明けぬ夜を願う

 夜になれば幾らか暑さは和らぐが、それでも肌に纏わりつくような、じっとりとしたぬるい空気は変わらず漂っている。外で鈴虫が鳴こうが、風鈴が小さく音を鳴らそうが、その温度が変わることはない。
 自室から寮の廊下を通り抜け、誰とも会わずに自販機のある場所までたどり着く。もう夜も遅い。おそらく、ほとんどの人は眠っているだろう。
 いやに眩しい自販機の、一番下段。右からふたつ目のボタンを押すと、ガコンと鈍い音と共にキンキンに冷えた缶が落とされる。屈まずにそれを取り出し口から抜き取って、プルタブを開封することなく私はその場から立ち去った。

 寮から少し離れた石畳の階段。
 そこはちょうど寮からも見えず、あまり使われることのない階段だった。ゆっくりとそこに向かって足を進めると、やがて見えてきた広い背中に私は今日も少しだけ胸を撫で下ろした。
 階段の一番上段。背を向けて座る彼の隣に私は何も言わずに腰を下ろす。座っていた彼もまた、何も言わずに視線だけをこちらに向けた。

「今日は?」
「ドクターペッパー」
「好きだね、それ」
「癖になるんだよ」

 それほど時間は経っていないはずなのに缶には既に水滴が付着していた。プシュ、とプルタブを開けて喉へと流し込む。独特な味とぱちぱちと喉で弾ける泡が心地よい。

「飲む?」
「……いや」
「そう」

 彼はこの薬のような、化学的な味は好みではないらしい。それは直接彼から聞いたのではなく、五条から聞いた話なので本当かどうかは定かではないが、一度も受け取ったことはないのでおそらくそういうことなのだろう。
 静寂が私たちを包む。もう何度、こうして夜ここに訪れているかも忘れてしまった。
 きっかけは偶然だった。眠れない夜。外の空気を吸おうと外に出れば、ここに先客がいたのだ。それから約束はしていないけれど、毎日のようにここにいる彼に会いたくて、私は毎晩この場所に足を向けている。
 いつからか。隣にいるはずなのに、彼の気持ちが分からなくなって。居心地がよかったはずの彼の隣が、少しだけ息苦しいと感じるようになって。どうにかしなければと思っていても、私には解決策すら見当もつかなくて。けれど離れるという選択肢も私の中にはいなかった。
 だから初めてここで彼を見つけたとき、酷く悲しかったけれど同時に納得もしてしまった。おそらく私たちは今、生きるのが酷く苦しい。
 毎晩会話は無かったけれど、それでも彼は私を追い返すことはしなかった。いつしかここに現れなくなってしまうかとも思ったがそれもなかった。
 拒まれていないということが今の私には一番嬉しかった。もう互いの気持ちが以前より通じ合っていないことなど、彼だってわかっているはず。それでも隣にいることを許されているうちは彼から離れたくなかった。
 好きだけではどうにもならないこともある。大人がよく言う台詞。それは、こういうことなのだろうか。
 顔を俯けていると不意に薄い影が足元を覆った。誘われるように顔を上げれば、想像よりもうんと近いところに彼の顔が近付いていて、視線が絡む。私は思わず息を呑んだ。
 彼は困ったような、今にも泣いてしまいそうな、そんな表情を浮かべながらも瞳は真っ直ぐと私を射抜いていた。心臓がきゅう、と苦しくなって。まるで焦げてしまいそうなほど、熱くなる。

「す、ぐる、」

 視線を逸らすことも出来ず、しかし喉がからからになってしまったかのように、上手く彼の名前を呼ぶことすら出来ない。
 すると突然、帳が降ろされたかのように視界が黒くなる。それが彼の手のひらによって視界が遮られたせいだと理解するのと同時に、唇に柔らかい感触が伝わった。次第にそれは息を奪うかのように重く、深くなっていく。
 まるで暗い闇に溺れてしまうようであった。しかし、それが彼の望みであるのならば、隣に彼がいるのならば、自然と恐怖はない。
 息つく暇もなく繰り返される口づけに、瞼の奥が熱くなるのを感じた。今までこんな、苦しい口づけなど一度だってしたことがない。たった今新しく垣間見えた彼の姿に胸が締め付けられる思いがした。
 そうしていつの間にか零れ落ちた涙に気づいた様子の彼は視界を覆っていた帳を取り払うと、凍りついたかのように呆然と私を見つめた。視界が滲んで上手く見ることが出来なかったが、すぐさま自分を責め立てるように苦しい表情を浮かべたことはわかった。そしてそのあとに続く言葉が簡単に予測出来てしまった私は、彼が口を開くより先に腕を伸ばしてぎゅう、と彼にしがみついた。

「なにも、言わないで」

 彼は弱々しく「なまえ」と呟いてから、恐る恐る私の背に腕を回した。謝らないで、のつもりで言ったけれど、これでは彼が何を思い、何を考えているのかすら制限しているように聞こえてしまっただろうか。
 不安になって、「違う、そうじゃなくて」としどろもどろになりながら言葉を零していくと、「わかっているよ」と彼は酷く優しい声で答えた。その言葉と声にまた、胸が締め付けられる思いがして、しかしなんと言うべきなのかもわからなくて、彼の首元に回した腕に力を込めることしか出来ない。
 刻一刻と明日あすは近づいており、また朝になれば彼と離れる時間が増える。その間にも彼を襲うなにかが消えることはなく彼の中で生き続け、もしかすれば蝕むように増幅してしまう可能性もある。
 変化し続ける日々の中で今日がもし悪い日であったとしても、今ここに彼と私がいるのなら、それは私にとって最悪の日ではない。それならば、今日が、今が、永遠に続けばいいのにと、願わずにはいられなかった。
 真っ直ぐに下ろされた彼の黒髪をゆっくりと撫でれば、彼は少しだけ体を揺らしたあと抱きすくめるように腕に力を込めた。それがなんだか、まだここにいて欲しいのだと言っているような気がして、また涙が零れそうであった。

「傑」

 彼の耳元で、名前を呼ぶ。彼は少しだけ身じろいだあと、応えるように身を寄せた。

「さっきの、もう一度してほしい」

 再び耳元で小さく呟けば、彼はなにも言わずに再び私の唇を奪った。先ほどとは全く違った、甘い甘い口づけだったけれど、それでもよかった。なんでもよかった。
 ごめんね、傑。
 消えてしまわぬように、ぐっと指を絡ませて、心の中で明日が来なければいいのにと願う。
 ぬるい空気は変わらず私たちを包み、漂っていた。



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