桃花色の瞬き

 世界がねむりから覚める。
 窓を開ければ、人々が忙しなく動く音で溢れかえっているだろう。地面と靴がぶつかる音、車や電車が走る音、駆けだす子どもたちの声、ごろごろと喉を鳴らす猫の鳴き声。
 そんな動き出した世界とは切り離されたようにこの部屋はとても静寂であった。風のない部屋の中を舞う小さな埃が、窓から差し込む太陽によって光っているように見える。
 私は窓を少しだけ開けて、切り離された静寂の世界と眠りから覚めた世界を繋げた。途端に流れ込んだ、少しだけ冷たい空気が肺を満たす。そこには微かに緑の香りがした。
 壁に掛けられたエプロンを掴む。電気ポットの電源をつけて、浸しておいたそれを熱したフライパンの上にそっと乗せた。
 じゅう、と音が響いたあとに、香ばしいかおりと、ほんのり甘いかおり。両面をていねいに焼いてから、ダマスク柄で縁取られたオフホワイトのお皿に盛り付ける。
 トッピングにはメープルシロップとシュガーパウダーを。ひとつにはたっぷりとかけて、もうひとつは控えめに。
 すう、と背後から清らかな空気が流れ込んだ。時計を確認して、さてそろそろやってくる頃かなと、ダイニングテーブルの方を振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。いつもであれば休みの日であっても必ずこの時間には起きるはずなのに。今日は珍しくお寝坊さんのようだ。

「建人くん?」

 寝室に向かい、静かに中を覗けば、案の定彼はまだ眠ったままであった。足音を立てぬように近づいて、ベッドに腰掛けてからもう一度彼の名前を呼ぶ。
 彼は少しだけ身じろいだあとに、掠れた小さな声で、「なまえ……?」と呟いた。滅多に見られない彼の姿に、たちまち甘く優しい感情がじわりと滲んでいく。片目を瞑り、下ろされた前髪から隙間から覗く、美しいターコイズ色の瞳が私を捉えた。

「おはよう」
「…………」
「あれ? もしかしてまだ寝惚けてる?」

 朝はそれほど弱いはずではないと思っていたのだが。余程疲れが溜まっていたのだろうか。
 まさか具合が悪いのかと思い、慌てて彼の額に手を添える。よかった。熱はないようだ。

「もう少し眠る?」
「いや……」

 彼の額に添えていた手は、彼の大きな手のひらによって捕らえられてしまった。彼はしっかりと私の手を握ると、そのまま擦り寄るように頬へと寄せる。中指の背でそっと頬を撫でれば、彼の表情が少しだけ緩むのが見えた。可愛いなあ、なんて、大の大人に向ける言葉ではないのかもしれないけれど、彼が気を許してくれた時の表情や仕草はいつだって愛おしく、可愛いと思えてしまうのだ。

「今日は随分お寝坊さんだね」
「たまには、いいでしょう」
「うん、そうだね」

 陽の光に当たり、透き通るような落ち着いた金色の髪を掬う。セットされる前のそれは指通りもよく、さらさらと指の隙間から流れ落ちていく。
 何も言わずにされるがままの彼はぼんやりと私の腕の動きを見つめていた。

「今日の朝ごはんはフレンチトーストだよ」
「……それは、早く起きなきゃいけないな」
「ねえ、今日はお昼寝でもする?」

 彼はゆっくりと上体を起こし私の手を引いてそっと抱き寄せると、優しく髪を撫で、額に口づけを落とした。

「いい休日になりそうだ」
「あ、でもその前にお買い物に行ってもいい?」
「もちろん。帰りに甘いものでも買いますか」
「本当? そうしたら、新しく出来た駅前のケーキ屋さんがいいなあ」

 久しぶりに彼と二人でお出かけ。
 想像しただけで嬉しくなって、無意識に声が弾んでしまったような気がする。彼もそれに気づいたようで、ふっと笑い声を漏らすとぽんぽんと優しく頭を撫でた。
 髪に触れる指も、私を支える腕も、落とされた口づけも。全てが優しく、そしてていねいであった。

「そろそろ起きる?」
「はい。でもその前に」

 うん? と少しだけ首を傾げると、不意に視界が暗くなる。思わず瞼を閉じれば、唇のすぐ隣にぬるい温度。想像した場所と違い、ぱちりと瞼を開けると彼は「おはよう」と柔らかい笑みを浮かべた。

「唇じゃ、ないの」
「それはあとでいっぱいしてあげます」

 少しだけむくれるように口を尖らせれば、彼は私の頬をつんと指先で触れたあと、「ほら、行きますよ」と言って私の腕を引いた。

「もう冷めちゃいましたかね」
「そうしたらレンチンしちゃおう」
「また、作ってくれますか」
「もちろん」

 忙しい日々に埋もれてしまいがちな、何気ない日常。定休日なんてものはない場所に身を置く彼と過ごす朝は甘く、そして穏やかである。寝室からリビングルームに移動するだけの短い間だったが、繋いだ手をどちらも離すことはしなかった。



prev list next

- ナノ -