七海の課に行く途中。コピー機が並ぶ部屋から声が聞こえた。女性の声と、男性の声。この声は、七海だ。
 思わずきゅっと心臓が締めつけられる。嫌な予感がする。足が竦んだように動かない。遠回りして行こうか。
 しかし無情にもその部屋からの声が聞こえてきてしまった。女性側の声の主が誰かはわからないけど、おそらく私のいる課の子ではないと思う。やはり案の定、その人は七海にバレンタインのチョコを渡したかったらしい。鈴の音のような可愛らしい声で、彼への思いを告げるのが聞こえてきてしまった。

「七海さんのこと……尊敬していて、憧れで、ずっと……好きでした。あの……これ良かったらもらってくれませんか」

 七海は何と答えるのだろう。いつの間にか逃げたい気持ちより、その先の彼の答えが気になっていてしまった。息を潜め、彼からの言葉を待つ。

「すみませんが、そのチョコレートを受け取ることは出来ません」
「え……」

 告白をした人と、私の心の声が重なった。「どうして」また次の言葉も重なる。

「お付き合いしている方がいるので」
「気持ちを受け取っていただくことも、難しいですか」
「そう……ですね、彼女が悲しむ顔をもう見たくないので」

 七海の声は酷く悲しそうだった。バレていないと思っていたのに。去年のあの表情はそういうことだったのか。
 女性が部屋から飛び出してくる。その際、私がいたことに酷く驚いていたみたいだけど、私は正直それどころじゃなかった。
 とぼとぼと歩いてコピー機がある部屋に向かう。彼は私の姿を捉えると驚いたように目を見開いていた。

「聞いて、いたのか」
「うん……ごめん」
「何故謝る」
「わざわざ断らせて」

 七海は眉を寄せて、不機嫌そうに私を見下ろした。彼が断ってくれて嬉しいはずなのに、喜べない。確かに嫉妬でもやもやとした感情があったけれど、気を使わせて断らせるのも嫌だった。私は面倒くさい人間なのだ。

「なまえ」

 少しだけ怒りを含んでいるように聞こえた。いつも会社では名字で呼ぶはずなのに。

「なに」
「私が自主的にやっているだけだ」
「……去年は貰っていたじゃない」
「悪かった」
「別に七海が悪いだなんて思ってないよ」
「良いとも思っていないだろう」

 目を合わせないようにコピー機の方に視線を向けていると、急に頬を掴まれる。ぐいっと無理やり視線を合わせ、彼はもう一度私の名前を呼んだ。

「どうしたら機嫌を直してくれる」
「……面倒だなって思わないの」
「何がだ」
「嫉妬もするくせに、天邪鬼なところとか」

 彼は少しだけ目を見開いていたあと、少しだけ笑う。珍しいな、だなんて思いながら見つめていると、彼は酷く優しい声で呟いた。

「むしろ可愛いくらいだ」

 その言葉と、「あとなまえからのチョコレートは手作りがいい」と続けられた彼の言葉に、心のもやもやはどこかへ吹き飛んだ。



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